『八月の光』フォークナー (著), 加島祥造 (訳)、アメリカ南部のある時代・社会を描いただけではなく、暴力と性をめぐる人間存在の根源にまで迫っている。というか僕の中の反時代的価値観と深く共鳴したので大好き。
『八月の光』 (新潮文庫) 文庫 – 1967/9/1
フォークナー (著), 加島 祥造 (翻訳)
を読んだのだけれど、Amazonの内容紹介は
八月の光 (光文社古典新訳文庫)
フォークナー (著), 黒原 敏行 (翻訳)
のほうが優れているので、そちらを引用。ちなみにAmazonレビューを読むと、翻訳もこちら新訳の評価が高い。
Amazon内容紹介
新潮文庫もね、本の背表紙の紹介文はまあまあの出来。引用します。
新潮文庫の方もなかなかうまく書けているけれど、ちょっと価値判断が入っちゃっている、偏った解釈が微妙に紹介文に入っちゃっているよな。と僕が感じたのはなぜか、というあたりについて、感想文でつらつら書いていきたいと思うのである。
ここから僕の感想
ここのところ、フォークナー作品を続けて読んできたのは、それはなんとなく体質的に合うというか、好きだなあという感じがしているから。どこが好きなんだろう?
その理由がこの作品を読んでいて、だんだんどんどんはっきりしてきた。
いっぽう、noteに書き続けている僕の世界文学・小説感想文、そもそも世界文学に興味ある人というのが少ないので、僕の感想文についても、ごく少数の固定読者の方が読んでくださっているのだが(いつも本当にありがとうございます。)そんな世界文学読者にして私の感想文読者の方たちの反応も、南米文学やアイルランド文学あたりと較べると、フォークナー作品への反応というのは、なんとなく薄い。「なんで今頃、今さらフォークナーなの??」というような感じなのではないかなあ、と思うのである。
アメリカ文学でいえば、この前読んだタナハシ・コーツ『ウォーター・ダンサー』とか、ちょっと前に読んだ『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』のジャスミン・ウォードらの、現代の黒人作家の書く小説のほうが反応があるような感じがする、アメリカにおける黒人差別周辺を扱った小説であれば。
そう、フォークナーの小説というのは、明らかに「ポリコレという概念が生まれる以前」の、黒人差別、女性差別、暴力丸出し、というのが当たり前だった時代の、そういうものがいいも悪いもなく現実そのものだった南北戦争前から第一次大戦後、第二次大戦前くらいのアメリカ南部を舞台にした内容なんだよな。それらの問題に対して批判的かと言うと、いやあ、否定も肯定もしない、それが現実だったんだから、という書かれ方をしていて、その意味で現代的ではないのである。
でね、だからこそ、そこんところが僕は本当に好きなんだ、ということに、うすうす気づいていたのだが、この『八月の光』を読んでいて、はっきりとそう思いながら読んでいたのでありました。
たとえば、登場人物は、思いきり「暴力」を振るうのだな。別にそれが「差別だ」とか「暴力はいけない」とか全然思っていなくて、親が子どもに、後に子供がだいぶ大きくなるとその仕返しに子供が親を、夫が妻を、恋人愛人同士、男同士、友達同士、同じ人種同士でも異人種間でも、もうそこは殴るかな、と思うところで、思いきりグーで、時には椅子だの棒切れだので、鼻血が出たり一瞬意識が無くなったり、下手すりゃ死ぬぞ、くらいの勢いでぶん殴るなのである。この一冊の小説の中で、別に特別な殺人事件のシーンじゃなくて、日常描写、普通の家族友人恋人夫婦知り合いの間で「ぶん殴り」シーン続出なのである。だって、そういう社会だったんだもん。その通り書いているだけである。
こうなるとね、「奴隷制」とか「黒人差別」とか「女性差別」ということと、「暴力が普通にある社会の問題」というのの関係が、よく分からなくなるのね。いやたいていの場合、白人男性が強者で、黒人や女性に暴力は振るわれるから、それは無関係ではなく絡み合った問題ではあるわけだけれど。
でもなあ、それほど単純な話ではない。話がどんどんズレていくけどね。暴力ということについて書いていく。
ポイント①暴力めぐる考察
アメリカの、ハリウッドの映画で、どうしようもない脇役にして悪役というかこまったちゃんみたいなのが出て来て、映画途中で「こいつなー、まじむかつく」みたいにみんなが思っていた奴のことを、映画の最後の方で主人公かその味方の人が、思いきりバチコーンと殴ってぶっ飛ばして、観客みんな揃って「あースッキリした、あいつのことは絶対、ぶっとばしたいと思っていた」というようなことってあるでしょ。殺しちゃうまではしなくていいけど、ぶっ飛ばされるべきだとみんな感じていた、というやつ。(『タワーリング・インフェルノ』とか『ダイハード』シリーズとかで、あった気がするよな。)
みんながそう感じていて、主人公が最後にそいつのことをバチコーンとぶん殴ってスッキリするっていうことは、暴力にはそういう面があるって言うことなんだよな。「こんな卑怯で最低で卑劣なやつは、こういうことをしたときは、グーでぶん殴ってよし、いやむしろぶん殴られるべきだ」、っていう感覚が、人間にはあるんだと思う。
そして、上の例よりももうちょっと善悪がはっきりしない、よくわからない、どっち向きでもない感情が、暴力になって噴出するということも、人間にはある。この小説では、そういう「善悪のはっきりしない暴力」の噴出がたくさん描かれる。
そもそも僕がここで書いた「善悪のはっきりしない暴力」という言葉自体、「暴力=悪」という考えの人には受け入れがたいでしょう。暴力=悪。
いまどき優勢な考え方というのは、どんな暴力も、「私人同士の間の暴力はすべていけない。話し合いで、言葉で解決すべきで、解決できない時は公的な(実力行使が許される)警察に介入してもらうのが正しい」なわけでしょう。
でもなあ、そういう考え方というのが、なんか人間の本性に反するなあと、僕はきっと思っていたのである。暴力性は人間の一部であって、それ自体は善でも悪でもなくて、ただ暴力性なんだよ。というのが僕の考えなんだな。そしてその暴力性はよく分からない理由で、ときどき噴出するものなんだよ。という僕の考えは、現代では受け入れられにくいのだな。
現代人、現代社会というのは、「暴力は絶対にいけない」をどこまでも徹底していこう、という方向に進んでいるわけだ。学校の先生も、親も、子どもに対して「指導」とか「しつけ」名目でも暴力は絶対ダメ、の方向に進んでいるし、夫婦や恋人の間でどんなに喧嘩になっても暴力になったらそれは「DV」で、男女どっち方向もそれはあってはならないことだし、友人同士が殴り合い、なんていうことももうあってはならないし、そういうふうに今の日本の社会は進んでいる。
もちろん人間が、子どもが、全員が、いきなり卑怯で卑劣でなくなるわけはないけれど、ほんとに頭悪い人、頭悪い子どもたち以外は、イジメるにしても「Lineいじめ」みたいな形で、直接的暴力ではない形でイジメたりするわけだ。昔の子供たちみたいな「グーで殴り合い」みたいなのは減っているのである。
それはいいことなんだろうとは思うんだけどね。でもなあ、この小説の中の、生(なま)な暴力が日常生活の中でときどき噴出する社会が、ちょっと前まで日本にもあったし、どこの国にもあったし、人間にはそういう暴力性があるのだということは、忘れたらいかんと思うのだよな。
何かのきっかけで、すぐにそういうものは復活するよ。例えば日本が東京・関東地方が、大地震に襲われて、警察も自衛隊も機能マヒして、地域の人たちが「自警団」みたいなものを組織する、映画「福田村事件」みたいな状況になったら、人間の持っている暴力性は、どっち方向にどう噴出するか、わからないことになると思うよ。
なんかだいぶ遠回りしたけれど、「奴隷制」とか「黒人差別」とか「女性差別」とかいうことをめぐる問題がこの小説にはものすごくたくさん含まれているけれど、それらと絡まり合い、それらの原因となったり補強要素となったりしている「人間の暴力性のまるまんま、生(なま)のありよう」が描かれている点が、この小説のすごいところ、ポイント①なんだな。
ポイント②「性愛」愛と性と「生殖」妊娠と出産
その①があるということは、その②は何かというと、「愛と性」と「妊娠出産」をめぐる問題が、これまた善悪以前の生(なま)の形でいろんな形で描かれているのだな。
僕はフォークナーという作家の小説を『野生の棕櫚』から読み始めたのだけれど、『野生の棕櫚』というのは、全く別の二つの小説が一章ごとに交代して進んでいくという構成なのね。で、その二つどっちにも妊婦が出てくるんだな。一人は都会的な人妻で、医師の卵の青年と不倫して駆け落ちしているうちに妊娠して、若い医師の卵が堕胎手術を自分でするしない悩む、みたいなことになる。もうひとつは、ミシシッピ川の洪水のときに、救援手伝いに駆り出された囚人が、ボートで洪水に巻き込まれ、一人で大自然、ミシシッピ川を漂流していき、途中で妊婦を拾って二人でボートでさらに漂流して、妊婦は途中で出産する、という話なんだが。つまり、どちらも妊婦が登場する二篇の小説を合わせたのが『野生の棕櫚』なんだわね。
フォークナーの小説では「恋愛」と「性愛」というのの複雑な機微が描かれるのはもちろんなんだが、そのうちの何割かの性愛は妊娠から出産という「生殖」につながり、そしてそれは子供を持ちたい、自分の血のつながった子孫を残したいという、人間の根源的欲望と結びついて描かれていくのだな。「一族の物語」となるわけだ、サーガ(一族の物語)が成立するには愛と性行為と妊娠と出産が必要なのであるな。
現代人の価値観ではぶつ切りになっている「愛と性」と「妊娠・出産」と「一族がどうのこうの、自分の血をつなげていこうという欲求」というのが、ものすごく濃密につながっているさまが描かれているのだわな。話はずれるけど、今の大河ドラマ「光る君へ」なんていうのは「愛と性」と「妊娠・出産」と「自分の血筋で権力を独占していく」ということが直結していた平安貴族の社会のありようをまるまんま描いているわけで、このことはむしろ人間古来の姿、ありようとしては自然だったのだな。ぶつ切りになっている現代人のほうが不自然なんじゃないの、と僕は正直、思っているのである。
この『八月の光』でも、Amazon紹介あらすじでもう分かっている通り、主人公の1人は妊婦だし、もうひとりは「自分に黒人の血が流れている」のではないかという、自分の親がわからない男であり、そういう男の悲惨な人生の重要な部分が性的遍歴と、その行きつく先なのである。
新潮文庫の内容紹介に僕が文句をつけたのはどういうことかというと、「人種&女性差別問題」>「暴力」「性」という感じがしたからなんだな。「南部の因襲と偏見に反逆して自滅する」ということなのかな。うーん。そうなのか。それだけじゃあないだろう。
ポイント①の方で、僕がフォークナーが好きな理由は、僕の中の反時代的な暴力についての考え方が、フォークナーと共鳴したからだというのがまあひとつの結論だったのだが、このポイント②の方は、性についてここで描かれていること、フォークナーの小説で描かれていることが、愛と性は妊娠出産というものにその何割かがつながり、それは男性における「自分の子孫を残したい」という血のつながりへの欲望である、そして女性においてはもっと自然な生き物としての自分の子供を産み育てたいという欲求により動かされていて、そういう男女それぞれ違うけれど、恋愛、性行為、そういうものが妊娠から出産へとつながる「性愛」と「生殖」の関係が、他のいろいろな政治的なテーマの中で、しかしそれらの中に埋もれず強く描かれているのだな。
そのことが僕の価値観、僕の生き方と共鳴したということなのだと思うのだよな。これもまた性愛と生殖について、きわめて反時代的な価値観だから、こんなことを書くと大批判を受けるだろうけれど、どう考えてもそうなのである。
『野生の棕櫚』でも『八月の光』でも、無事に生まれた出産シーンのあたりというのは、ものすごく感動的に描かれていて、そうでないパターンもたくさん含まれている小説だからこそ、そこには人間の、(動物としてのも、含む)の強さと希望みたいなものが集約していて、どちらかというと陰惨な描写の多いこの小説の中での救いとなっている。
暴力についても、性についても、その問題というのは人間の根源的な構成要素であって、それがこの時代の南部の因襲や価値観や社会制度の中で、こういうドラマを作り上げてしまうわけだけれど。
この小説を「社会制度・因襲とそれへの批判」として読むのと、「人間の暴力と性についての根源的描写」として読むのは、それは別の読み方だと思うのだな。どちらを前景として、どちらを根源として読むかという意味で。
というわけで、『八月の光』、アメリカ南部のある時代を描いただけではなく、人間存在の根源にまで迫っているという意味で、これは極めて現代的な小説なのよ、と僕は思ったのであるが。
でもまあ、僕の価値観が反時代的なために、フォークナーと、この小説と強く共鳴してしまったということのようでもあるな。