なかったんじゃなくて、あったかもしれないけど、潜ってこなかったんだ
過去にあったことを対象化しながらも、そのことを「終わったこと」として扱うことと、その過去と関わり続けながらもうまく付き合えるようになることとは違う。うまく付き合うというのは、「回復し続ける」というプロセスであり、永遠に現在進行形なのかもしれない。だから、時に過去は目の前に忍び寄って、怒りや怖れの対象になる。他人から見ると、「なんでまだ怒っているの?もう昔のことじゃん」と思ったとしても、その対峙のリアリティは計り知れない。そこに対話の距離は生まれる。「私には君の気持ちがわからないわ」と。
時に人は「理解してほしい」というよりは「理解できないかもしれないけど、まずはそういう感覚であることを知ってほしい」と思う。そういった感覚が存在するということ自体がわからない人はたくさんいるだろうし、実存のパターンとして知ることはとても大切だと思う。そしてそのパターンは本当に言語化するのは難しく、話をするにも段階がいるだろう。
人生は素晴らしいか、つまらないか。その問いを中学生が素晴らしい派とつまらない派に別れて熱く議論しているときに、ふとある少年が「僕にはその問いの意味がわからない。だって人生そのものがどういったものかわからないのに、なぜそんな風に問えるのか?」と言う。これは、池田晶子さんの『14歳からの哲学』に書いてあるエピソードだ。僕はこのエピソードがとても好きで、勤務先の大学生にもよく紹介する。
何かの「当事者」という人が、その「当事者性」をめぐって意見を言う時、「あなたはたいした当事者じゃない」という話をすることがある。「私の方が悲しんでいる」「私の方が経験している」。確かにそうかもしれない。それを言われて何も言えなくなることも多々ある。いとうせいこうさんと震災と文化にまつわるトークをした際にいとうさんは「100%の正しさはない。僕たちは神様ではない。みんな人間。だから当事者には当事者の限界があるし、非当事者には非当事者の限界がある。その限界を差し出し合ってこそ現場が生まれる」と語っていた。では、当事者性が丁寧に意味を養いながら広がり、当事者性と非当事者性のあわいの領域に可能性を見出せるとすればどうだろう。
強い当事者性がないと自覚するがゆえに語り得なかった言葉を包摂してくれるマインドセットが周囲にあれば、これまで言語化されてこなかった形で、「ここにもずっと回復し続けてきた人が居るのだ」と気づくことができるのではないか。当事者と非当事者、あるいは強い当事者と弱い当事者、いずれにせよそういった二項対立になる前に、当事者性そのものをどう考えるかという対話をなんとか互いを傷つけ合わずに(というか傷つくことはやはりあっても、傷つけ合いすぎずに)いられる中間地帯を私たちはやはり「日常」のなかで必要とすべきだ。その「日常」は、おそろしいほど「日常」かもしれない。つまり、「たいしたことはない」と言われる危険性を常態的に孕んでいるという意味での「日常」だ。そこに目を凝らす、耳を澄ます。自分になかった実存のパターンをしっかり招待する。そこでようやく「いや、なかったんじゃなくて、あったかもしれないけど、潜ってこなかったんだ」と思うかもしれない。人の海は深い。