『喉に棲むあるひとりの幽霊』 デーリン・ニグリオファ (著), 吉田 育未 (訳) 詩と多産と母乳授乳育児と夫婦の愛。200年以上離れた二人の女性詩人の人生の共鳴。そういうことを軸に感想を書いたのが老人男性である私ということをめぐる、いろいろ。
『喉に棲むあるひとりの幽霊』
デーリン・ニグリオファ (著), 吉田 育未 (翻訳)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
感想文は書くのよそうかな。ものすごく良かったんだけど、じいさんが感想文を書くべき本でない、と考える人がいるだろうからな。
①今年初めに感想文を書いた『エタンプの預言者』(アベルカンタン著)は、白人老人元大学教授が、黒人詩人の評伝を、黒人性を軽視するように書いたとして、活動家から批判され炎上するという話だった。
②今年の大河ドラマ『べらぼう』は吉原遊郭を舞台にしていて、そこでの遊女たちの描き方などについて、フェミニズム批評的視点から厳しい批判が出て、議論が巻き起こっている。それについては去年の「光る君へ」を語るように楽しくは語れない緊迫感が世の中に生じてしまっている。
③初詣でひいたおみくじが最悪で、今年は何事も慎重にしないとダメですよ、という内容だった。
という中でこの本を読んでいたのである。素直に思ったことを書いたら、大変なことになりそうな気がする。感想書くのやめようかな。と思ったのだが。
でも、あらゆる仕事を全部やめて、読書と感想文書きだけやっていくと決めたわけだから、逃げちゃいかんよな。ということで、書きました。
これはある女のテクストである。
この本は「これはある女のテクストである。」の一文から始まるのである。女性のテクストと、女性の身体と、女性の人生について書かれている。
現代の女性詩人である作者が、18世紀後半(ちょうど日本では大河「べらぼう」の頃だな)を生きた女性詩人アイリーン・ドブの詩(哀歌)と人生をおいかけた記録である。
18世紀のアイルランド貴婦人アイリーン・ドブ・ニコルは、夫を殺された悲しみを哀歌(クイネ)として歌った。(日本では女性文学者の日記も歌も小説も、平安文学からきちんと文字で残っているのだが)、アイルランドでは、女性の文学、詩は、女性による口伝でしか残されてこなかった。口伝されたものを文字に起こされたのは19世紀になってから。
アイリーン・ドブの人生の軌跡も、男性(夫や息子たち、そのまた息子たち親戚の男たちの生涯の記録)の中に、影のようにおぼろにしか存在しない。アイリーン自身についての記録、どう生き、どこでどう死んだのかは、ほとんど残っていない。
こういう女性の「文字には残されなかった歌」と、「文字に残されなかった人生の記録」。影のように扱われた女性の言葉と人生。
作者はふたつの欲望を抱く
①「歌を(アイルランド古語で書かれている)自分で訳したい」
②「アイリーン・ドブの人生を知りたい、その痕跡をどんなちいさなことでも知りたい、手に入れたい」
という思いに駆られた女性詩人の、日記のような、散文詩のような、エッセイのような、そういう作品である。
しかも、作者語り手デーリン・ニグフォリファは三人の幼い男の子を育てる家事に追われており、作品が進む中で、さらに四人目の女の子を妊娠、未熟児で出産、育児をしていく。という、常にやることがたくさんあり、睡眠は細切れでいつも寝不足、そういう生活の中で、アイリーン・ドブの歌と人生を追い求めていくのである。
と書いてくれば、これはすごく、さまざまに低い地位に置かれ軽く扱われ苦行を背負わされた女性についての、「フェミニズム批評」視点で語りたいというか、「女のテクストである」と書き始められているのだから、そう語ること以外、許されない雰囲気が漂うのだが。
そういうものを、おっさん、じいさんが勝手な視点で語るなよと。
いや、しかしなあ、それはそんな一筋縄にはいかないのだよな、と僕は思うのだが。僕にだって僕なりの感じ方がある。「男」とか「おっさん」とか「じいさん」という一般化された属性ではなく、どういう人生をいきてきたかの個別の存在として、思うこと、感想はある。感想文なんだから、感想を書くのである。
文章が、哀歌が、どう語られ始めるか、に注目しても、アイリーン・ダブと作者を共鳴されたのは、まずは強烈な夫への「愛と欲望と人生のパートナーとしてのかけがえのない気持ち」、そして「妊娠出産子育てを短いサイクルでつぎつぎ繰り返している女性の生活と身体への共感」、このふたつがともに「詩」を歌う女性として共鳴しているのである。
僕が男だから、勝手にそう思っている、わけではないと思う。事実に沿って、ダブの哀歌をちゃんと読もう。35連あるドブの哀歌、その各連の冒頭の多くは死んだ夫への呼びかけで始まる。ほんとに、「私の片割れ」を奪われた怒りと悲しみの歌なのである。ちゃんと読もう。
殺されてしまった、ゆらぐことのない私の片割れ、夫、アートに呼びかける哀歌なのである。
一方、本書冒頭、作者の生活の描写は、作者の夫への思いで自らを語る部分は始まる。
そしてダブの哀歌には、まさか今生の別れになるとは思わなかった夫の出発のシーンも歌われている
この対応関係、人生の片割れである夫が出かけていく瞬間の気持ち。
この本は「女性」のテクストだから、女性のものだ、というのも事実だけれど、そこをはみ出している部分もたくさんあるのである。フェミニズム批評をしたい人は、そちらからいくらでも批評分析をすればいいと思う。しかし、ぼくははみ出している部分の方について、語る。そっちの感想を書く。
読んでいる間に、一瞬、「多産DV」がツイッターでトレンドワードになったりした。
話がとんでもない方に飛ぶが、「多産DV」という言葉がある。最近、特に語られることが多くなっている。たくさん子どもがいる家庭では、夫がDV夫で、妻が望まないのにどんどん子供を作ってしまう。そもそもの夫婦の関係に性的にも、それ以前の夫婦の間の関係にもDVがある可能性が高い。だから多産の夫婦に対しては、産婦人科のお医者さんなんかも「多産DVなんじゃないか」と疑う。みたいなことだな。
ちょうどこの本を読んでいる間に、子だくさん家庭の妻が、DV夫から逃れてうんぬんというニュースが流れて、「多産DV」がツイッターのトレンドワードになった。
でね、我が家は六人子供がいるわけだが、我が家のことも「多産DV」なんではないか、私がひどいDV夫なんじゃないか、という目で見る人はいる。いるよなあ。そういうことをここ最近、時折、感じる。のである。
少子化をなんとかしないといけないっていうのをみんな真剣に論じているのに、その一方で、子だくさんの家庭を、そこはそれぞれの家庭ごとに多産になっている理由事情夫婦関係は様々であるにもかかわらず、「多産DV」っていう言葉が流通する中で、「子だくさん=多産DV」みたいに批判する人が出てくる、どうなっているんだよ、と僕は正直、思う。多産DVではない幸福な多産というものがあるということは許さない、みたいなかんじ。なんなんだろう。
たしかにそういうDV家庭もあるだろうけれど、多産になる家庭には、経験しない人には分からない、ある欲望と生活のサイクルのようなものがあるのだ。そのプロセスの中に、たしかに微妙ないろいろな問題はあるのだけれど、それを「男性がDV、モラハラ、しょうもないやつ」「多産女性は望まないのに無理やり生まされている被害者」という視点に単純化されて語られてもなあ、という複雑な思いが僕にはある。
この本の語り手は、本のはじめでは三人の子どもを育て、話が進むと、四人目を妊娠出産育児へと進む。彼女はここ10年、ほぼずっと妊娠しているか、授乳している。ずっとそうだ。我が家の妻の場合、20年近く、そうだった。妊娠も出産授乳も、女性にとって苦行だから被害者、「多産DV」って言葉を得て、フェミニズムの人たちが「ひどいひどい」というわけである。
この状態について、なんでそういうことになるの。ということを、「多産DV」という言葉ではなく、その女性の視点立場から、これほど真正面から描いている文学というのは、これはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』と並んで、すごく珍しいと思う。
『灯台へ』の僕の感想文から引用する。
でね、こっちの本では、最後のほうで、作者はこう書いている。
いや、この本のもっと前の部分で、より詳しくこの「子供を産むという麻薬」と「授乳愛」について、すごくいろいろと詳細に書いているのだな。
日本でもすごくよくある「出産」→「痛いし授乳寝不足で疲れはてているしまだ全然セックスしたくないからというのが続いているうちにセックスレス常態化」で子供一人で終わるパターンと、そうではなくて、多産になるその分岐点であろう心理と行動について、この作者、もののみごとに書いている。そこにはたしかに過程において「多産DV的」と取れる夫婦の心理・関係も含まれて入る。しかし、その言葉概念の中には全部は収まらない。女性側の心と体の微妙な経緯、そのことをこの作者がものすごく上手に書いているところがあるから長いけれど、引用する。
こうして読むとさ、まさにこの出産後のセックスの、肉体的な痛み苦痛だけではない、愛をめぐる作者の苦しみと混乱こそが、アイリーン・ドブの詩と人生を強く結びつけるきっかけになっているのだよな。本書の中ですごく大事なところなのである。
授乳・母乳というもうひとつの重要テーマを経て、再び妊娠出産へとつながる、多産サイクル。それは「夫DVのせい」ではなくて、授乳と女性ホルモン分泌の関係による、女性の心理と体の劇的な変化がつながるようになるから。ということも、この作者はとても上手に表現している。
さっきの引用部分、第三子出産の後の話で、作者はこのとき、これだけ疲れているのに、さらに母乳を子どもに飲ませるだけではなく、母乳バンクに搾乳して送るというボランティアもしていたのだな。それから数か月後の記述。
ここに書かれていることの中には、「多産DV」という言葉、概念には包含しきれない、いろんな要素がある。というのは伝わっただろうか。
さきほどの引用の続きで作者はこう書く
妊娠出産が女性の身体に大きな負担をかけることは分った上で、それがまた「男性からのDV強要」としてではなく、快楽の回路として欲望されるということを作者は分かっているから、最後の方で「子供を産むという麻薬」と書いているのである。
作者は四人、うちの妻は六人も子供を産み、しかも全部母乳で育てることにこだわり(この本では、「母乳神話なんちゃら」なんてこととは全く関係なく、この作者、とにかく授乳したり母乳を搾乳したり、そういうことが作者にとってはすごく大事なことなのだということがずっと語られ続けていく。それはもうそうなんだから仕方がない。そして、我が家でも初めのうちは人工乳も多少併用していたが、育児の中盤戦から後半戦の15年間くらいは、もうほぼ100%母乳育児である。しかもなかなか断乳しない、三歳まで母乳を飲み続けた子も何人もいる。母乳神話がどうのこうの関係ないのである。いろんな実際のメリットが積み重なって、それは気持ちと利便性と楽しさとかわいさと気持ちよさと、なんかそういうことである。この本の中でも4番目の女の子、だいぶおっきくなるまで母乳飲んでいて、やめるシーンがなかなか、そうだよなあって思いながら読んだ。その、理屈でない感じ、というのが、この本ではすごくうまく書かれている。
この、本書での母乳授乳についてすごく克明に書かれている「授乳愛」、多産、たくさんの子育ての間、ずっと執着した経験をした女の人、日本では最近、ほんとに少ないだろう。
出産→授乳開始(寝られないへとへとボロボロ)→授乳しながら性交再開(再開直後は苦痛)→疲労寝不足の日常の中の育児の楽しさ→からのいろいろ突然性交の快楽まで強烈に復活→また赤ちゃん欲しくなるからの妊娠、というサイクル。その苦痛と苦行と欲望と快楽のサイクル。それが、作者もさっき引用したところでもあったように、授乳量の減少に伴うホルモンバランスの劇的変化とともに起きる。だから、本書が書いているような「性交から妊娠出産から授乳育児家事の朦朧とするほどの過酷な毎日からの性交快楽復活」の全体像を、夫への愛情や気持ちの変化のサイクルと体調の変化とともに克明に記録しているというのは、なんかほんとうに稀少で貴重。
もうそれは本当にからだも気持ちも劇的に変化する、その体験全体を、何度でも繰り返したくなる、そういう境地認識に、子だくさんお母さんはの一部、作者とかうちの妻とかは、到達しているのである。
ウソじゃなくて、『灯台への感想文でも書いたけれど、』妻は62歳の今でも「昔ばなしみたいに、おばあさんなのに、また赤ちゃんできないかなあ」ってよく言う。作者の言う「出産という麻薬」と「授乳愛」による「もっと家族を増やしたい」欲望が女性側にも働くのである。
そんなの、やった本人にしかほんとのところは分からないと思う。この本の作者や、うちの妻のような人にしか分からないと思う。『灯台へ』感想でも書いたけど、多産家庭小説のこういう出産授乳まわりの濃密な体験というのは、今読むとよくわからない昔や外国の文学表現と思うかもしれないけれど、これは「幻想的な文学的な想像」なんかではなくて、ものすごく生々しいなリアリティの話として書かれている。と僕は読んでしまうのだな。だって目の前で20年間くらい展開して、そこに役立たずながら参加してともに生きていたわけだから。
とはいえ僕ももちろんほんとのところは分からないけれど、それにしたって、このことについて、男も女もなく、わかんない人、想像もつかない人がほとんどじゃん。現代日本人だとさ。
そもそも、18世紀のアイリーン・ドブも、二人の男の子、3歳と1歳を育て、さらに三人目を妊娠中の28歳くらいのときに、夫を殺されているのだな。だから、作者とアイリーン・ドブの共鳴は、夫への愛と、育児と妊娠・出産・授乳が一体となっての、そういう人生と幸福への共鳴が、作者とドブの間にあるのだ。だからこそ、それが突然断ち切られたドブの哀歌が、作者にリアルに響いてしまうのであろう。
小説じゃないのだが、結末はなかなかびっくりな展開になる。
作者の「ドブの人生を知りたい」という欲望にも、「もっと赤ちゃんが欲しい、家族をもっと増やしたい」という欲望にも、この本、終盤での展開、というのは「え、そうなの」という結末になる。ラストはいろいろ、「そうかあ」ってなります。これまで上で書いて考えてきた「多産育児が女性に過酷である」ということに、作者自身がではなく、この夫婦が、夫のほうがどういうふうに考え行動するか、ということ。それを作者がどう感じ、受け止めるかということ。結末近くのそのあたり、なんだか、いろいろ、思いました。読んでみてね。興味のある人は。
それ以外、いろいろと印象に残る。
太い筋は、上で書いたような出産授乳育児生活の中でドブの痕跡を追い求めていく話なんだけれど、章によって、話題、出来事はあっちこっちにいって、短篇小説のようだったり随筆の様だったり、過去の回想だったり、それぞれが印象深い。
若い時、歯医者さんになろうとして、歯学部にはいって、.人体解剖の実習の途中で脱落して、先生になってという経歴を語るのだが、その解剖実習をまつわる話とか。
交通事故をめぐる、人を助けようと思うと、思わず頭より行動が先走ってしまうエピソードも、この人の人となり、この作品全体のテーマと響き合って印象深い。
それから、ドブの足跡を追って、アイルランドの中のいろんなところを訪ねて回るのだが、「どんなところかな」とグーグルアースとか旅行関係のサイトなんかを見てみると、これがまあ、素敵な場所なんだな。アイルランドってきれいな国だなあ。
歴史を調べて行っても、殺された夫、アートも、その子孫・親戚も、けっこう、突発的にはちゃめちゃな行動をする人ばかりで、これはこの一族の特質なのか、アイルランド人の中でこういうタイプは「面白い魅力的な人」と思われるのか。日本だったら「困った人だな」だと思うけれど。この作者もそうだな。激情で突っ走るタイプ。
そういうアイルランドの歴史と風土と人々の気質について、そういうことを考えたり調べたりしながら読むのもまた楽しい。
アイルランドの言葉(ゲール語)で歌われた哀歌、アイルランド人でも日常生活でゲール語を使う人はごく一部の地域にしかいなくて、ゲール語=学校で習う言葉、んだそうだ。だからおそらく哀歌も、こまかなニュアンスまで理解できる人は少ないからこそ「訳して見たい(英語に)という欲望」に作者は駆られるわけなんだと思う。
そして、アイリーン・ドブの夫が殺されたのも、英国によるアイルランド植民地支配の中で起きた悲劇であることが作中、紹介されている。アイルランドが人口のわりに、あまりにたくさんの面白い文学作品を現代においても生み続ける、その様々な要素、源が、豊かに詰まった作品でもある。
この本、「女性の、女性による、女性についての」という視点で論じるのが当然メインにはなるのだけれど、「アイルランドの」っていう論じ方も、すると面白いよなあ。
いろんなことを書いたけれど、一冊の本で、これだけいろんなことを感想文として書けちゃう、ということは、それくらい、なんだかいろんなものが詰まった本だったということなのである。