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『響きと怒り』 (上・下) (岩波文庫) フォークナー (著), 平石 貴樹 新納 卓也 (翻訳) 第二章ってサリンジャー主要作と似てる?(影響を与えたのでは)など、気づくこと考える事たくさんありました。

『響きと怒り』 (上・下) (岩波文庫) 文庫 – 2007/1/16
フォークナー (著), 平石 貴樹 (翻訳), 新納 卓也 (翻訳)

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が、なぜか岩波文庫には無いので、講談社文芸文庫の方の内容紹介

アメリカ南部の名門コンプソン家が、古い伝統と因襲のなかで没落してゆく姿を、生命感あふれる文体と斬新な手法で描いた、連作「ヨクナパトーファ・サーガ」中の最高傑作。 ノーベル賞作家フォークナーが、“自分の臓腑をすっかり書きこんだ”この作品は、アメリカのみならず、20世紀の世界文学にはかり知れない影響を与えた。

講談社文芸文庫版 Amazon内容紹介

ここから僕の感想

 先日読んだフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』の池澤夏樹氏の解説で、架空の町、ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にした多数の小説連作「ヨクナパトーファ・サーガ」を生涯書き続けたということを知り、その初期の傑作として紹介されていた『響きと怒り』を読んでみた。

 『アブサロム、アブサロム!』では、主人公サトペンの一族の物語のことを、生き残り老婆や自分の父親から聞いていく、主に受動的な語り手役として登場していた、クウェンティン・コンブソン。そのコンブソンの家族を主人公にした作品がこの『響きと怒り』である。クウェンティンはじめコンブソン一家の物語である。

以下、ネタバレあり。要注意。

 池澤氏のその解説で、実は『響きと怒り』のおおまかなあらすじと構成の特徴(章ごとに語り手が変わる)、構成は明かされてしまっているので、いちおうのことは分かっている状態で読み始めたのだが。というか、クウェンティンが、二章では自殺してしまうらしいという重大ネタバレも池澤解説で既に知ってしまって読み始めたのだが。それでもひどく難解な、分かりにくい小説である。それは、語りの方法が、ひどく凝っていて実験的だからである。

 まず第一章が、クウェンティンの弟で知的障害のあるベンジャミンの意識の流れをそのまま記述するという方法で語られる。記憶が方々に飛び、時間軸も大きく何十年も飛ぶかと思うと、ベンジャミンの聴覚や嗅覚や視覚に映ずるものをそのまま記述していったりする。これが恐ろしく分かりにくい。

 実は上巻巻末に、この一章の出来事を年代別・誰のどういう事件事柄を描いているのか整理をした親切な図表資料がついているのだが、ひとまずそれも註も見ないで読んでみた。池澤氏解説の事実だけはすでにいろいろ頭に入っているわけで、それと本文だけで人物や時代のいったりきたりを自分で理解把握しようとした。大変だったが、おおよそ理解はできた。

 というのは、この本もそうだが、最新の岩波文庫版で『白鯨』を読んだとき、船の構造から公開マップから、主要人物紹介から、ものすごく親切な資料がガッツリついていて、たしかに分かりやすかったのだが、文章から何が読み取れるかということに関して、ちょっと甘えすぎたかなという反省もあったので。この『響きと怒り』でも、コンブソン家付近の見取り図から、間取り図、クウェンティンのボストン移動地図までついているのである。研究者の執念の資料、まるごと転載していただいている感じで、すごくありがたいのだが、一旦は文章だけと向き合おうと思った次第。

 そして、ちょいと上で書いてしまったが、第二章は、クウェンティンのハーヴァード大学の寮と、ボストンの街をさまよい歩く一日の話である。

 これが、なんというか、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』と『バナナフィッシュに最適な日』、このふたつを合わせたような、「ああ、サリンジャーはこれに影響を受けたのか」と思わずにいられないような内容と叙述のスタイルなのである。ためしに「サリンジャーとフォークナー」とGoogleで調べてみたのだが、二人の、この作品とライ麦とバナナフィッシュの直接の関係を論じた日本語の文献やブログみたいなものはヒットしなかった。

 ひとつだけ、アメブロ「豆豆先生の研究室」という方のブログの「サリンジャーとマーク・トウェイン」という記事で触れられている。リンクを勝手にはるのも何かと思ったのだが、上記キーワードでググってもらえば出てくると思います。
 それによると、 サリンジャー選集(3)『倒錯の森』大竹勝氏の巻末解説に、サリンジャーはマークトゥエインに強い影響を受けたということを記述した上で、フォークナーにも影響を受けたという記述があるそうである。サリンジャー選集、全巻持っていたはずだが、本棚を見ると二巻と別冊しかない。三巻は見つからない。うむむ。

 しかし、この第二章、どう読んでもサリンジャーに影響を与えているように思うよな。そして、この『響きと怒り』も、グラース家の兄弟のような繊細な天才ぞろいではないが、ハーヴァードに行ったが自殺するクウェンティン、田舎町に残され鬱屈する弟ジェイソン、知的障害を抱えるベンジャミン、男性関係に問題を抱えて家出する妹キャディという兄弟妹とその親、そしてこの場合はその白人家族が抱える黒人使用人家族たちの物語てあって、サリンジャーのグラース家サーガとは全体の印象はずいぶん違うのだが、少なくともこのクウェンティンが語り手であり、ハーヴァードの寮を出てボストンの街をさまよい歩き、少女を拾って連れまわし、そして自殺をしようとするこの二章、いちじるしく、サリンジャーぽいのである。

 三章の田舎に残され鬱屈するジェイソンが語り手の章は、その乱暴さに読んでいてもうとても暗い気持ちになるのだが、ここにきて南北戦争後、衰退していく南部の町で、奴隷制こそ廃止されたものの、使用人としての黒人とともに暮らす白人家族、奴隷制ではなくなったが厳然と身分制度が残る社会の在り方は、差別をはらんでそのまま継続している。そういうアメリカ南部の田舎町の社会の在り方を鮮明に描き出す。

 ジェイソンは、小金をごまかして手に入れては、穀物市場への投資するが、結局は損を重ている。そうか舞台時代は1928年、大恐慌の前年で、投資熱というものが都会だけでなく、南部の田舎町のさして豊かでない人たちまで広がっていた様を生々しく伝えてくる。

 一章が知的障害を持つ人の意識の流れをそのまま記述するという前衛的手法で、家族のはらむ複雑な問題をモザイクのように分かりにくいまま提示する。

 二章では家族の中いちばん繊細なインテリであるクウェンティンが家族兄弟との関係、特に妹との関係に悩んで自殺を考えて街をさまよう。知的自意識の持ち主の独白である。

 三章は、南部の田舎町で鬱屈を持って暮らす、より荒々しい恨みや劣等感を持った白人としてのジェイソンの独白である。

 四章は、神の視点、すべての人の内面に自由に入りながら、特に黒人の老いた家政婦として、コンブソン家を支えてきたディルシーや、その孫の黒人少年ラスター(家の雑用から、特に知的障害を持つ33歳なのに3歳並みの知能で、すぐにパニックになったり泣きわめいたりするベンジャミンの世話をやくのは、少年ラスターである)、こうした黒人の使用人たちの内面にも出たり入ったりして、家族・この地域のことを描いていくのである。

 この前『アプロサム、アプロサム!』の感想でも書いたけれど、現代の作家がこの時期の南部のことを書くと、それは作者の人種立場に関わりなく、どうしても黒人差別問題への批判という視点に規定されて、その「現代における政治的正しさ」から当時の社会を、人のあり方を、個人の気持ちを描くということになってしまうように思われる。

 それに対して、フォークナーの小説は、南部に生まれ育ち暮らした白人の視点から見た当時の社会の在り方、その考え方や感じ方、黒人に対しての認識や扱い方、そういうものが、そのまま、その時点での(白人としての感じ方捉え方)そのままに書かれているように感じられる。差別がいいとか悪いとか以前に、そうだったのだ、というそのものが詳細に深く描かれる。そのことの迫力というのが、なんというかこの小説を読む楽しみの中心にある。

 その上で、女性の問題、性とか結婚とか。知的障碍者の問題。家族で見るのか施設に入れるのか、地域が受容するのかしないのか。そして黒人差別の問題。都市と田舎の問題。南部と北部の問題。仕事と経済とお金と「投資」の問題。教育を受けて都会に出られるものと、田舎地元に残って生きるものの問題。

 その当時だけではなく、今に続く、今もそのまま残っている、そういう問題が、生々しく、すべて架空の町の架空の家族、人達の物語として創造されているのである。

 小説っていうのは、小説家っていうのは、そういう「ある時代の社会そのものとそこで生きるいろんな人」全体を、自分の文章で創造したいという欲求を持つものなんだな。イギリスのジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』を読んだときもそう思ったが。すごい力業である。

 読むのはかなり根性がいるけれど、ハマる人はハマると思うぞ、フォークナー。


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