1992年シネイド・オコナーの強硬なプライド
立場が変われば見方も変わる。
何が正しくて何が間違っているのか、
全てを知らずに判断出来るだろうか?
全てを知ることが出来るのだろうか?
強引に答えを出そうとすれば、個人の経験や見地から判断するほかない。
しかし想像することはできる。
そこには自分の知らない何かがあるのでは無いかと。
それは1992年、もう30年も前の話だ。
シネイド・オコナーはテレビの生放送番組で歌唱後にローマ法王の写真を破り捨てるという行動に出た。
当然のごとく信者からの批判がテレビ局に殺到した。そしてその2週間後、シネイドはボブ・ディランの30年記念コンサートに出演したのだが、ステージに現れるとボブ・ディランのために集まったオーディエンスは彼女に向けて一斉にブーイングを浴びせた。
当初はディランの歌を歌う予定だったシネイドだったが、鳴り止まないブーイングを前に急遽アカペラでボブ・マーリーのWARを歌い始めた。
ブーイングを浴びせる人たちにも、写真を破いたシネイドにも、もう少し想像力があったならこんな事態にはならなかったのかもしれない。
世の中には自分には分かり得ないことが沢山あって、人間にはその見えないものを謙虚に想像する力が備わっているはずだ。
自分の思いをぶちまけると、それによって傷つく人が出て来てしまうことが多々ある。
それは自分の知る世界が全てでは無いと言うことの証ではないだろうか。
シネイドがそこまでの行動に出るのにはもちろんそれなりの理由があるが、ブーイングを浴びせた人の中にはシネイドの行動に傷ついた人もいたのかもしれない。
それでもシネイドの覚悟と同じくらいの強い気持ちでブーイングを浴びせた人は、この中にいったいどれくらいいたのだろうか。
真剣な訴えには真剣な批判を。
同じ重さで対峙しなくては失礼というものだ。目の前で誰かが真剣になっているなら、せめてその思いは真剣に受け止めたい。勢いに乗って安全な場所からどさくさ紛れに批判するのは卑怯というものだ。
プライドと言うと何だか高慢ちきな臭いがするが、それは日本語にした時に高いとか低いとか高さの表現になるからだろう。
シネイドのプライドは強硬だ。
この映像を見ながら今更思う。
プライドは高いか低いかではなく、強いか弱いかで表現する方が相応しい。
強く保つからこそ役に立つし、強く保つからこそ凛と前を向くことができる。