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リベラルに生きること

仕事が自分のものであるために、最も大切なことはリベラルであること
誰かのためのサイクルから抜け出して、わたしのために仕事をすること

現代の仕事の大半は被雇用形態で行われるので、誰もが多かれ少なかれ上司にあたる人がいて、顧客にあたる人がいる。様々な奉仕の対象の間でバランスを取りながら上手に生きていくことが求められる。これを否定してあらゆる人が独立していけばいいというのは少々暴論だろう。
ただし自らを差し出すことで報酬としての対価を得ているという構図の上では、仕事を通じた産物や報酬はあなたのものではなくなってしまう。意思なき奴隷や小間使いと同じ、日常の心配事に一喜一憂し、本質的な成果や目的を見失ったまま死んだように生きることになる。
それに対しての人間の一生はあまりに長すぎる。それは仕事ではなく労働である。

木が育つ方向は常に木が決める

誰かのためではなく、あくまで自らのために報酬を得て、進みたい方向は自ら決める。わたしの仕事はその実現手段のひとつでしかない。
わたしのために選び、わたしのために決定し、わたしのための報酬を得る。
報酬とは金銭的な一時的なものではなく、仕事を通じて得られた知識や経験、技能の総合だ。できたこと、できなかったこと。楽しかったこと、つらかったこと。その一つ一つがあなたの人生の報酬である。その過程に誰かがいるだけのこと。誰かに喜んでもらうことが目的ではなく、誰かに喜んでもらうことで自分が満足することこそ、真に仕事で実現すべき報酬だ。

一方で被雇用型の労働である以上、そこには常に指示命令が存在し、その方向性は必ずしもわたしの希望と一致しない。現実的には全体感を優先し、意に沿わない行動もこなさなければならない。リベラルの敗北である。しかし必要な行為である。
これが後手に回り続けると仕事はできない。そこにあるのは単なる労働でしかない。わたしの管理者の成果の一部分として機能したに過ぎない。わたしは時間を差し出し、一時的な金銭を受け取るだけである。これが後手に回らないために、常に先手を打ち続ける必要がある。このために必要なのが、リベラルアーツに他ならない。わたしを管理する様々なものの先手を打ち、方向性を調整し決定権を得る。あなたの都合のいいように物事を進めていく。それを通して全体の成果を出していく。これが仕事である。

リベラルアーツとは、古代ギリシア・ローマ時代に源流を持つ「自由七科」のことで「人が持つ必要のある実践的な知識の基本」を指す。古代ギリシアの時代ですでに、奴隷と区別される自由人として生きていくためには一定の教養が必要だった。
(詳細は以下リンク参照)

わたしの仕事はわたしのもの。
そのためには誰かの決めた枠組みから抜け出し、リベラルに生きること。
それは自分勝手に生きろということではない。
あなたの仕事があなたを豊かにし、結果としてそれが誰かに対する貢献となることこそ仕事の本来のあるべき姿だ。
これは容易なことではない。うまくいかないことも多くあった。悔しさと失意の中で泣きながら帰る夜もあった。うまくいくことの方が実際少なかった。これからも多くは得られないだろう。

ただ、決してあきらめてはいけない。死んだように生き続けることはできない。
もがき苦しみ、社会と人間の泥の中で、何か一つを掴もうとあがく姿にこそ自由がある。そのために仕事をする。わたしのために仕事をする。

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