『【改訂完全版】アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』 (朝日選書) プリーモ・レーヴィ (著)ふ 「アウシュヴィッツは終わらない」という副題は、つまり、どういうことなのかについて考えた。
【改訂完全版】アウシュヴィッツは終わらない
『これが人間か』 (朝日選書) 2017/10/10プリーモ・レーヴィ (著)
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ここから僕の感想
先日感想を書いたレーヴィの短編集『周期律』は、強制収容所体験についてはごく一部だった。今回読んだのは、収容所体験そのものを書いた、レーヴィの代表作、出世作である。
以前、いろいろなnoteで繰り返し書いてきたが、基本的に僕はホロコーストものの本や映画が基本的に苦手である。究極の絶対悪が存在するときに、それと対応して被害者側が「絶対善」に固定的に設定されてしまわないといけないのでは、という心の動きが、僕の中に起きやすい。というのが、きっとその理由なんだろうと思う。
ナチスドイツのやったことが、歴史上に存在した悪の中でも、際立って絶対的な悪であったことは疑いがない。
(本書でも、後半に付属している「若者たちに」という本書をめぐる若者からの質問に筆者が答える中「7 ナチのユダヤ人に対する狂信的憎悪をどう説明しますか」で、その悪の構造について著者は冷徹にかつ根源的に分析している。)
その一方で、被害者の悲惨さ、被害の絶対性とでも言うべきものの中で、被害者の精神、内面に何が起きたのか、についてを、第三者がとやかく言うことはできない。理解できないほどの悲惨の前では、同情と賞賛と尊敬(このような悲惨な中で人間らしさを失わなかった、とか。)というような受け取り方しかしてはいけないというある種の無意識的自己規制がかかる。その不自由さが僕は嫌いだったのである。
しかし、この本は違った。何が違うかと言うと。というのを考えながら感想文を書いていく。感想文を書きながら、考えていく。
アウシュヴィッツの強制収容所といえばガス室での虐殺がまず思い浮かぶのだが、この本の「序」でまず、「その話ではない」という前提が語られるのは
そうかと思って読み始めると、はじめの章「旅」で、レーヴィとともに貨車でアウシュビィッツについた650人のうち、労働ができると判断されて収容所に入れられたのは96人の男と29人の女だけで、「残りの500人を超える人たちは、一人の例外もなく、二日と生きていなかったのだ。」
多くの老人と女性と子どもは、列車からそのままいなくなった。この本を書くにあたって、レーヴィは自分が見たもの、体験したことだけを書くことにした。ガス室のことは見なかったから、こうした人たちがガス室にそのまま送られたことは、後になって知ったとだけ書くのである。ガス室の大量虐殺は進行し続けているが、それを直接レーヴィは見ていない。だから、直接は書かない。そういうこどてある。
労働のために送られた収容所での扱われ方も、初めに引用した「生活環境を大幅に改善し」というのも、「平均寿命を延ばし」というものの、実際がどれほど過酷なものだったか。定期的に行われる選別で、労働に耐えないと判断されるとガス室に送られるのであるし、名前を奪われ番号を入れ墨され、わずかなパンとスープだけで常にずっとひどい飢えに苦しみながら、過酷な労働をさせられ、靴も服もボロボロの最低限のものしか与えられず、その靴擦れの傷は治ることがなく、寝床は狭い三段ベッドに一つのベッドに二人押し込まれ。詳しいことは、ぜひとも本書を読んでほしい。
映画や小説では「そうした中でも人間らしさを失わず」というようなことが感動的に描かれたりするのだが、本書は、どのように人間らしさが失われるかについて、克明に自己と他者を観察し、描写する。あるいは、生き残るために、人間はどのようにこうした環境に適応して変化してしまうかについて、自己についても、他者についても、分析して描写する。人間らしさの失われ方、というのも、様々なパターンがあるのである。その中で、「こういう風になる人はすぐに死んでしまう」というパターンと、生き残る可能性のある変化、対応の仕方があることをレーヴィは冷徹に分析して描写していく。そこに本書の、収容所体験を描いた本の中での特異さがある。
溺れるものと救われるもの
本書の中ほどに「溺れるものと救われるもの」という章がある。これは、レーヴィが晩年、自殺する前年に書いた本のタイトルにもなっている。本書の中核となっているのはこの章だと思う。長くなるが引用しようと思う。
ここを今、引用していて思ったが、現代の私たちが生きている社会というのは、ここでレーヴィがいう「普通の生活」つまり普通の外の社会よりも、ラーゲルの方に近いよな。そう、だから、この本は単に収容所で起きたことを知るだけの本では無いのである。収容所で剥き出しになった、人が孤立し、むき出しの生存競争にさらされるという、現代社会を読み解く貴重な人間社会洞察に満ちているのだな。
この後、レーヴィは具体的な人物の、「生き残る方」の振る舞いを、いくつかの異なるタイプとして細かに描写分析していく。
つまり、このように分析するレーヴィは、自分が生き残ったことの中に、この「救われるもの」の条件というのを、実は見出してしまっているのだな。
きれいごとの「人間らしい心や希望を失わなかったから生き残れた」というようなことだけではない、ということをレーヴィ自身が冷徹に自己分析・自己認識しているのである。化学者という役割を得て、つらい労働から逃れ、ライターの石になるものを盗んでパンに代えるなどの「有力者」になる術を開発し、その特権をうまく維持する。そういう「救われるもの」としての振る舞いを、自分ができたという認識があるのである。
生き残った自分の中で、何がどう変化したか。収容所の外の一般社会で漠然と善いこととされていることの、何は保持しないと生き残れないか、何は変化したり捨てたりしないと生き残れないか。例えば、「勤勉」なものはすぐに死ぬ、とレーヴィは書く。できるだけうまくサボって、体力を少しでも温存しないと死んでしまうのだ。少しサボって、監視役に殴られる方が、真面目に働きすぎて体力を失うよりも、生き残るのにはプラスなのである。また、仲間のものを盗むことはしないが、そうでない、収容で見つけることができる役に立ちそうなものは、盗める時には必ず盗まないと、生き残れないのである。そうして盗んだもので作った利益を力にして、有力者となって、生きるために必要なものを確保する。そういうことが出来るものしか生き残らないのである。普通に真面目に働くだけでは、すぐに死んでしまうのである。
このあたり、複雑でまったくもって単純化できないのである。うまくここでまとめることもできない。とにかく利己的になれ、非人間的になれ、とも言っていない。友情や、他者への貢献や、文学や音楽などが人を支える、という側面も描かれる。思い出や希望を持つことにもプラスとマイナスがある。考える余裕、思い出す余裕ができると苦しみが増して、むしろ心のエネルギーを消費してしまい、必ずしも生きることにプラスにならなかったりするのである。
勇気や正義感を持つことにもプラスとマイナスがある。勇気を持って反乱や脱走を試みて捕まり、絞首刑になるもののが出た時には、レーヴィたちは労働から帰ってきても宿舎に帰る前に、広場をえんえん行進させられ、その処刑の様子を見せられるのである。絞首刑になった者の勇敢さや人間らしい誇りを、もう自分が捨ててしまったことをそのたびに思い知らされるのである。
生き残るために自分の中の人間らしさの何が死んでしまったか、何は維持できたか。そのことをレーヴィは自分についても他者についても観察し分析し、そして記憶して、生きて帰ったら書こう、書くために生き残ると決意していたのである。そこには自己正当化をしようとしたり、何かを美化しようというところは、ほとんどない。見て体験して分析して考えたこと、自分がやつたこと、やらなかったこと。それを客観的に書いているのである。
「運」だけでは生き残れないが、読むと、レーヴィが生き残れたことには、やはり運もあったのが分かる。生き残るためには運もある。最後、ロシア軍が収容所に迫ってきたとき、レーヴィは猩紅熱にかかり、カーペーと呼ばれる病院棟に入院、「伝染病室」に隔離されていた。健康に問題のない収容者たちは、ドイツ人、SSとともにロシア軍が来る前に収容所を後にした。しかし、彼らは厳冬の中の徒歩での脱出だったため、ほとんどが死んでしまった。
カーペーの病人は、置き去りにされた。暖房もなくなり室内でも零下10度20度で薄い服しかなく、食料もなく、ドイツSSにしてみれば、置き去り見殺しにしたつもりだった。事実、多くの患者たちは、そのなかでそのまま死んでいったのだが、レーヴィと伝染病室の11人の仲間たちは助け合って食料やストーブや消毒液を探して確保し、ロシア軍に解放されるまでの10日間の間に死んだのは一人だけ、残念ながら解放後しばらくして五人が死んでしまったが、レーヴィ含めて五人が戦後まで生き残った。
この最後の「十日間の物語」の章は、悲惨ではあるが、SSがいなくなったために、「ラーゲルの生存競争から、上で述べた普通の生活」に変わる瞬間のことが書かれている。感動的である。ストーブを見つけて、病室に取り付けた時のことである。
「アウシュヴィツは終わらない」とはどういうことか
今の日本の世の中は、レーヴィの言う「普通の生活」の皮をかぶってはいるが、「ラーゲルの、むき出しの生存競争」同様、孤独にさらされ、自分の権益を狡猾に慎重に守らないことには、落ちるところまで落ちてしまう。そういうひどいことになっている。そこで人間的にあるためにはどうあらねばならないか。また一方、単なる敗者、溺れる者、底の底まで転落しないためにはどうしなければならないか。政治的に勇気をふるうと絞首刑にされてしまうが、かといって、勇気のある人を見て見ぬふりをして下を向くだけ「心が死んだ者」になっていいわけでもない。
単純な答えはこの本は用意していないし、レーヴィ自身、1987年、68歳まで生きたのに、自殺をしてしまった、その前年に、本書の中核となる章と同名の『溺れるものと救われるもの』という本を出版したのに、自殺してしまったことを考えると、収容所で生き残るための適応のために「人間性を深く損ねたこと」に対し、そのことについて書き続け、戦後を生き抜く中で回復しようとしてきたが、それでもどうしても消化できないことがあったのかなあ、と思う。
「溺れるもの 救われるもの」の章の最後のほうでは、アンリという、これぞ「生き残る者」の青年について書かれている。引用する。
「だが、もう一度会いたいとは思わない。」
生き残るために人間であることを捨ててしまうということが、過酷な労働とか不潔な環境とかいう収容所の目に見えて特異で悲惨な環境だけから来るものではない。その生存のために他者をすべて道具として使うことを躊躇しないという、非人間的行動原理、考え方に自分を変えきらないと、生き残れない。そういうアンリが戦後をどう生きているのか、知りたくはあるが、会いたくはない。筆者、レーヴィも、自分が生き残れたことの中に、自分もアンリのようになって生き残ったのだという自覚があるのだと思う。
「これが人間か」そして「だが、もう一度会いたいとは思わない。」と、自分についても思ってしまうようになったこと。その悲劇からはレーヴィは結局逃れられなかったのではないか、と思うのである。「アウシュヴィツは終わらない」という副題は、つまり、そういうことなのだと思うのである。
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