『約束』デイモン・ガルガット (著), 宇佐川 晶子(訳) ①お葬式家族小説であり ②南アのアパルトヘイト前後の30年の変化を背景としての家族小説であり、③「約束を守る、守らない」という個人の生き方と、差別という社会構造の関係を描く小説であり ④小説を書くことについての小説である。
『約束』 – 2024/6/19
デイモン・ガルガット (著), 宇佐川 晶子 (翻訳)
Amazon内容紹介
本の帯から
さて、noteに感想を書こうとしたがうまく書けないので、とりあえず、Facebookにつらつら思いつくまま書いていこうと思う。その後、noteに転載しよう。(というプロセスで書かれたものです)
書いていくうちに自然にネタバレてしまうと思う。「ブッカー賞受賞作なら読む、原が面白いというなら読む、原の師匠のしむちょんも褒めているなら(しむちょんも褒めています)。買って、読んでみよう」という人は、この先、感想を読まずにAmazonポチでも、本屋や図書館に走る、でもしてもらえればと思います。この先、ネタバレありありです。
■ここから僕の感想。
ブッカー賞に外れなし、いやまったく面白かったのだが。そうだなあ。何点か異なる視点だけ思いつくまま上げてみると
①お葬式小説である。
この小説、四章からなるのだが、それぞれお葬式が中心にある。五人家族の物語なのに、お葬式が四回。第一章はユダヤ教の葬式、二章はプロテスタント、改良カルバン派の葬式、三章はカトリック、四章は無宗教で、取り仕切るのがインドかぶれの人なもんだから、火葬で輪廻するというお説教つきである。
白人家族なのだが、南アフリカの白人の中心、オランダ系のアフリカーナ―の父の家系に、ユダヤ系の母(イギリスからなのか、他のところからなのかはよく分からない)という家族なのだな。
南アの小説だからすぐ「アパルトヘイトで白人と黒人の物語」だけの話かというと、もちろんそちらのテーマも中心を貫いて描かれていくのだが、その前に、南ア白人の歴史と生活の変遷と多様性、みたいなことが四回のお葬式を通じて描かれていくのである。
②南アの歴史の流れの上に、四回のお葬式が乗っかる小説である。
アパルトヘイトの真っ最中の1986年、黒人暴動が頻発したその地点がスタートである。お母さんが死んだ日に、長男は19歳で軍隊にいて、狙撃兵として暴動鎮圧にあたっていて、お母さんくらいの年齢の黒人女性を撃ち殺してしまう。
ついで、アパルトヘイトが廃止され、国際スポーツに復帰して南アで1995年にラグビーワールドカップが南アで開催され、地元で優勝。黒人選手は一人しかいなかったが、それでも白人も黒人も一体になって盛り上がって、マンデラ大統領がキャプテンに優勝カップを渡す。準決勝から決勝にかけて、お葬式をしていたのである、この家族。
次は1999年、マンデラの次のムベキ大統領の就任式に出席していた長女。黒人が政治の中心にいるようになり、長女の夫は白人だが、黒人有力政治家と知り合いになる。その有力国人政治家と長女は不倫をしている。という白人と黒人の関係が変化している時代のことである。主人公家族のような、白人農園経営者家族が黒人の襲撃を受けて殺されたり乱暴されたりする、というような事件も頻発するようになってきた時代で、ノーベル賞作家クッツェーの『恥辱』でもそういう事件、テーマは扱われている。没落する白人農園経営階層、それに対する黒人の暴力の時代である。また、エイズがこのムベキ大統領はHIVウイルスが原因であることを否認して有効な対策を全くうたず、南アは世界でも最悪レベルにエイズが蔓延した。次女アモールは看護師になってエイズ患者の世話をし続けている。
最後が、2018年。汚職まみれのズマ大統領の10年に及ぶ時代、電力不足で停電は日常茶飯事、水不足も深刻、経済も低迷した南ア混乱期である。
こうした南アの社会の変遷の中で、この白人家族がどうなっていくのかが描かれていくのである。
③「約束」を守る守らないというのは、個人の生き方の問題であると同味に、差別や不平等という社会構造の問題でもある、という小説である。
Amazon内容紹介にある通り、一章で亡くなる母(妻)が父(夫)に死の間際、家族の世話、病気の自分の世話をし続けてくれた黒人メイドのサロメに家をあげるという約束。
それを聞いていた末娘とメイドのサロメ自身。しかし、約束を守ろうとしない、父、長男、親戚の伯母。
この「約束」を守ろうとしないのはどうしてなのか、の中に、アパルトヘイトの前後を通じて変わらない、白人から見て黒人が「見えない存在」であること。だけではない、家族の中で、男性から見て女性(娘、妹)が、「見えない存在」であるという構造も含めて、描かれていく。
「約束をするということ」「約束を守るということ」、そして、「約束を知らんぷりしたり、先延ばしにしたりするということ」のベースとなっている、社会や家族の中の差別とかなんとか、そういう構造と、それに長い時間をかけて「約束を守ろうとする人」の人生、生き方というものを描くのである。
描くのであるけれど、それを、なんというか、本の帯の裏面は、ブッカー賞選考委員であるナイジェリアの黒人小説家チゴズィエ・オビオマはこう書くのだが
とね。そう書くわけだが。なんか、そういうふうにスパッと「正義」と言い切れるのは、ナイジェリアの黒人作家であるからではないのかしら。そのあたりの正義の問題を、南アの白人作家として書くときの、このガルガットさんのスタンスというか書きっぷりというのは、これは白人が書く南ア文学、クッツェーもそうなのだが、すごく微妙なロープの上を慎重に渡っていると思うのだな。
黒人差別問題を、どういうふうに文学は、小説は扱いうるか。扱っていいか。扱ってはいけないか。この前、感想文を書いたフランスの白人作家アベル・カンタンの『エタンプの預言者』では、主人公の白人元大学教授65歳は、黒人詩人についての評伝で、黒人性を軽く扱ったとしてネットで大炎上するわけだが。黒人の気持ちを勝手に白人が分かったように書いた、「文化の盗用」ということで糾弾され炎上したのだな。
こちらの小説の作者、デイモン・ガルガットも白人、1963年生まれ、おお、僕と同い年だな。この人、この小説で、あらゆる人物の内面に自在に出たり入ったりして、「神の視点」で誰の視点からもどんどん語る、そういう小説の書き方をするのだけれど、しかし、白人の人物たちの視点に入りこむときは、本当に自由に皮肉と風刺のきいた表現をのびのびとするのだけれど、黒人の人物について描写するときは、「分かりえない」「踏み込み過ぎない」というような語り方になっていると思うのだな。
南アの文学者というのは、クッツェーでも感じることだけれど、白人の立場で黒人を語るというのは、白人と黒人はアパルトヘイトの前も後も、同じ国民として常に同居し生きているけれど、それぞれの内面については分かりあえない、分かったように語ることはできない。でも同居し、隣人としてつきあい、生き続けなければならない。そのことの困難について、いつも激しく模索しながら書いていると思うのだよな。
そういう意味で、野崎歓氏のあとがきで、これは先ほど書いた小説の話法の話として「人物たちの内面の声を伝える自由間接話法は、ヴァージニア・ウルフやウィリアム・フォークナーの先例を思い起こさせるが」という文脈でフォークナーの名前を挙げているのだが、なぜそういう話法なのか。フォークナーが、南北戦争の前後の南部を舞台に、奴隷制があった時代の農園主一家、そこには黒人の使用人が奴隷としていたわけだが、南北戦争後、奴隷制が廃止されても、相変わらず農園主家族と使用人という形で、白人と黒人が同居し続けた、その大きな時代の変化を描いたことと関係していると思うのだ。(ヴァージニア・ウルフについては、女性・男性という問題が同じように機能しているのかも、ここはあんまり自信がないが忘れないようにとりあえず書いておく。)
https://note.com/waterplanet/n/n4d42887f36da?sub_rt=share_pw
現代のポリコレ多様性時代(DEIとかいうらしい、「Diversity(ダイバーシティ、多様性)」「Equity(エクイティ、公平性)」「Inclusion(インクルージョン、包括性)」なんだそうだ、そういう時代に、黒人によって書かれる現代アメリカ文学、たとえばタナハシ・コーツのようなものとは語り方が明らかに違う。
アパルトヘイトがあった。そのときの関係性があり、アパルトヘイトが終わり、関係性が変化をする。南北戦争前には奴隷制があった。南北戦争が終わり奴隷制が廃止された。
でも、南アの都市郊外農園では、(アメリカの南部の農園でもそうだったように)、農園主と使用人という形で、相互に依存する関係は継続しながら、大きな社会的国家レベルでの社会的関係が変化した。そのことを当事者として正確に書こうとすると、多様な人物の内面に入って、それぞれを書くしかない。かつ、白人作家として書くとすると、黒人の内面について、「分かっている」と思い過ぎない、分かっているように書かないという制御がかかる。フォークナーの書き方と、このデイモン・ガルガットの書き方に共通性があるのは、そういうことなんだと思う。
正しさを主張できないだけでなく、失敗し衰退する運命を受け入れている、という書き方を選ぶ。しかしだからといって、人間として希望は失わないようなものにしたい。白人がこのことについて書く以上、そういう苦さをベースにしつつ、それでも希望を書きたい。フォークナーにもそういうところがあると思うのだよな。
④小説を書くということについての小説である。
この小説主人公家族の長男、アントンは1967年生まれに設定されていて、ガルガットさん1963年生まれに近い。そして、アントンは小説を書いている。人生をかけて書こうとして、結局、四章の構想のうち、二章の途中で力尽きてグダグタになっている。
南アに、白人として、アフリカーナ―の農園の息子として生まれて、アパルトヘイトのひどい時期とアパルトヘイト廃止後の南アの混乱の中を生きてきて、小説を書くことの困難、ということを、この作者と長男は共有しているのである。
フォークナーをたくさん読んだ昨年、そして年明けにこの作品を読むというのも、なんというか読書の神様の導きのように思われる。
読書師匠のしむちょんが新年に読んだといって教えてくれたのは、フォークナーの『死の床に横たわりて』で、これまたどうも、葬式小説のようなのだな。なんだかいろいろつながりがあって面白いなあ。神様と師匠に導かれて、今年も読書&感想文にいそしむのである。