『トリホス将軍の死』グレアム グリーン(著),斎藤 数衛(訳) パナマ運河、アメリカに権益も周囲の土地もまるごと永遠に支配されていた運河協定。その改定を成し遂げたパナマのトリホス将軍とグレアムグリーンの交友の記録。
『トリホス将軍の死』1985/10/1
グレアム グリーン (著), 斎藤 数衛 (翻訳)
Amazon内容紹介は無いので本の帯、裏表
ここから僕の感想
読書師匠・しむちょんが教えてくれた本。いやもうなんとも言えぬ読後感。自分ではおそらく読むことのなかったろうこういう素晴らしい本を、読書師匠は教えてくれるのである。感謝。
イギリスの有名小説家グリーンとトリホス将軍、その側近おつきのチュチュ(元大学の哲学と数学教授で詩人で軍の軍曹で要人の護衛や運転手をする、現地でのグリーンのお世話係)彼らの間の友情、人間くさいとしか言いようのない交流。それだけでも面白いのに、彼らが世界史的サイズの歴史的事件の登場人物となるというドラマチックな出来事が描かれていく。
そしてその間、中米の政治と社会の現実が、そこに生きる有名無名の様々な人物や事件を通して語られていく。おかげで今まで中米の国々というの、ひとつひとつの国情や政情についてはっきり認識できていなかったことが、頭の中ではっきりと整理されていくのである。ニカラグアって、ホンジュラスって、エルサルバドルってどんななの。グアテマラ、ベリーズ、コスタリカ、それぞれどんな感じなの。今まではなんだかよく区別がつかなかくてわからなかった国が「あの人があんなふうなことになっていた、あの国」と識別可能になってくるのである。
パナマと言えばパナマ運河。運河協定について。
語りたいことがたくさんあるのだが、さて、どこから手を付けようかな。
トリホス将軍の「世界史的役割、事件」ということから語るのが、分かりやすいかもしれない。
パナマと言うば、パナマ運河なわけだ。パナマという国はもともとコロンビアの一部だったんだけれど、パナマ運河を作るのに金を出したアメリカが、パナマ運河を丸ごと自分のものにしてしまうために、コロンビアからこのあたりを無理やり独立させて、傀儡国家を作っちゃったというのが、そもそものパナマ建国の歴史なんだな、ざっくり言うと。このあたりの事情はコロンビアの現代作家、ファン・ガブリエル・バスケス(ガルシア・マルケスの後継者と言われている)の『コスタグアナ秘史』で描かれていて、読んでいたのでだいたい把握している。これもしむちょんに教えてもらった作家、小説である。
で、パナマとアメリカの間には運河を作る前に1903年に結ばれた「運河協定」というのがあって、運河の周りの地域の主権は永久にアメリカのもの、運河の運用利益も全部アメリカのものっていう、とんでもない協定が結ばれていたんだな。で、1914年完成後も、運河の周りだけものすごくきれいなアメリカ人居住区があって、そこはアメリカ。という状態だったのだな。これ、日本人的には、今も米軍基地の残る相模原市在住、僕としてはよく知っている気がした。米軍基地があって、基地の中だけは別世界みたいに広々とした芝生と大きな住宅が広がっていて、基地は米軍は永久に使い放題で、というのにすごく似ている感じなのだな。今、日本の選挙でも米軍地位協定の見直し、とか話題になっているが、「パナマ運河協定」っていうのはまあ、国のど真ん中の一番価値ある運河とその周りが、永久にまるごとアメリカのものっていう、そういうすんごいひどい協定だったわけだ。
でもまあ第二次大戦後くらいまではパナマの支配層はアメリカべったりの富裕層が支配する国だったので、それでもよかったんだが、1950年代くらいから、この運河協定を改定して、パナマ運河とそのまわりをアメリカから取り返したいっていう動きは、当然、起きたわけだな。
で、その頃から中南米ではチェ・ゲバラとカストロによってアメリカに支配された軍事政権を倒そうという動きの結果、キューバにカストロの社会主義政権が生まれたり、武力闘争じゃなくて民主的な選挙で社会主義政権が出来たチリのアジェンデ政権とか、そういういろんな形の左派政権ができたりした。
のを当然アメリカは冷戦の時代だから、自分自国の裏庭の中米から南米に左派政権ができるのを阻止しようと、CIAも暗躍して、当時1970年代後半というのは、チリでは悪名高き独裁者ピノチェトがCIA、アメリカの支援でアジェンデ政権を倒してひどい軍事独裁を敷いていて、アルゼンチンも同様親米独裁軍事政権、人権抑圧と新自由主義経済政策でやりたい放題だったのだな。
で、パナマでは、親米独裁長期政権だったのを、このトリホス将軍が追い出して、でもトリホス将軍が目指したのはばりばり共産主義の左翼の国ではなく、中道社会民主主義政権だったのだ。
で、当時、アメリカ民主党カーター政権と、運河協定の見直しに取り組んでいた、そういう時期だったのだな、グリーンが呼ばれたのは。
本書のクライマックスは、その新運河協定の調停式に、グリーンもパナマの代表団の一員として参加する、その調印式のシーン。パナマ側の代表団には、あの(『百年の孤独』の、ガブリエル・ガルシア・マルケスも参加していて、グリーンとマルケスは友人として、その前も、その後も、トリホス将軍の死後も何度も会うシーンが描かれている。
この式典にはチリのピノチェトやアルゼンチンのビデラという独裁者も招かれている。アメリカ側はもちろん大統領からキッシンジャーまで、超有名人ずらーり勢ぞろいなのである。
この協定では、(この調停から22年後の)1999年にパナマ運河はパナマに返還されることになっている。実は調印した後にアメリカの上院でさらに修正が加えられたりと、それが本当に実現するまでにはまだ長い紆余曲折はあるのだけれど、(トリホス将軍の後にパナマの大統領になったノリエガ将軍に対して、アメリカは1989年に軍事侵攻を仕掛けてノリエガ政権を打倒したりした。アメリカの横暴は続くのである。)
それでも協定通り、パナマ運河は1999年にパナマに返還されたし、今、中南米のほとんどの国は、トリホスが望んだような、ゆるやかな中道左派政権が多数派を占めるようになっている。もちろん、軍事独裁の国や、国内での右派左派の対立が激しい国は多いけれど、それでも他の大陸とは異なる形での、民主的選挙による政権交代で成立した中道左派政権が多数派となり、アメリカの支配から距離を置くようになっている。そういう大きな歴史の流れの中で、このトリホス将軍のパナマが、運河協定を改定して、アメリカから完全な独立を勝ち取ったというのは、大きな事件だったと思うのだよな。
小国パナマが、大国アメリカに対して、時間はかかるけれど、その主張をなんとか通していく、その現場にグリーンが立ち会う。立ち会うだけではなく、それは世界に向けて、グリーンやガルシア・マルケスがいることで、「理がこちらにある」「正義がこちらにある」ということは、きっと発信されたんだろうなあと思うのだよな。なんというか、弱い立場の国が、なんとか理を通して権利を回復していくという、そのことに感動してしまうシーンであった。
そう書くと、トリホス将軍が、そうやってグリーンを政治的に利用するために、パナマに呼んで関係を作ろうとした、そう思うかもしれない。いや、きっとそういうこともきっとあったのだろうけれど、それだけではない二人の間の友情、信頼関係、そしてグリーンの中の、もし自分が役に立つのであれば、利用されているとされても、それでいい。自分の中で正しいと思うことに利用されるならそれはかまわないという気持ちもあったのである。このあたりのグリーンの義侠心のようなもの、政治的信念と人間としての筋の通し方と、それと人としての友情みたいなことが合わさった心持というのが、なんか、熱い。いいなあと思うのである。
トリホス将軍も女好きだが、側近のチュチュはものすごい。
と、こう書いてくると、すごく真面目な、政治的な話ばかりの本のように思うかもしれないが、いやいや、トリホス将軍と、それ以上に本書では登場回数も場面も多い「運転手にして護衛にして世話役」チュチュという人物、やたらと酒好きで女好きで、何人、奥さんと恋人愛人がいるのだか、どこで子供を作って何人子供がいるのか、分からないくらいの女好き。いろんな国、島、街に、田舎の農園に有名な観光地に、車で軍用機でヘリコプターで民間機でグリーンを連れまわしてはいろんな人に合わせるのだが、それを利用して、自分の恋人や愛人に会いに行ったり、偶然出会った美人を口説くのに突然消えたり、とつぜんその女性を「あ、この人も一緒に食事するから」みたいに連れてきたり、もうやりたい放題なのである。いやもちろん、将軍の側近としてとても優秀であり、要人との会合を設定したり、周辺の国で弾圧されてパナマに逃げてくる人をかくまって世話をしたり、周辺国の反政府勢力に武器を調達したりと、いろんな役割を果たしている。そういう「有能な側近」と「酒好き女好きで大忙し」というのが一人の人物になっていて魅力的なのだな。読み物としての本書の狂言回しのような役割を果たしてくれるのである。
そんな感じで、チュチュから「将軍が会いたいということで、もうKLMのチケットはとってあります」と、欧州に帰っているグリーンに電話がかかってきては、パナマに飛んで、いろんな人に会い、政治的な動きの中に巻き込まれ、という交流を数年間、続けるのである。
トリホス将軍は、新しい運河協定を結んだ数年後に、アメリカの大統領がカーターからレーガンに変わって、左派政権への弾圧が強まる中で、謎の飛行機事故で死んでしまう。
それでもまたチュチュはグリーンをパナマに呼んで、グリーンにお願いをする。トリホス将軍亡き後も、将軍の目指す理想と理念はパナマに生き続けていると示すために、グリーンはニカラグアとキューバを訪問し、キューバではカストロと会う。その席で、またガルシア・マルケスとも再開するのである。
ガルシア・マルケスとグレアム・グリーン
このnoteの冒頭写真、この本の両脇にある二冊は。ガルシア・マルケスの遺作となった『出会いはいつも八月』と、グレアム・グリーん全集第9巻『恐怖省』。
『出会いはいつも八月』はこの夏に読んだ。
この小説の主人公女性アナ・マグダレータは読書家である。毎年、母の命日に母の埋葬された島に行き、そのときだけ一夜限りの男と浮気をするという話なのだが、この島への旅行の間、アナは必ず読書をしている。その本の名前をいちいちガルシア・マルケスは書いている。
小説の後半、三度目の島訪問が不調に終わって、帰ってきた後、夫の浮気を疑うようになる。そのやりとりのシーン。
『恐怖省』ってどんな小説だろうと、調べてAmazonで買っていたのだな。まだ読んでいないけど。グレアム・グリーンの小説は何冊か買って、読まずに積んである。
それが、今回『トリホス将軍の死』で、なんと、グレアム・グリーンとガルシア・マルケスは友人で、歴史的な運河協定の調印式に一緒に出席し、将軍の死後、キューバのカストロ将軍の前で、また再会している、そんな関係だったのだと知って、なんとまあ、びっくりでした。晩年のガルシア・マルケスが、夫の浮気を聞いてみようというその直前に、主人公が読み終える小説に、グリーンの『恐怖省』を選んだのは、どんな気持ちか、意図からだったのかな。
そんなこともこの『トリホス将軍の死』を読んで思ったので、次は『恐怖省』読んでみようかな。
余談。そう、もう古本でしか手に入らないのである。僕が読んだのも古本なんだけれど、これが、実に「古本くさい」本だった。かび臭いような古本独特のにおいがして。ここ数年読んだ古本の中でいちばんくさかった。