桜咲け
今年も春がやって来た。
日本では4月が年度始まりなので、やはりスタートと言う意識が強い。
私も4月からのスタートに向けて、いま何をやっているかと言うと…
この3月で廃業する勤め先のお掃除に明け暮れている。単純労働にひたすら費やされる時間と体力。100年ほどの歴史があるのでそれを片付けるのは容易ではない。
どうやら4月になっても後処理が続きそうだし、年齢的に次の就職先も簡単には決まらないと思われるので、失業後は少しのんびり過ごそうかと思っている。
と書くと優雅な雰囲気だが,実際にはこの先どうしたいのか、まったくビジョンが見えて来ないのだ。
出来ることを仕事にするしかないわけで、では私に何が出来るのだろうかと考えると頭が真っ白になってしまう。
これまで社内で重宝されて来たと言う自負はあるが、いざ売り込む立場になってみると自信を持ってアピール出来るようなものがない。
資格取得に興味がなく、会社が勧めてくれたスキルアップの講習会も頑なに断り続けて来たツケである。
こんな風に思い返してみると、自分の性格が中学生の頃から全く変わっていないなぁと思う。
高校受験の頃、担任の先生からはからはもっと偏差値の高いところを受験するよう勧められたのに、頑なに断り続けた。
ほんの少し良いところに行ってそれが何になるの?
勉強する気が有ればどこに居ても勉強出来るはず。
勉強するのに必要なのは本人の意志であって環境ではない。
そんな考えが根底にあって、それが私を縛り付けていた。そこが今も無意識下で変わっていないのだ。
それが何になるの?という問いかけ。
私が他人なら、もっと気軽に興味のあることを試してみたら?と言うだろう。
それが何になるの?
この答えは、
「楽しい」
これに尽きる。
向上心を遊びとして楽しんでみる。
お金と時間を無駄にして、何にもならないことの自由。
ここを自分に許してあげない限り、私は息苦しいまま死んでゆく事になる。
何を大袈裟な、と思われるかもしれない。
しかし不思議なもので、運命は私にいつも同じ課題を与えてくれる。
好きなことをする。
それが私に与えられた課題。
それは、
「これがやりたい」と言う意思表示。
そしてやりたいことをやる行動力。
たったそれだけのことが出来ないでいる。
そんな価値が自分にはないと思っているからかもしれない。
ここをこれまで逃げて来た。
恐らくクリアできるまで私に付きまとうのだろう。
何かを学ぶならば、それで生きていけるような結果を残さなければならない。
そんなことを誰に言われたわけでもないのに、自分自身に求めてしまっている。
自分には学ぶ価値がないと思っているのかもしれない。
そこに情熱を注ぐだけの見返り。
それが確かでないと動けなくて、先行投資が出来ずに踏みとどまってしまう。そんな自分を私は好きになれない。
なりたい人になる。
そう書いたのは私自身だ。
状況が許しているのに、自分自身で何かしらの出来ない理由を考えている。
私を縛るのはいつも私自身。
ほんの一歩踏み出すことが出来ないでいる。
でも今度は大丈夫。
そう思いたい。
なにより、もう中学生じゃない。
もうすぐ春だ。
春はいつも背中を押してくれる。
たった一歩の無駄に勇気が必要だなんて、考えてみたらバカバカしい話だけれど。
でもはじめの一歩。
春で良かった。