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『エタンプの預言者』 アベル・カンタン (著), 中村 佳子 (翻訳) 時代から取り残され社会からズレちゃって炎上する65歳初老インテリおじいさんのことを、1985年生まれ39歳の小説家が書く、その観察力と想像力、距離感が素晴らしい。

『エタンプの預言者』
2023/4/24 
アベル・カンタン (著), 中村 佳子 (翻訳)

Amazon内容紹介

フランスでゴンクール賞ほか6賞ノミネート、センセーショナルな問題作!

白人男性65歳、元大学教師。リベラルで、しがらみのないインテリのつもりだった。まちがえた選択をし続けて65年。どうやら私は、社会から取り残されたらしい。

フロール賞受賞のほか、ゴンクール賞、フェミナ賞、ルノードー賞、アカデミー・フランセーズ賞、ジャン・ジオノ賞の6賞候補! 現代社会への痛烈な皮肉を込めた超弩級の注目作!

かつてタレント歴史学者を夢見たロスコフは、落ち目だった。95年に「冷戦下米国のソ連スパイ事件」を巡る書籍を刊行したが、翌日CIAが機密解除、本は一夜にして紙くずに。妻とは離婚し大学を退職、酒浸りだったロスコフは、同性愛者の娘のフェミニストの恋人に刺激され、研究を再開、サルトルやボリス・ヴィアンと親交があったアメリカの詩人・ウィローについての書籍を刊行する。客わずか5人の出版記念トークショーの席上、ロスコフはウィローが黒人であることを記述しなかった理由を問われる。翌朝掲載された匿名のブログ記事が炎上し、ロスコフはレイシストだという非難にさらされる。さらに自分を擁護するツイートに返信したロスコフは、炎上を煽ってしまう。ツイートした知人は、極右政党に入党していたのだ――。

Amazon内容紹介

うーん、Amazon内容紹介より、本の帯、表面のほうが、この本のこと、うまく伝えている感じがするな。

白人男性65歳、元大学教師。
どうやら私は、まちがえた選択をし続け、社会から取り残されたらしい。リベラルでしがらみのないインテリのつもりだった。それがまさかの、炎上で孤立。
「あなたは世界にパラダイムシフトが起こったことを、理解していないですよね?」
現代社会への痛烈に皮肉。超弩級の注目作!

本の帯

ここから僕の感想

 昨年暮れから読んでいて、今年初めに読み終わったのがこの本。

 初詣に行って引いたおみくじの中身が、僕の人生61年生きて来て最悪ぽかった。願い事もかなわず待ち人も来ず、病にはなるし、旅行には行くな、商売もだめ、転居も縁談もだめ、なにもせずじっしていろ、というような、そんな内容だった。

 そんなおみくじをひいた後に、この本を読み進めていた。「ああ、今年は本当に、なんにもしないで頭を低く下げて、注意して生きろ、ってことなんだな。」と思いながら。

  この小説の主人公、ロスコフさん。大学の先生だったが教授になれず定年退官、当然名誉教授だのなんだのという老後安泰な立場にはなれず、経済的に依存していた一流経営コンサルのやりての妻には離婚されて経済的にもかつかつの生活。チビで腹が出てほぼアル中の最悪の飲酒癖、無職の65歳である。トホホな引きこもり初老男性である。

 1958年生まれくらいだと思う。ほぼ僕と同世代である。僕はアル中ではない(下戸なのだ)し、妻には捨てられていないが、境遇に共感するところは多い。

 主人公は、1980年代前半から半ばの、ミッテラン大統領初期時代(左派政権)くらいに、アラブ人差別に反対する人種差別SOSという運動に参加していた(時流に乗って女にもてたい、みたいな動機だったとは言え)。1985年夏の、その団体が仕掛けた大イベント、コンサートが青春の全盛期。左翼でリベラルでいけている自分、という自己イメージをいまだにひきずって生きている。

 人種差別には反対で、いろいろイケてた自分。リベラル知識人で社会活動家で、女にももてないことはない。

 東西冷戦時代のアメリカ史の専門家となった大学助教授時代の1995年、スタータレント教授になりたくて、冷戦時代にスパイ罪を着せられたローゼンバーク夫妻というのを「無罪だ」と証明する研究をまとめた本を出版した。これで一躍スターだと思った出版三日後に、CIAの過去の機密情報が開示され、ローゼンバーグ夫妻が本物スパイだったことが明らかになって、スタータレント教授になる夢は絶たれる。大学でも「失敗したやつ」扱いをされて、出世コースから外れる。

 そして、定年退職後の今、65歳にして、昔、若い時に研究していた詩人についての本を出して、一発逆転を狙うのである。その詩人ロバート・ウィローというのは、アメリカのワシントンの黒人中流家庭の出身で、黒人の名門大学ハワード大学を出たが、共産主義者となり、当時のマッカーシズムの赤狩りを逃れてパリにわたり、サルトルらの人脈に連なったが、結局そこから離れて、フランス郊外でフランス語の復古主義的古典的な詩を書いて暮らしたが、すぐに若くして交通事故死した。今はほとんど顧みられることも無いこのロバート・ウィローという詩人の評伝、再発見の本を主人公は書き進める。この本で話題の人になってやる。そう思い、なんとか知人の紹介で小さな出版社を紹介してもらい、出版にこぎつける。

 ところが、その出版販促イベント的小さな講演会トークショーで黒人人種差別反対運動をしている活動家に批判されて、その後紆余曲折あり、ネットから大炎上、批判の渦の真ん中に投げ込まれるのである。

 Amazon内容紹介にあるような「ウィローが黒人であることを記述しなかった」というわけではない。ちゃんと生い立ちからなにから書いているのだが、「黒人であることよりも共産主義者であったことがアメリカから出た理由」であるし、サルトルと袂を分かったのも、ちょっと正確に引用しないとこれはやばいので引用するぞ。これはその講演会の章での、ロスコフが自著から引用朗読した箇所、の引用である。

 サルトルに言わせれば、黒人の魂を歌うことは黒人詩人に化せられた義務なのだ。その詩人の望みが普遍に到達することである限り、黒人性(ネグリチュード 本文ではルビ)は避けて通れない過程であり、『否定性の契機』なのである。人類全体の魂を歌える日が来るまで、黒人詩人は黒人の魂を歌うべし。これがサルトルの思想の命じるところだ。この命令はサルトルの周辺にいたウィローの型に重く圧しかかったに違いない。ショー地区という狭い社会から逃れるためにアメリカ共産党に入り、人類の一員になるためにプロレタリアートという名誉ある階級に溶け込もうとしたウィローが、サルトルの思想の命ずるところを好まなかった可能性は高い。

本書第四章「ついでに黒人でもある」P-135

 日本人の感覚で読むと、というか僕の感覚で言うと、それはこのロスコフさんの書いていること、べつに普通なんじゃないかと思ってしまうのだが、ロスコフさん同様、私も認識が甘いのである。自分の何がいけなかったのかを自覚していくロスコフさんの言葉を、また引用しよう。

 文化の盗用。
 この言葉は初耳だった。自分は六十五歳であり、もう現役ではないのだと気がつく。私はたまたま個人的に残念な事情から、自国および世界におけるレイシズムの現状理解に必要な根本的概念らしきものを発見した。

本書p-161

  ロスコフは自分が何を批判されているのか理解しようと、いろいろ勉強するのだが、なかなか理解できない。そして、元・妻に指摘される。

「あなたはなにもわかっていない」彼女は溜息をついた。
「ならおしえてくれよ、悟りを開いた大先生」
「問題はあなたがなにを書いたか、そして、あなたがどういう人間か、その合わせ技なのよ」
「僕がどういう人間かって?僕はバツイチで、癒されぬ男…」
「いいえ、ジャン、あなたは白人なの」
彼女はきっぱりとそう言った。いつもの炯眼で、真の問題を指し示した。雲がいっぺんに晴れた。(中略)本の内容はそこまで問題ではないのだ。問題は、作者のアイデンティティなのだ。つまり私の肌の色だ。
白色。
白色人種。
私は白人なのだ。
私は反論した。
「それが文学となんの関係があるの?」
「あなたは文学だけの話はしていない。ひとりの人間の人生を語っている」
「より正確にいえば、ひとりの人間を語っている」
「ひとりの黒人をね」
「だから?」
「ジャン、世界は変化しているの。あなたがそのことに気づいてくれたらいいんだけれど。去年の夏、アメリカで、とある女性作家がラテン系住民のコミュニティに謝罪を表明することになった。ラテン系住民には我慢ならなかったの。その作家が、カレン・グラッスル演じる『大草原の小さな家』の母さんみたいなしたり顔で。メキシコの麻薬戦争の被害者の人生を語るのが」   

本書p-171~172

  昔、人種差別反対運動をしていて、人種差別問題は理解しているどころか運動家・専門家だったのだと思っているロスコフは、だからこそ今の時代変化について理解できず、間違いをどんどん積み重ねては大炎上してどんどん窮地に追い込まれていくのである。

作者について。作者と主人公の距離感について。

 この小説の作者、アベル・カンタンという人は、白人ではあるが、1985生まれなのである。主人公ロストフよりもだいぶ若い。ちなみに私の子ども生まれ年は1988年~2004年。この小説の中のロスコフのひとり娘レオニーは20代後半くらいだから、1997年生まれとか、そんなかんじだと思う。作者カンタンから作中一人娘というのが、おおよそ僕の子ども世代ということである。

 僕の子供世代に属するアベル・カンタンなのに、彼は65歳の哀れな主人公ロストフの一人称で小説を書き進める。

 85年生まれ39歳にしては、よくぞこんなに65歳初老の男の考え方感じ方をよくわかって、うまく書くなあ、と感心してしまう。

 80年代の青春の栄光、いろいろ武勇伝を忘れられない感じ。当時のロックミュージックを愛好していたりすることで、いまだに若いつもりでいる感じ。デペッシュモードとかキュアとか出てくると、ああ、ほんとに同時代人だなあ、と思ってしまう。女性やセックスへの未練を断ち切れないで、すぐにそういう思い出にふけったり妻とよりを戻せないかと考えたり、今現在出会う女性に対してそういう想像をしてしまいつつも、女性にそういう相手とは見られなくなっていることは自覚していること。若い女性にやたらと話しかけてしまう老人男性、というふうになることをすごく恐れて気を付けているのに、つい、そうなりそうになっては「いかんいかん」と反省するところ。もう、本当にいやになるほど、いまどき初老60代のことをうまく書くなあ。

 作者はここまで65歳主人公のことをよく理解した上で、やはりさすがに作者39歳だから、初老老人のことを批判的に突き放して観察もしているのである。時代にアップデートできずにみじめな失敗を積み重ねるさまを滑稽にかつ辛辣に描いていく。

 しかしまた彼を批判する側の活動家たちのことや、炎上させていくSNSの投稿者たち、ロスコフを批判する側と擁護する側の分断のありよう、その全体のことも客観的に批判的に見ている。

 このあたりのいまの社会状況全体に対する洞察の俯瞰的・冷静なところは、この作者、もともと弁護士さんだというので、なんとなく納得できる。知的で、あらゆることに距離感を持てる人だなあと思う。

 ちなみに主人公の親友、80年代の青春時代からのつきあいで、炎上事件勃発後も、迷惑がりつつも、かなりのところまで主人公のことをサポートしてくれるマルクという人物が脇役として小説冒頭近くから最後まで登場している。

 有能なやりて弁護士で左派政治家になろうと選挙に出ようとしている、という人物である。

 弁護士マルクが、そうとうに困った迷惑な親友であるロスコフを見つめる距離感、というのは、作者がロスコフを描く距離感と、実は近いのではないかなあ、という感じがする。

 そう、主人公と作者の距離感というのが、娘だのマルクだのを使って、なかなかにうまく取れているのである。年齢的距離も、社会的職業的距離も。
 出版されたものとしては本作がまだ二作目の小説なのに。普通、小説家になってのキャリアが短いうちは、主人公と作者の距離は、どうしてももうちょっと近くなってしまいがちだと思うのだな。このあたり小説家としての技量か高いと思うのである。今後もいろいろ期待できそうな感じ。

 イギリスのイアン・マキューアンみたいになるかもなあ。イアン・マキューアンもいろいろいまどきの風潮に対して批判的な立場での小説(『ソーラー』とか)を、すごく器用に、幅広いテーマで書いている。
 マキューアンの場合は僕よりひと世代上の、ベビーブーマー世代じいさん(1948年生まれ、御年76歳)として「いまどきのいろいろな風潮、気に喰わない」という感じで書いてしまっているみたいなところがあるが、アベル・カンタンさんはほんとに若い世代、僕のこども世代の作家として、つまりは時代の変化、パラダイムシフトが起きた後に大人に、小説家になった世代として、こういうものを書いてくれるのは、それは意味が違う。存在意義が違うのである。

  社会的に比較的成功している政治に近い立場の人、経済的エリート、それに大学の先生。そういう世界に生きる人たちを主人公としながら社会の現在の問題を鋭く描く、という意味では、イギリスでならマキューアンだけれど、フランスだと、ミッシェル・ウェルベックの系譜の人、という感じもする。この本を翻訳した中村佳子さんというのは、ウェルベックの主要作品の翻訳を手掛けている。

 「じいさんの書くじいさん小説」を去年はたくさん読んだわけだが、若い世代が、じいさんのことを辛辣痛烈に、しかし正確に観察して書いてくれる小説というのは、あんまりなかったからな。ありがたい感じである。

 なんといっても、かなり最悪なおみくじを引いたので、どういうことに注意して、時代遅れになったじいさんは生きなければいけないかを、学ぶことができるもんな。

 新年、今年は「自戒のための読書」「頭を下げてリスクを回避するための読書」をしよう。そんな年頭の決意を固めさせる本でありました。


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