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『喉に棲むあるひとりの幽霊』 デーリン・ニグリオファ (著), 吉田 育未 (訳) 詩と多産と母乳授乳育児と夫婦の愛。200年以上離れた二人の女性詩人の人生の共鳴。そういうことを軸に感想を書いたのが老人男性である私ということをめぐる、いろいろ。

『喉に棲むあるひとりの幽霊』 
デーリン・ニグリオファ (著), 吉田 育未 (翻訳)

Amazon内容紹介

アイルランドの俊英詩人による、鮮烈な散文デビュー作。
18世紀に実在した詩人と著者自身の人生が入りまじる、新しいアイルランド文学。
「数年に一度の傑作。ジャンルや形式の明確な定義をことごとく消し去った」
《アイリッシュ・インディペンデント》

 恋をした。その人は18世紀の詩人だった――。
殺害された夫の死体を発見した貴婦人アイリーン・ドブ・ニコネル(18世紀アイルランドに実在)は、その血を手ですくって飲み、深い悲しみから哀歌(クイネ)を歌った。アイリーン・ドブの詩は何世紀にもわたって旅をし、3人の子どもと夫とともに暮らす、ある母親のもとにたどり着く。家事、育児、度重なる引っ越しの両立に疲れ果てた彼女は、自身の人生と共鳴するアイリーン・ドブの世界に夢中になり、やがて彼女の日常を詩が侵食し始める――。
他者の声を解放することで自らの声を発見していく過程を描き、《ニューヨーク・タイムズ》ほか各紙で話題となった、日記、哀歌、翻訳、詩人たちの人生が混交する、異色の散文作品(オートフィクション)。

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ここから僕の感想

 感想文は書くのよそうかな。ものすごく良かったんだけど、じいさんが感想文を書くべき本でない、と考える人がいるだろうからな。

①今年初めに感想文を書いた『エタンプの預言者』(アベルカンタン著)は、白人老人元大学教授が、黒人詩人の評伝を、黒人性を軽視するように書いたとして、活動家から批判され炎上するという話だった。
②今年の大河ドラマ『べらぼう』は吉原遊郭を舞台にしていて、そこでの遊女たちの描き方などについて、フェミニズム批評的視点から厳しい批判が出て、議論が巻き起こっている。それについては去年の「光る君へ」を語るように楽しくは語れない緊迫感が世の中に生じてしまっている。
③初詣でひいたおみくじが最悪で、今年は何事も慎重にしないとダメですよ、という内容だった。

 という中でこの本を読んでいたのである。素直に思ったことを書いたら、大変なことになりそうな気がする。感想書くのやめようかな。と思ったのだが。

 でも、あらゆる仕事を全部やめて、読書と感想文書きだけやっていくと決めたわけだから、逃げちゃいかんよな。ということで、書きました。

これはある女のテクストである。

 この本は「これはある女のテクストである。」の一文から始まるのである。女性のテクストと、女性の身体と、女性の人生について書かれている。

 現代の女性詩人である作者が、18世紀後半(ちょうど日本では大河「べらぼう」の頃だな)を生きた女性詩人アイリーン・ドブの詩(哀歌)と人生をおいかけた記録である。

 18世紀のアイルランド貴婦人アイリーン・ドブ・ニコルは、夫を殺された悲しみを哀歌(クイネ)として歌った。(日本では女性文学者の日記も歌も小説も、平安文学からきちんと文字で残っているのだが)、アイルランドでは、女性の文学、詩は、女性による口伝でしか残されてこなかった。口伝されたものを文字に起こされたのは19世紀になってから。

 アイリーン・ドブの人生の軌跡も、男性(夫や息子たち、そのまた息子たち親戚の男たちの生涯の記録)の中に、影のようにおぼろにしか存在しない。アイリーン自身についての記録、どう生き、どこでどう死んだのかは、ほとんど残っていない。

 こういう女性の「文字には残されなかった歌」と、「文字に残されなかった人生の記録」。影のように扱われた女性の言葉と人生。

 作者はふたつの欲望を抱く
①「歌を(アイルランド古語で書かれている)自分で訳したい」
②「アイリーン・ドブの人生を知りたい、その痕跡をどんなちいさなことでも知りたい、手に入れたい」

 という思いに駆られた女性詩人の、日記のような、散文詩のような、エッセイのような、そういう作品である。

 しかも、作者語り手デーリン・ニグフォリファは三人の幼い男の子を育てる家事に追われており、作品が進む中で、さらに四人目の女の子を妊娠、未熟児で出産、育児をしていく。という、常にやることがたくさんあり、睡眠は細切れでいつも寝不足、そういう生活の中で、アイリーン・ドブの歌と人生を追い求めていくのである。

 と書いてくれば、これはすごく、さまざまに低い地位に置かれ軽く扱われ苦行を背負わされた女性についての、「フェミニズム批評」視点で語りたいというか、「女のテクストである」と書き始められているのだから、そう語ること以外、許されない雰囲気が漂うのだが。

 そういうものを、おっさん、じいさんが勝手な視点で語るなよと。

 いや、しかしなあ、それはそんな一筋縄にはいかないのだよな、と僕は思うのだが。僕にだって僕なりの感じ方がある。「男」とか「おっさん」とか「じいさん」という一般化された属性ではなく、どういう人生をいきてきたかの個別の存在として、思うこと、感想はある。感想文なんだから、感想を書くのである。

 文章が、哀歌が、どう語られ始めるか、に注目しても、アイリーン・ダブと作者を共鳴されたのは、まずは強烈な夫への「愛と欲望と人生のパートナーとしてのかけがえのない気持ち」、そして「妊娠出産子育てを短いサイクルでつぎつぎ繰り返している女性の生活と身体への共感」、このふたつがともに「詩」を歌う女性として共鳴しているのである。

 僕が男だから、勝手にそう思っている、わけではないと思う。事実に沿って、ダブの哀歌をちゃんと読もう。35連あるドブの哀歌、その各連の冒頭の多くは死んだ夫への呼びかけで始まる。ほんとに、「私の片割れ」を奪われた怒りと悲しみの歌なのである。ちゃんと読もう。

1 「O my Beloved, steadfast and true」おお親愛なる、揺るぎないお方
3 「O my companion, steadfast and true〉おお私の片割れ、揺るぎなきお方
5 「O my stedy companion」おお揺らぐことのない私の片割れ

アート・オレイリーのための哀歌

 殺されてしまった、ゆらぐことのない私の片割れ、夫、アートに呼びかける哀歌なのである。

一方、本書冒頭、作者の生活の描写は、作者の夫への思いで自らを語る部分は始まる。

 わたしの朝はいつも同じだ。夫にキスをする。胸がきゅっと痛むーーもう何度繰り返したか分からないのに、見送りのたびに恋しくてたまらなくなる。夫のオートバイのエンジン音が遠くで響き、私の耳に届くころ、わたしはすでにその日の労働に取り掛かっている

本文 P-8

 そしてダブの哀歌には、まさか今生の別れになるとは思わなかった夫の出発のシーンも歌われている

おお、友よ、わたしのよろこびよ!
門を通り、去る前に
あなたはさっと振り返り
ふたりの子にキスをした
わたしには、手のひらの真ん中に。
あなたは言った「聞け、アイリーン。
大事は簡潔に片付け
妥協せずに、素早く動くが肝心。
しばらく家を離れる。
もう二度と、戻らないかもしれない」
おお、わたしは真に受けずに笑った。
同じようないいつけをいつも、あなたは残していったから。

アート・オレイリーのための哀歌 十九(p-20)

  この対応関係、人生の片割れである夫が出かけていく瞬間の気持ち。

 この本は「女性」のテクストだから、女性のものだ、というのも事実だけれど、そこをはみ出している部分もたくさんあるのである。フェミニズム批評をしたい人は、そちらからいくらでも批評分析をすればいいと思う。しかし、ぼくははみ出している部分の方について、語る。そっちの感想を書く。

読んでいる間に、一瞬、「多産DV」がツイッターでトレンドワードになったりした。

 話がとんでもない方に飛ぶが、「多産DV」という言葉がある。最近、特に語られることが多くなっている。たくさん子どもがいる家庭では、夫がDV夫で、妻が望まないのにどんどん子供を作ってしまう。そもそもの夫婦の関係に性的にも、それ以前の夫婦の間の関係にもDVがある可能性が高い。だから多産の夫婦に対しては、産婦人科のお医者さんなんかも「多産DVなんじゃないか」と疑う。みたいなことだな。

 ちょうどこの本を読んでいる間に、子だくさん家庭の妻が、DV夫から逃れてうんぬんというニュースが流れて、「多産DV」がツイッターのトレンドワードになった。

 でね、我が家は六人子供がいるわけだが、我が家のことも「多産DV」なんではないか、私がひどいDV夫なんじゃないか、という目で見る人はいる。いるよなあ。そういうことをここ最近、時折、感じる。のである。

 少子化をなんとかしないといけないっていうのをみんな真剣に論じているのに、その一方で、子だくさんの家庭を、そこはそれぞれの家庭ごとに多産になっている理由事情夫婦関係は様々であるにもかかわらず、「多産DV」っていう言葉が流通する中で、「子だくさん=多産DV」みたいに批判する人が出てくる、どうなっているんだよ、と僕は正直、思う。多産DVではない幸福な多産というものがあるということは許さない、みたいなかんじ。なんなんだろう。

 たしかにそういうDV家庭もあるだろうけれど、多産になる家庭には、経験しない人には分からない、ある欲望と生活のサイクルのようなものがあるのだ。そのプロセスの中に、たしかに微妙ないろいろな問題はあるのだけれど、それを「男性がDV、モラハラ、しょうもないやつ」「多産女性は望まないのに無理やり生まされている被害者」という視点に単純化されて語られてもなあ、という複雑な思いが僕にはある。

 この本の語り手は、本のはじめでは三人の子どもを育て、話が進むと、四人目を妊娠出産育児へと進む。彼女はここ10年、ほぼずっと妊娠しているか、授乳している。ずっとそうだ。我が家の妻の場合、20年近く、そうだった。妊娠も出産授乳も、女性にとって苦行だから被害者、「多産DV」って言葉を得て、フェミニズムの人たちが「ひどいひどい」というわけである。

 この状態について、なんでそういうことになるの。ということを、「多産DV」という言葉ではなく、その女性の視点立場から、これほど真正面から描いている文学というのは、これはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』と並んで、すごく珍しいと思う。

『灯台へ』の僕の感想文から引用する。

そもそも、今どきの人の感覚として「なんでそんなにたくさん子ども作るのよ。頭おかしいんじゃない?」という感想しかないと思うのだが、僕が妻といつもこっそり話しては納得しあっている、いまどきの人には分からない、なんでこんなにつぎつぎ子供を作っちゃったかの理由、というのが、なーんと、この小説のラムジー夫人の気持ちとして、いつも僕と妻が話しているそのまんまの気持ちとして書かれていたのである。その部分、引用しますね。
《それにしても、と夫人は、ジェイムズの頭にあごを押しあてながら思う。どうして子どもたちの成長はこんなに早いのか?どうして学校に行かなきゃならないのか?夫人はいつだって赤ん坊の世話をし続けていたかった。赤ん坊を腕に抱きかかえている時が一番幸せだった。》第一部 p108
 我が家でも、子どもがちょっと大きくなって、もう赤ちゃんではなくなってくると、妻が「そろそろ次の赤ちゃんが欲しいなあ」と言い出すのである。もちろん赤ちゃん卒業した子供たちのこともかわいがるしちゃんとお世話もするし、育てるのだけれど、ちゃんと人間になってくると、それは親から自立して、子ども同士だったり一人でだったり楽しいことを見つけて親から離れていくのである。そうすると、なんだか、ただただかわいがるだけの、ただただお世話をしてあげなくちゃいけない赤ちゃんがまたほしくなってしまうのである。》

ぼくのnote

 でね、こっちの本では、最後のほうで、作者はこう書いている。

 わたしは考えてみた。彼はある女と結婚した。その女は子供を産むという麻薬を愛し、常習的に授乳愛におぼれた。

本文p-230

 いや、この本のもっと前の部分で、より詳しくこの「子供を産むという麻薬」と「授乳愛」について、すごくいろいろと詳細に書いているのだな。

 日本でもすごくよくある「出産」→「痛いし授乳寝不足で疲れはてているしまだ全然セックスしたくないからというのが続いているうちにセックスレス常態化」で子供一人で終わるパターンと、そうではなくて、多産になるその分岐点であろう心理と行動について、この作者、もののみごとに書いている。そこにはたしかに過程において「多産DV的」と取れる夫婦の心理・関係も含まれて入る。しかし、その言葉概念の中には全部は収まらない。女性側の心と体の微妙な経緯、そのことをこの作者がものすごく上手に書いているところがあるから長いけれど、引用する。

 かざぐるまのようにめまぐるしい日々にわたしは、貴重で漠然として、それがなければ自分が自分でなくなる何かを、わたしは自身から盗んだ。欲望だ。出産後、少しでも何かが欲しいと感じた途端にその感情は消去され、空っぽになったと感じた。親密さのために必要とされるものを満たすためだけに体を捧げ、もうひとつの小さな体も全身でそれに応えた。強力な身体的欲求はあったけれど、性的な類では決してなかった。わたしを支配するのは乳(ルビでミルク)だ。潮の満ち引きの法則に従い、満ち、押し寄せる母乳だ。
 セックスは厄介だった。痛くて、どうしようもなかった。出産後、数カ月間ずっと内側のドアはきつく閉じられていたようだった。わたしが生きる上で求めていたのは、なんとか自分を引きずり、動物的な疲労を抱えながらも昼間をなんとかやり切り、暗闇がおりたらベッドに向かい、断続的睡眠の待つ夜に身を横たえるだけだった。欲望は足早にわたしの体から去った。すっかり蒸発してしてもうどこにも見えない。まるで水たまりが空にその身を引き渡すみたいに。わたしはわたしでなかった。わたしは、大きな、くたびれたジャンパーで、縫い目はほつれ、ほどけていたけれど、どうしてか着心地が良く、柔らかで、気負う必要がない。ただずっと、身をゆだねていたかった。その大きな塊に。永遠に。骨の芯から疲れ果てていた。そう。だけど、満たされてもいた。ただ、そのような禁欲を心から愛する男に強要するのは、恐ろしすぎた。彼は言った。心配することはないし、疲労が消えてわたしがまた欲するときまで喜んで待つと言ってくれた。けれど、そんな寛容な贈り物を受け取るわけにはいかない。だからわたしは嘘をついた。そして欲望までも、こなすべき雑用としたのだ。やることリストの一番下に書かれずとも浮遊している項目に加えたのだ。行為に自ら従事する際には、文字通りこじ開けを選んだ。施錠された扉に突っ込まれるのは激痛を伴ったからだ。そして感情的なこじ開けも選んだ。だって夫は善良な人なのに、わたしは素知らぬふりで彼を騙している。セックすの最中は痛くて痛くて、あまりの苦痛に親指と人差し指の間を噛んで耐えた。歯形が消えて何日もたってからも、皮膚には痣が残っていた。わたしは他の人に喜びを与えるために多大な苦痛を受け入れるのは、きっと善いことだと、自分を説得しようとした。今になって、分かる。わたしは彼の体すら、責任リストの項目に加えようとしていたのだ。しかも、彼の同意なしにそうしていた。わたしの失態を恥じ入るあまりにーー誠実さと体の失態だがーーこの災難を隠そうとし、言い訳を考え、早めにおやすみを言い、ベッドの端っこで眠った。枕の下には『クイネ』があり、赤ちゃんに授乳するために目を覚ますとき、アイリーン・ドブの言葉が混乱した疲労の靄を照らした。彼女の人生も欲望もわたしとは遥か遠くにあったのに、なぜか彼女がとても近くに感じれた。それから間もなく、詩がわたしの日々に浸食し始める。わたしの膨らんだ好奇心は、わたしを家から出し、わたしを助けられる唯一の場所へと足を向けさせた。

本文P23~24

 こうして読むとさ、まさにこの出産後のセックスの、肉体的な痛み苦痛だけではない、愛をめぐる作者の苦しみと混乱こそが、アイリーン・ドブの詩と人生を強く結びつけるきっかけになっているのだよな。本書の中ですごく大事なところなのである。 

 授乳・母乳というもうひとつの重要テーマを経て、再び妊娠出産へとつながる、多産サイクル。それは「夫DVのせい」ではなくて、授乳と女性ホルモン分泌の関係による、女性の心理と体の劇的な変化がつながるようになるから。ということも、この作者はとても上手に表現している。

 さっきの引用部分、第三子出産の後の話で、作者はこのとき、これだけ疲れているのに、さらに母乳を子どもに飲ませるだけではなく、母乳バンクに搾乳して送るというボランティアもしていたのだな。それから数か月後の記述。

 第三子が歩き始め、話し始め、わたしは変わらず息をつく間もなく駆け回り、肩越しに彼に歌いかけつつ、洗濯物の管理責任に気を散らしたり、新しい詩をタイプしたり、棚を片付けたり、上の子の額のたんこぶにキスをしたりしていた。母乳バンクは、新生児の母親の母乳を好むので、わたしは搾乳の量をじょじょに減らし、ついに最後となる箱を送った。チェック。
 両胸にかかっていた負担が減り、わたしの体内時計は通常の機器構成に戻り、予期せぬホルモンの大波を引き起こした。欲望が帰ってきた。ドアがぽーんと開け放たれた。わたしを跪かせ、震わせ、乞わせる。わたしは暗闇を這いずり、喘ぐ。欲望に体を開き、ベッドで、テーブルで、動物、どくどく、濡れる。達するたびに、わたしはむせび泣く。ずっと恋しかった。欲望、溢れる喜び、ありふれた営み。こんなにほっとしたのはいつぶりだろう。
 喜ぶのは早すぎた。大家から、親戚を住まわせるので出ていってほしいと告げられ、格別の推薦状を持たせられた。また新居探しだ。すぐに仕事に取り掛かる。ここ数年で五つ目の住居になる場所を見つけなければならない。引っ越して数週間後、わたしたちが住んでいた家が、より高い賃料で貸し出されているのを友人が見つけた。しかし、もうどうでもいいことだ。わたしはまた妊娠している。幸せな気持ちで塵を払い、壁のペンキを塗り、片付けにいそしむ。想像すらできない。六歳以下の子供が四人もいるなんて。わたしはいつ、自分の歯を磨くのだろう。いつ古い詩を読み、朝の紅茶を飲むのだろう。他人の赤子のための搾乳なんて問題外だ。二度、わたしは搾乳のための道具をだれかに譲ってしまおうと手に取った。
二度とも箱に戻した。
もしかしたら。

本文p31~33

  ここに書かれていることの中には、「多産DV」という言葉、概念には包含しきれない、いろんな要素がある。というのは伝わっただろうか。

さきほどの引用の続きで作者はこう書く

 妊娠を継続させることを選ぶとき、女は自分を滅してその体を捧げる。あまりにもありふれていて本人すら気づいていない。彼女の体は利他主義に縛りつけられる。本能的に体が飢えに縛りつけられているのと同じくらいしっかりと。たとえば、彼女がじゅうぶんにカルシウムを摂取していない場合、彼女自身の骨からカルシウムが浮き出し胎児へと供給される。彼女自身のシステムに欠乏を生じさせながら、女の体は他人に奉仕する。それがときに、自分の体からの窃取を意味しようとも。

本文p-33

 妊娠出産が女性の身体に大きな負担をかけることは分った上で、それがまた「男性からのDV強要」としてではなく、快楽の回路として欲望されるということを作者は分かっているから、最後の方で「子供を産むという麻薬」と書いているのである。

 作者は四人、うちの妻は六人も子供を産み、しかも全部母乳で育てることにこだわり(この本では、「母乳神話なんちゃら」なんてこととは全く関係なく、この作者、とにかく授乳したり母乳を搾乳したり、そういうことが作者にとってはすごく大事なことなのだということがずっと語られ続けていく。それはもうそうなんだから仕方がない。そして、我が家でも初めのうちは人工乳も多少併用していたが、育児の中盤戦から後半戦の15年間くらいは、もうほぼ100%母乳育児である。しかもなかなか断乳しない、三歳まで母乳を飲み続けた子も何人もいる。母乳神話がどうのこうの関係ないのである。いろんな実際のメリットが積み重なって、それは気持ちと利便性と楽しさとかわいさと気持ちよさと、なんかそういうことである。この本の中でも4番目の女の子、だいぶおっきくなるまで母乳飲んでいて、やめるシーンがなかなか、そうだよなあって思いながら読んだ。その、理屈でない感じ、というのが、この本ではすごくうまく書かれている。

  この、本書での母乳授乳についてすごく克明に書かれている「授乳愛」、多産、たくさんの子育ての間、ずっと執着した経験をした女の人、日本では最近、ほんとに少ないだろう。

出生過程がほぼ完結した夫婦の出生子ども 数の分布
子ども4人以上の割合 は、
2021年3.2%、2017年3.3%、2010年2.2%

政府統計 

 出産→授乳開始(寝られないへとへとボロボロ)→授乳しながら性交再開(再開直後は苦痛)→疲労寝不足の日常の中の育児の楽しさ→からのいろいろ突然性交の快楽まで強烈に復活→また赤ちゃん欲しくなるからの妊娠、というサイクル。その苦痛と苦行と欲望と快楽のサイクル。それが、作者もさっき引用したところでもあったように、授乳量の減少に伴うホルモンバランスの劇的変化とともに起きる。だから、本書が書いているような「性交から妊娠出産から授乳育児家事の朦朧とするほどの過酷な毎日からの性交快楽復活」の全体像を、夫への愛情や気持ちの変化のサイクルと体調の変化とともに克明に記録しているというのは、なんかほんとうに稀少で貴重。

 もうそれは本当にからだも気持ちも劇的に変化する、その体験全体を、何度でも繰り返したくなる、そういう境地認識に、子だくさんお母さんはの一部、作者とかうちの妻とかは、到達しているのである。

 ウソじゃなくて、『灯台への感想文でも書いたけれど、』妻は62歳の今でも「昔ばなしみたいに、おばあさんなのに、また赤ちゃんできないかなあ」ってよく言う。作者の言う「出産という麻薬」と「授乳愛」による「もっと家族を増やしたい」欲望が女性側にも働くのである。

 そんなの、やった本人にしかほんとのところは分からないと思う。この本の作者や、うちの妻のような人にしか分からないと思う。『灯台へ』感想でも書いたけど、多産家庭小説のこういう出産授乳まわりの濃密な体験というのは、今読むとよくわからない昔や外国の文学表現と思うかもしれないけれど、これは「幻想的な文学的な想像」なんかではなくて、ものすごく生々しいなリアリティの話として書かれている。と僕は読んでしまうのだな。だって目の前で20年間くらい展開して、そこに役立たずながら参加してともに生きていたわけだから。

 とはいえ僕ももちろんほんとのところは分からないけれど、それにしたって、このことについて、男も女もなく、わかんない人、想像もつかない人がほとんどじゃん。現代日本人だとさ。

 そもそも、18世紀のアイリーン・ドブも、二人の男の子、3歳と1歳を育て、さらに三人目を妊娠中の28歳くらいのときに、夫を殺されているのだな。だから、作者とアイリーン・ドブの共鳴は、夫への愛と、育児と妊娠・出産・授乳が一体となっての、そういう人生と幸福への共鳴が、作者とドブの間にあるのだ。だからこそ、それが突然断ち切られたドブの哀歌が、作者にリアルに響いてしまうのであろう。

小説じゃないのだが、結末はなかなかびっくりな展開になる。

 作者の「ドブの人生を知りたい」という欲望にも、「もっと赤ちゃんが欲しい、家族をもっと増やしたい」という欲望にも、この本、終盤での展開、というのは「え、そうなの」という結末になる。ラストはいろいろ、「そうかあ」ってなります。これまで上で書いて考えてきた「多産育児が女性に過酷である」ということに、作者自身がではなく、この夫婦が、夫のほうがどういうふうに考え行動するか、ということ。それを作者がどう感じ、受け止めるかということ。結末近くのそのあたり、なんだか、いろいろ、思いました。読んでみてね。興味のある人は。

それ以外、いろいろと印象に残る。

 太い筋は、上で書いたような出産授乳育児生活の中でドブの痕跡を追い求めていく話なんだけれど、章によって、話題、出来事はあっちこっちにいって、短篇小説のようだったり随筆の様だったり、過去の回想だったり、それぞれが印象深い。

 若い時、歯医者さんになろうとして、歯学部にはいって、.人体解剖の実習の途中で脱落して、先生になってという経歴を語るのだが、その解剖実習をまつわる話とか。

 交通事故をめぐる、人を助けようと思うと、思わず頭より行動が先走ってしまうエピソードも、この人の人となり、この作品全体のテーマと響き合って印象深い。

 それから、ドブの足跡を追って、アイルランドの中のいろんなところを訪ねて回るのだが、「どんなところかな」とグーグルアースとか旅行関係のサイトなんかを見てみると、これがまあ、素敵な場所なんだな。アイルランドってきれいな国だなあ。

 歴史を調べて行っても、殺された夫、アートも、その子孫・親戚も、けっこう、突発的にはちゃめちゃな行動をする人ばかりで、これはこの一族の特質なのか、アイルランド人の中でこういうタイプは「面白い魅力的な人」と思われるのか。日本だったら「困った人だな」だと思うけれど。この作者もそうだな。激情で突っ走るタイプ。

 そういうアイルランドの歴史と風土と人々の気質について、そういうことを考えたり調べたりしながら読むのもまた楽しい。

 アイルランドの言葉(ゲール語)で歌われた哀歌、アイルランド人でも日常生活でゲール語を使う人はごく一部の地域にしかいなくて、ゲール語=学校で習う言葉、んだそうだ。だからおそらく哀歌も、こまかなニュアンスまで理解できる人は少ないからこそ「訳して見たい(英語に)という欲望」に作者は駆られるわけなんだと思う。

 そして、アイリーン・ドブの夫が殺されたのも、英国によるアイルランド植民地支配の中で起きた悲劇であることが作中、紹介されている。アイルランドが人口のわりに、あまりにたくさんの面白い文学作品を現代においても生み続ける、その様々な要素、源が、豊かに詰まった作品でもある。

 この本、「女性の、女性による、女性についての」という視点で論じるのが当然メインにはなるのだけれど、「アイルランドの」っていう論じ方も、すると面白いよなあ。

 いろんなことを書いたけれど、一冊の本で、これだけいろんなことを感想文として書けちゃう、ということは、それくらい、なんだかいろんなものが詰まった本だったということなのである。



 


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