『奥のほそ道』リチャード・フラナガン著 noteを始める前に、2018年12月19日に書いていた感想文をブログから転載。
『奥のほそ道』 単行本 – 2018/5/26
リチャード・フラナガン (著), 渡辺 佐智江 (翻訳)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
しむちょーん、読んだよー。本物の小説です。本物の文学です。としか、言いようがない。
こういうすごい小説は、Amazon内容紹介を読んでしまったとしても、まったくネタバレの心配がないのだよな。あらゆる細部が、あらゆる人物が、どのエピソードのひとつもが、息詰まるような切実さ、真実に満ちています。戦争を舞台にし、それを軸にたしかに小説は進みますが、それにとどまらない、何人もの異なる人生のまるごとが、驚くべき多様さをもって描きこまれています。
話はかなりズレるのだけれど、先日、大学の教養課程のときのクラス会というのがあった。多くはそろそろ「社会人キャリアの終わり方」ひいては「人生の畳み方」に悩むお年頃なわけで。私もフリーランスだから、年とともに仕事はどんどん減っている。ので、近いうちに仕事は自然消滅になるだろうから、ここから先は、良い本、文学思想の本当に優れた本を読んでは、モノを考える、という本当にやりたかったことを、頭が働くうちにやっていきたいものだなあ、というようなことを語ったりした。そうすると、「原は悠々自適だね。奥さんがお医者さんでうらやましい」というようなツッコミが入ったりする。
文学を読む=趣味=悠々自適、ゆとりがあってうらやましい、という理解のようなのだが、違うのだよなあ。そういえば、電通同期の友人と話していても、同様のつっこみを食らうことが多いので、世の中一般での「文学」って、そういうふうにしか思っていない人が大半なんだろうなあ。
お金になる=仕事。お金にならない=趣味、というとらえ方なのかな。読書という読むだけ体験=お金にならない=趣味、ひまつぶし、という捉え方なのかな。
文学は娯楽ではない。文学は趣味とは違う。僕らの大学のクラスの半数以上は「文学部」を出ているはずなのだが、文学にその程度の価値しか見出していなかったのかなあ、と正直、非常にさみしく思う。
まあ文学部と言っても社会学や社会心理あたりを実学として学んで、広告マスコミ業界で仕事をしてきた皆さんからすると、「いつまでも文学なんて青臭いこと言ってんの」と思うのかもしれんがなあ。
本当に優れた文学においては、一冊の本には、人生全体や世界全体というサイズの何かが詰まっていて、その本を読む前と後では、自分というものが深いところで変わる。そういう体験を通じて、世界のとらえ方、人生の意味を自分の中に広げていくか、というのが、文学を通して生きる、ということなのだけれど。
というように本を読む人には、ものすごくおすすめの本です。包含されている世界と人生の奥行きが、とてつもなく大きな本です。
この本で言えば。先の戦争のときの、日本軍士官、教育も教養もある人たちが、どのような思想と思いでもって、捕虜虐待をしていたのかしら、ということについて。この作者は、虐待されたオーストラリア捕虜を描くだけでなく、虐待した方の人間も、なんとか理解して描こうとする。それは、私がこれまで読んだ日本人小説家、日本文学で描かれてきたものとは、けっこう異なる。初めて読む、日本軍人の姿と思想であったりする。特定の政治的立場からステロタイプ的批判的に描く、というようなことがない。理解不能な日本人の行動と思想を、なんとか、納得できるものとして把握し、描こうとするその文学的な想像力と筆力には驚かされる。階級の異なる何人かの日本人士官、兵士、朝鮮人軍属、どの人物についても、リアルな、生きた人物像として描かれていく。単に収容所のシーンだけでなく、その前後のそれぞれの人生までもが深く描かれていく。
もし、例えば、現代を舞台に、イスラム原理主義者が日本人を拉致し拷問する、という設定の小説が日本人小説家の手によって書かれるとして想像してみよう。
その拉致拷問を行うイスラム原理主義者の、「現場の若者」「現場指揮官」「指導者」それぞれの人物像、思想と動機、宗教理解の深さの違い、背景を、細かに文学として納得できるように、しかもイスラム教徒側が読んでも納得できるように書くとしたら、それがどれくらいの難易度の高いことかは想像できると思う。
今、上でたまたま取り上げた日本軍人の描き方、というのも、この本の中に包含されている、ごく一部でしかなくて、戦争文学ということで人が普通想像する範囲をはるかに超えた様々な人物とエピソードが、どの一部をとっても、身もだえしたり、ため息がでたり、激しい生理的嫌悪感を催したりするような見事さで描き出されています。
途中、「ここで終われば感動的」というところを超えて、小説がなかなか終わりません。「欲張りすぎて失敗したかな」と思いつつ読み進むと、響きがどんどん複雑になって広がっていきます。伏線の収拾のような小手先的技巧を超えて、小説が膨らんでいきます。大作ですし、長いし、複雑だし、ですが、もし読み始めたならば、ぜひとも、最後まで、読んでみてください。
※追記、5年以上前の昔の感想文を今、アップしたのは。
お互いのnoteの感想をコメント欄で交換している「木さん」という方がいます。とても丁寧に私のnoteを読み解いてくださるという意味でもとても貴重な方です。その上に、木さんは今現在も海外でイギリス系のパートナーと暮らしていて、パートナーの方のイギリス系ご家族、お義母さまとの交流の様子などもnoteに書いたりコメント欄でも教えて下さる。私のような、外国語が全くできず、翻訳小説の中でしか海外のことを知らない人間にとっては、「リアルに海外小説の登場人物のような人生を生きている方」として憧れと尊敬の対象です。
その、木さんのパートナーの方が、今、ジョージ・オーウェルの『ビルマの日々』という、イギリスのビルマ植民地支配(そのひどさ)についての小説を読んでいる。木さんとのやりとりで、そういうことを教えてくださった。そのお返しに、日本が先の大戦のビルマ周辺でどんなひどいことをしたかを書いた小説がありますよ、ということでこの小説を紹介しようとして、たしか感想文を書いたはずと思って自分のnoteを探してみたが、無い。noteを始める前にソネットブログに書いていたのだと気づいて、探して、あちらのブログはかなり荒れた状態になっているので(変なポップアップ広告がたくさん出てきてしまったりするので)、noteに転載してから木さんにお伝えしようと、そう思ったという経緯でした。しかし、この本、コロナ流行が始まってすぐにFacebookで流行ったブックカバーチャレンジ(7冊の本を紹介しては友人に伝えていくチェーンメールみたいなもの)のときに、私は選んでいたくらい、「日本の戦争についての小説をひとつ選べと言われたら、これ」というくらい、優れたものだと思っているので、もしよろしかったら、読んでみてください。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?