『世界と僕のあいだに』タナハシ・コーツ (著), 池田年穂 (翻訳) アメリカの国の根幹にある病理を、息子への手紙という形で、強く訴えかけた本。同じ著者の小説を読みあぐねて、手に取った。こちらのほうが分かりやすかった。
『世界と僕のあいだに』
タナハシ・コーツ (著), Ta-Nehisi Coates (著), 池田 年穂 (翻訳)
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ここから僕の感想
直前、感想文を書いた、同じ著者の小説『ウォーター・ダンサー』が、あまりに読み進まなかったために、ちょっと目先を変えようと、前に買って、ちょっとだけ読んで積読状態にあった本書を手に取り直してみた。というのが読んだ経緯。
そうしたらば、今回は、こちらはすいすい読めた。『ウォーター・ダンサー』の読みにくさは、おそらくは著者の激しい怒りとか頑なさとか闘争心とか、そういう気負いが小説、文章のあいだからにじみ出て来て、それが僕には抵抗になっていたのだと思うのだが、そういう怒りや闘争心であれば、それは小説という形ではなく、本書の「息子への手紙」として、直接、語りかけられた方が、それはすんなり腑に落ちたわけである。
とはいえ、腑に落ちた、というのと共感したり賛同したりした、というのは違う。なぜ『ウォーター・ダンサー』が読みにくかったかと言うと、あの小説を書かせている原動力としてのその怒りというものが、明らかにアメリカの奴隷制により形成された、「アメリカの黒人」として生きるということに根差すものである。個別アメリカの黒人固有の構造、そして問題なのである。
本書『世界の僕のあいだに』で、著者がどういう構造としてアメリカの社会と歴史を捉え、そしてそこで黒人が具体的に生きていく中で、どういう暴力が襲い掛かってくるのかについて、それは息子に語りかけているわけなので、とてもよく分かるように書いている。
それはアメリカという国の根本、成立からある原理のようなものだということがわかる。それはアメリカの病み方として、ここ最近も噴出しつづけている。改善などしていない。
この構造について、本書とは全く関係ないのだが、保立道久氏がnoteで書いている。
同様のことをタナハシ・コーツは本書でこんな風に書く。
そういうアメリカという社会の中で、黒人の肉体の中で生きていくことになる息子に対して、タナハシ・コーツの思いのたけをダイレクトに書いたのが、本書である。
『ウォーター・ダンサー』の方の感想文の最後に書いたが、先に読むならこちらがいい。こちらが読みにくかったら、あちらを手に取ってみればいい。あちらがつっかかったら、こちらに戻ればいい。タナハシ・コーツとその一族家族がどのように生きてきたか、彼のボルティモアのストリートでの生い立ち、ハワード大学での体験、ニューヨークでの生活、妻に誘われてのパリの旅行、それを読んでから、小説のほうに立ち戻ると、なるほど、いろいろなことが腑に落ちるのである。あちらの小説はおそらく1840から50年代くらい、南北戦争直前くらいのヴァージニアを舞台にしているが、主人公の行動する範囲は、タナハシ・コーツが生まれ育ったエリアとほぼ重なる。時代が150年くらい昔ののことだが。
本書を読んで、その直接的主張に触れたうえで、『ウォーター・ダンサー』という小説で、主人公ハイラムの少年から青年にかけての体験と成長を読むと、そこには著者タナハシ・コーツ自身、その父母祖父母の歴史と、息子への願いを、小説という形で、たんなる激しい言葉だけではない、美しいイメージ、多くの登場人物の人生や行動や言葉の中に込めようという意志が伝わってくる。
なぜ小説のほう単体からそのことを読み取れなかったのか、というのは、これは書き手タナハシ・コーツの問題ではなく、読み手、僕の問題なのだと思う。それは、小説の方の感想文noteを読んでもらえればと思う。
こちらの本は、薄いくて短いし、その上、2015年の全米図書賞を受賞していて、つまり分かりやすいとおもうので、まず読むならこちらから、という順序でお勧めします。
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