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『灯台へ』ヴァージニア・ウルフを、まずは岩波文庫・御輿哲也氏翻訳版で読んだ。子だくさん子育て家庭リアリティ小説として読むという変わった読み方をした。作中、夫人が子どもに『漁師とおかみさん』を読み聞かせしていることも僕には意味深く感じられた。

『灯台へ』 (岩波文庫 赤 291-1) 2004/12/16 
ヴァージニア ウルフ (著), Virginia Woolf (原名), 御輿 哲也 (翻訳)

Amazon内容紹介

スコットランドの孤島の別荘。哲学者ラムジー氏の妻と末息子は、闇夜に神秘的に明滅する灯台への旅を夢に描き、若い女性画家はそんな母子の姿をキャンバスに捉えようとするのだが――第1次大戦を背景に、微妙な意識の交錯と澄明なリリシズムを湛えた文体によって繊細に織り上げられた、去りゆく時代への清冽なレクイエム。

Amazon内容紹介/文庫表紙

ここから僕の感想

 ここのところ、フォークナーを集中して読んでいて、このウルフの『灯台へ』は、フォークナーの『響きと怒り』と並んで「意識の流れ」という、19世紀後半から20世紀初頭の小説的技法の代表的作品とされている。
 両書とも岩波文庫にかなり新しい(『響きと怒り』は2007年平石貴樹/新納卓也・両氏の訳、『灯台へ』は御輿哲也氏2004年)の翻訳があるのだが。しかしなぜか、「初版」日付で言うと今月末9月30日、と10月1日と同時期に、『響きと怒り』の方は河出書房新社から桐山大介氏の新訳が単行本で出版され、『灯台へ』の方は鴻巣友季子さんの翻訳これは全くの新訳ではなく、池澤夏樹個人編集・世界の文学用にした翻訳版が、新潮文庫から発売された。
 「意識の流れ」の代表作・世界文学の名作二作が同時に、ひとつは新発売、ひとつは文庫化ということで、ちょっとツイッターなどで話題になったのである、『百年の孤独』文庫化ほどではないけれど。

 でね、両方とも新発売の方は買ったけどまだ読んでいないのね。書いている今日が9月30日だから。どっちも岩波文庫で読んだのである。『響きと怒り』はこの騒ぎとは関係なく、個人的なフォークナー・ブームで。

 そして『灯台へ』岩波文庫版をさっき読み終わって、感想文を書いているわけだ。

 僕にとっては、初・ヴァージニア・ウルフだったのだけれども、いやー素晴らしかった。これ、「意識の流れ」という手法とか、「繊細で詩的な表現」とかいうことで名作とされているみたいなんだが、それはたしかにそうなんだけれど、僕個人的には二点、すごく良かった点があって、

 ひとつは、この小説、三部構成になっているのだけれど、これが見事すぎるほど完璧な、奇跡の三部構成になっていて、まずはそれに感動したのね。これは、誰が読んでも、そう感じると思うのだよな。これから読む人の感動を削がないために、どんな三部構成なのかは内緒にしておくのだ。是非とも読んでみてね。

 で、もう一点というのが、おそらくこれは、かなり僕というか僕と妻というか、我が家の特殊事情から、この小説、「びっくりするほど自分事として読めた」というのがあって、これは、こういう読み方をする人は、今の日本にほぼいないだろうと思うので、今日、ここでメインでこれから書くのは、そのことなのだわね。本題、スタートします。

子だくさん家庭の、生活実感あるある小説としての『灯台へ』への個人的・偏った感想

 この小説、ヴァージニア・ウルフ本人とその家族の実体験をもとに描かれたもののようなのね。

 灯台と、それを望む別荘がある場所が、小説ではスコットランドになっているのだけれど、ウルフの実人生ではイングランド南西部コーンウェルの、セントアイブス湾というところにあった別荘なんだそうだ。(岩波文庫巻末に詳しい年譜がついている。)

 で、哲学者お父さんラムジー氏(61歳)、美人の専業主夫お母さんラムジー夫人(50歳)、子どもは末っ子ジェイムズ6歳、すぐ上の女の子キャム7歳、その上に(あとの年齢ははっきりとは書かれていない)9歳、10歳、から15、17、20、22歳くらいかなあ、八人(男四人女四人)の兄弟姉妹がいるのだな。

 小説では、全部ラムジー夫妻の子どもなんだけど、実際はウルフのお父さんお母さんは再婚で、お父さんの連れ子一人、お母さんの連れ子が三人いて、再婚してから四人子供が生まれていて、ヴァージニア・ウルフは下から二番目。小説で言えばキャム7歳。そして一番下のエイドリアン(小説でいえばジェイムズ)とは実際にも年子。そしてエイドリアンが灯台にいきそこねた思い出、というのが実際にあるんだそうだ。つまり実際では、お母さんは七人子供を産んでいるわけだな。

 でね、僕と妻は六人の子供がいて、ヴァージニア・ウルフや小説の八人兄弟姉妹ほどではないけれど、一番上と一番下は16歳離れていて、下の子6歳のときには長男は22歳、だいたい小説家族と同じくらいの年齢幅の子だくさん育児をしてきたのだ。

 そしてラムジー氏は哲学者だから、家の中で仕事をすることが多くて、家や庭を歩き回っては、気が向くと子供たちにちょっかいを出してからかったり、そうかと思うと急に不機嫌になったり癇癪起こしたりして、すごく子供たちに嫌がられるんだな。ラムジー氏。
 その感じというのが、なんだか自分のことを書かれているようで悶絶したのである。広告業界のフリーの戦略プランナーとして、自宅兼職場で考え事をしていることが多くて、その合間に子どもにちょっかい出したり、なんかあるとすぐ不機嫌になったり癇癪を起すので、子どもたちに疎まれてきた36年間。この感じ。なんだかなあ。よく知っている。

 ラムジー夫人50歳は美人で仕切り屋で世話好きで、うちの奥さんとだと「美人で」というところはまあまあなんというか、うやむやほにょほにょだが、とにかく子供たちの世話と人付き合いとなんやかやを一手にこなし、子供たちもみんなママは大好きな感じというのが、もう、なんかよく知っている感じのである。

 そもそも、今どきの人の感覚として「なんでそんなにたくさん子ども作るのよ。頭おかしいんじゃない?」という感想しかないと思うのだが、僕が妻といつもこっそり話しては納得しあっている、いまどきの人には分からない、なんでこんなにつぎつぎ子供を作っちゃったかの理由、というのが、なーんと、この小説のラムジー夫人の気持ちとして、いつも僕と妻が話しているそのまんまの気持ちとして書かれていたのである。その部分、引用しますね。

 それにしても、と夫人は、ジェイムズの頭にあごを押しあてながら思う。どうして子どもたちの成長はこんなに早いのか?どうして学校に行かなきゃならないのか?夫人はいつだって赤ん坊の世話をし続けていたかった。赤ん坊を腕に抱きかかえている時が一番幸せだった。

第一部 p108

 我が家でも、子どもがちょっと大きくなって、もう赤ちゃんではなくなってくると、妻が「そろそろ次の赤ちゃんが欲しいなあ」と言い出すのである。もちろん赤ちゃん卒業した子供たちのこともかわいがるしちゃんとお世話もするし、育てるのだけれど、ちゃんと人間になってくると、それは親から自立して、子ども同士だったり一人でだったり楽しいことを見つけて親から離れていくのである。そうすると、なんだか、ただただかわいがるだけの、ただただお世話をしてあげなくちゃいけない赤ちゃんがまたほしくなってしまうのである。

 ラムジー夫人が末っ子ジェイムズを産んだのは44歳。うちの末っ子が生まれた時が妻42歳、僕43歳。実は、「できればもうひとり」と妻は望んでいたのだが、できなかった。だけでなく、今は60歳を過ぎて、もう更年期も終わって完全終了になっているのに、妻は「昔話のおばあさんみたいに、突然、もうひとり赤ちゃんできないかなあ」とときどき今も言うくらい、ラムジー夫人と同様、「赤ん坊を腕に抱えているときがいちばんしあわせだった」という気持ちのまんま自然にしていたら、うちは六人、ラムジー家は八人兄弟姉妹になったのである。

 で、こういう人生の選択が、父親、ラムジー氏の人生や友人関係にどんな感じを与えたかも、すごく上手に書かれている。ラムジー氏は結婚前の25歳のときに書いた本で哲学者としてのいちばん大きな成果を出し、その後はそれを超えられないで生きてきた。引用する。

 実際、ラムジーは25歳の時に出版した小さな本で、哲学研究に決定的な貢献をしてみせたが、その後はむしろ、それを単に敷衍したり蒸し返したりすることに終始していた。

p-44

 こうラムジー氏について語るバンクス氏は学生時代からの友人の生物学者だが、結婚はしたが妻に先立たれているし、子どもはいない。バンクス氏はラムジー氏との間の友情が、ラムジー氏の結婚を前にしたあるエピソードを境にこんな気持ちになった、と語る。

 ラムジーのことを悪く思ってほしくないんです。(彼なりに偉大なところはありますから)と、バンクスはリリーに話しかけていた。二人の関係がどんなものだったか、わかってほしいんです。本当に長いつき合いですが、ウェストモアランドの田舎道で、ひよこの前に羽を広げた母鶏を見かけて以来、妙に気持ちがそぐわなくなりました。その後ラムジーは結婚し、それぞれの道を歩むようになって、あっても新鮮さはなくなったんです。それはどちらかの所為(せい)という問題ではないんです。

p-40

 学問の追求と、子だくさんの家庭で子どもを育て守ることをしながら生きて行こうというラムジー氏と、家庭子育てと学問は両立しないという生き方をしたバンクス氏の間に生じた気持ちのズレを、とても上手に表現していると思う。そして僕の人生においても、僕と、子どもを持たない選択をした(あるいはほしくても持ちえなかった)友人たちとの間の溝、というのはこんな感じで確実に存在している。

 それにしてもラムジー一家は決して裕福ではないし、一体どうやってやりくりをしているやら。八人も子どもがいて、しかもその八人を哲学で養っているとは

p-41

 バンクスさんはこうも言っているように、ラムジー家は別荘もあるし、ひと夏を8人の子どもだけじゃなく、何人かの友人も招いて過ごしているのだけれど、決して裕福なわけではない。ラムジー夫人は温室の屋根の修理に50ポンドかかることをラムジー氏に言い出せなかったり、家具調度はどんどん傷んで古ぼけていることなんかを気にするくらいで経済的に余裕はない。すごい資産家でもなさそうで、知的階級には属しても、そして中流階級ではあっても、経済的ゆとりがあるわけではない。子だくさん育児をしてきた我が家の生活感覚と、なんだか近い(もちろん我が家ら別荘はない。) 同じくらいの収入で子供が無かったり、二人くらいを育てている人とだと、経済的ゆとりのなさ、家の修理、どうしようかなあ、みたいなことというのは、本当に常にあったし、今もある。

 ラムジー氏が、もう学問的達成はこの先そんなに望みが無くても、まだ末っ子は6歳、子どもを育てるために哲学者として講演をしたり、評価が低くても本を書いたりするのは、そしてそのことで、傷つきやすく、僻みっぽく、家でもすぐ癇癪を起したり、そうかと思うと妻に慰めてほしがったりするのも、いつまでも終わらない子育てに追われている気持ちとして、なんだか身につまされてよく分かる。

 この小説、本当に「詩的で繊細な描写」ということで評価されることが普通なのだが、僕のように「子だくさん生活リアリティ実録小説としてすごく切実で素晴らしい」なんていうふうに読む人は、あんまりほとんどいないと思うのだよな。

 と思って、妻にちょっとだけ読ませたら、「ほんとにこの前のパパそのものじゃない」といって、この前ちょっとあった事件を思い出して、急に僕に対して怒りだしてしまった。それくらい、リアルなのよ。この小説で書かれている感情のありようというか、子だくさん家庭の父母子どもの関係として。で、妻は「夏目漱石の小説、女性版ていうかんじだよね」とまたすごい感想を漏らした。そうなんだよな。夏目漱石は「意識の流れ」について留学中に研究してきて、夏目漱石小説はまさにこういう感じで、人の気持ちと感覚の変化を描写していくのである。妻、おそるべし。

「漁師とおかみさん」をジェイムズにラムジー夫人が読み聞かせている、その意味。

 最後に、このnoteの冒頭写真、『灯台へ』岩波文庫と一緒に、グリム童話『漁師とおかみさん』を撮影してみた。のにはもちろん意味がある。

 この小説の第一部の中で、ラムジー夫人は末っ子ジェイムズに、グリム童話『漁師とおかみさん』を読み聞かせるシーンが、断続的にたくさん出てくる。絵本ではなさそうだけれど。

 僕ら夫婦も六人子育ての間、ものすごくたくさんの本を読み聞かせたのだが、この『漁師とおかみさん』、これは子供たちが気に入ったというより、僕と妻がものすごく気に入って、何度も何度も覚えてしまうくらい繰り返し読み聞かせた絵本だったのだ。で、それがこの『灯台へ』の中に出て来て、えらくびっくりしたのだな。で、それは表面的には『グリム童話』のひとつ、くらいに思うかもしれないけれど、この童話がなんでそんなに僕ら夫婦が好きだったかと言うことを、繰り返し夫婦で会話して来た僕や妻にとっては、この『灯台へ』の中で読まれるのが『漁師とおかみさん』であるというのは、すごく意味があることに感じられたのだな。

 『漁師とおかみさん』というのは、なんというか、「かれいの恩返し」とでもいうべき内容で、割れ甕の家に住んでいる貧しい漁師夫婦がいたのたけれど、漁師はある日、でっかいかれいを釣ったのに、かれいが「お願いです、私は魔法をかけられた王子なのです。逃がしてください」というので逃がしてあげるの。で、その話を聞いた欲張りなおかみさんが「なんでただで逃がしちゃうんだよ、なんかお願い事をしてみなさい」というので、海に行くとかれいが出て来て、はじめは小さい家が欲しい、とお願いしたら叶えてくれるわけ。で、欲張り奥さんの要求はどんどんエスカレートしていって、大きな御殿から、金ぴかのお城へとエスカレートして、それでもかれいは願いをかなえてくれるのだけれど、海はどんどん汚く荒れ狂うようになっていくの。最後におかみさんが「神様になりたい」ってお願いしたら、あらまあ割れ甕の家に戻ってしまって、そして二人は今でそこで暮らしています、というお話なんだな。

 子供がたくさん欲しいっていうのは、なんというかすごく欲張りなことで、僕も妻も、子育て以外のことで贅沢をしてきたわけではないけれど(海外旅行にもプライベートでは一度もいっていないし着るものも持ち物もブランドものなんかとは無縁の人生だった)、僕ら夫婦が根本的にこの漁師とおかみさんと同じように、子どもを持ち育てるということでいうと、すごく欲張りほうだいに生きてきた、という自覚はあって、それが最後にまた割れ甕に戻るんだろうなあという予感というのは、生きてきた間、ずっとあった。で、このお話のいいところは、そんな欲張りおかみさんと、おかみさんのいいなりになっちゃう気の弱い漁師、なんだけれど、さいご、「二人はいまでも、われがめでくらしているということです」というところ、つまり二人は喧嘩もしないで、「欲張りすぎちゃったかねえ」「でもやりたい放題で楽しかったねえ」なんて言いながら、さいごまで、ふたりで暮らしているという結末が、僕ら夫婦はすごく気に入っていたのだな。

 ラムジー氏とラムジー夫人は、八人の子どもたちを育てながら、二人とも自分の思うように生きている人なんだよな、第一部では。一部で描かれる夫婦の、家族の生活の、子だくさん家庭の生活が、実は奇跡のようなことでもある、ということ。夢のようなことであるということ。そのことと、ここで読み聞かせている童話が『漁師とおかみさん』であること。そのまんまそんなに明確につながるわけではないから、きっとそういう風に論じいる評論とか研究というのは、あんまりないと思うのだけれど。

 でもね、子だくさん子育て夫婦の実感リアリティ小説として、『灯台へ』を読んだときに、ここに出てくるグリム童話が『漁師とおかみさん』であることは、僕にはすごくしっくりと来たんだよなあ。

 ということで、感想文おしまい。

 鴻巣さん翻訳のほうも、読んでみようと思います。が、
御輿哲也さんの翻訳も解説も、素晴らしかった。名作を、いろいろな人の翻訳で読めるという、日本の翻訳出版文化の豊かさに、本当に感謝。

※追記 「欲張り&やりたい放題」と言うことで言うと、ラムジー夫人の「自分の年齢が50歳で末っ子が6歳」というのと同じ地点から、僕の妻の場合は、「そこで子育て専業主婦25年はやり切った」と、資格だけ取って長期間お休みしていた医師として復職して、60歳を超えた今、リハビリ科の医師兼訪問診療の医師して主に老人の人たちのことを診ている。
 「家父長制の時代の良妻賢母子育て専業主婦」と「新しい時代の自立した専門的知識や技能を持った女性」を、「同時期に両立」ではなくて(同時にしようとするから、今どきの人たち、個人としては疲れ果てるし、社会としては少子化するんだよな)、人生の時期を分けて両方とことん欲張ったという意味で、なんかヴァージニア・ウルフの、『灯台へ』の登場人物たち(ラムジー夫人も、画家のリリーも)の想像を超えてうちの妻の生き方、欲張りだなあと思うが、すごく正しいんじゃあないかと思うのだ。
 かれいにとことんお願いしまくって、「女王様」でも満足せずに「神様になりたい」といった漁師のおかみさんというのは、うちの妻のことなんじゃあないかと思うのだよな。少子高齢化をどうするかという問題意識について、妻のような「漁師のおかみさん」的欲張りライフプランもあるよ、ということを最後に蛇足だが書いておくのである。

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