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ゲーム・クリエイター飯田和敏・新作 『スタジウム』 寸評


 飯田和敏の新作、『0323 スタジウム』は「海底散策ゲーム」の開祖の新局地であった。
 この「新しいゲーム」は、2022年3月23日に行われ、パフォーマティヴなゲーム作品であり、飯田の同時に原点回帰とも言えるものであった。




 飯田和敏は言うまでもなく、『アクアノートの休日』(1995・アートディンク)で鮮烈なデビューを果たした、伝説のゲーム・クリエイターである。
『アクアノート〜』については今更説明は不要であろう。
 Macintosh向けの、自然観察ゲーム『アクアゾーン』からも着想を得て、オウム真理教の時代に生み出された、多重の意味を持つ、3DFPの海洋散策ゲームであり、飯田のそれからの作家性を決定した揺るがない傑作である。

 筆者はこれまでにも、『アクアノート〜』については論じてきた。
飯田和敏の芸術性〜 『アクアノートの休日』 再考〜|荒木航|note

 その後も「ゲーム菩薩グループ」によって、インディーゲーム『水没オシマイ都市』(2018)という、現実の地形情報を用いたVRコンテンツを制作している。
 ソナーで遺伝子のカケラを探し、軌道エレベーターに運んでいくプロセスに他者にも出現する。協力することも競い合いもことも出来る、といった『アクアノート〜』をさらに進化させた作品を生み出している。

 今回の『0323 スタジウム』はツイキャスという動画配信システムを利用し、スマートフォンのカメラに青いレンズを取り付け、現実を海底化してそこを散策する、という飯田の近年のモチーフである「繋がる」を意識した作りであった。

 同時に、パフォーマンスが行われたのは、『サンガスタジアム by KYOCERA|京都府立京都スタジアム』であった。
 京都府内唯一の球技専用複合型スタジアムであり、京都サンガ F.C.のホームスタジアムとして活用されるほか、サッカーやラグビーなどの国際試合が開催可能な会場である。
 そして、重要な点はそこは「無人」であった。

 あくまでもゲーマーがいるのは、スマートフォン、PCのモニターの前であるのだが、映し出されているのは無人、朗読者のあかたちかこ氏、複数のダンサーだけの閑散としたスタジアムだ。
 そこには普段の熱気や雑踏はない。会場に設営された「KYOTO」と大きな文字は見え隠れするものの、我々は一体どこにいるのか? 
 その大きな問いが最初に提示された。

 飯田はカメラに細工し、全てを「海底化する」、あるいはそう見えることで何を行おうとしたのか?

 今回の『0323 スタジウム』は飯田がテーマとする、「現実 VS 虚構」というのに肉薄した作品であった、と筆者は考える。

 もはや映像(現実)を映し出す瞬間が、無数のデータベースの集積のキャス(虚構)になった瞬間に、そこの差異はない。境界はもはや瓦解していく。
 全てが虚構化していく現実(コロナ・戦争)の中で、現代ではそこに垣根は存在しないのかもしれない。
 あるいは刹那に移動していくその虚構と現実の瞬間を、相互的に包括していく際を構築していく試みなのかもしれない。

 飯田はパフォーマンス前日(22日)のツイキャス配信で、「今までのようにゲームという虚構に入り、現実に帰還するというのは機能しないのかもしれない。そういったことではない」と述べているので、筆者の考察には間違いない。

 そして、その空間が、まさに飯田が追い続ける海だった。あるいは全ては海底化していく。
 ここで飯田が一種の「瞑想ゲーム」として『アクアノート〜』を開発したときの次元を、はるかに上回り、現実に意識・無意識の境界を曖昧にさせてしまった脅威がある。

 「現実 VS 虚構」の薄い皮膜については、飯田が薫陶を受けた詩人・映像作家である鈴木志郎康の世界に、このパフォーマンスを通じて近づいた。
 学生時代、飯田が鈴木氏から教わった、デュシャン的「超皮膜」の世界へ、行われた二時間の中で飯田がまさに近づいた瞬間だと考えられる。

 無人のスタジアム(無人の人間の集合地)を「海底化」することによって、競技・闘技の歴史に沈んだ観客のざわめき、あるいはそこにいた、今もいるのかもしれない無数の意味のコンテクストの「影」のような朧げな無数の人々の「声」の蓄積が浮かび上がる。
 あえて、芝生には立ち入らず、観客席の映像を映し出すことで、「見ていたもの/見ているもの/これからも見るもの」の存在と、闘技・競技とは関係なく、ふっと無意識に生まれた「ことば」を恣意的に映し出そうと、拾い上げようとしている「優しさ」が、まさに飯田ゲーらしい、と筆者は感じてしまう。

 普段ならば消されていくもの、意識されないもの、あるいは淘汰されていくもの……。
 あかたちかこ氏が朗読されている言葉は、氏のプロジェクトであった『ウーマンズ・ダイアリー』に記された「女性のことば」なのだそうだ。
 そこには明確にジェンダー的な意味がある。
 マチズモ的なスタジアム(闘技・競技場)の歴史で、女性がその地で競技を行える許しを得たのは近年で、コロッセオまで振り返えり歴史を考えれば、あまりにも短いのが現実である。

 あかた氏の朗読は、まさに「女性の淘汰されてきたことば」そのものに違いない。
 それが無人のスタジアム、観客性に「影」のように浮上する。その瞬間をあかた氏の朗読も相まって、まさに飯田は捉えることに成功した。

 あるいはもっと先へと進んでいき、語られる「声」そのものからことばの意味が剥奪されていくことによって、「性」の境界を揺らがせる。「男性/女性」と二分化されない「声」……。
 それに耳を傾ける瞬間、女性の聞こえなかった、いや、我々が聞こうとしなかったことばである、と認識し、日常を精一杯生きることへのシンパシーを感じた瞬間に、あかた氏の声の先でこちらの性自認までもが揺らいでいく。

 そもそも海底ではそれすらも明確化しなくても良い、些細な日常の取りこぼされ、見向きもされなかったことばそのものこそが大切なのだ、という解放されたリベラルがある、と筆者は感じた。

 ことばは、あえて連動させて相互性を持たせない「ダンサー=身体性」の動きにも現れる。
 ダンサーはまるで海底生物が表現されているようだが、『アクアノート〜』のようにこちらがアクションを起こす(飯田が実際に指で突く)が、魚とは違い、彼ら彼女らはもっと自律的に行動している。
 そして同時に飯田のカメラ、あかた氏の朗読が、ダンサーの声とも明言できない、あるいは明言をさせること、相当に意図的に拒否している。

 あくまでも彼らもまた自立した「影」であり「生物」であり「人そのもの」である。それは今ではないここの存在か、ここではない今の存在。
 人間の「言語化」「記号化」された行動を逸脱し超えていくダンサーの身体性というのは、もはや生物ですらない「生そのもの」なのかもしれない。

 『アクアノート〜』で、シュルレアリスム・ブルトン的な「狂気の世界」と「エンディングのないゲーム」で永遠の放浪を余儀なくされていた(他と同様で耽溺するゲーム)ものが、会場を後にしていくダンサーによってゲームは終わる。
 小さなモニターの中で控室にいて雑談し、「こちら側にの存在に回帰したダンサー」にプレイヤーは自己投影することになる。

 その瞬間に、25年ぶりに『スタジウム』によってメタ的な意味を超えて、我々は虚構から現実へ解放されたのかもしれない。
 飯田氏はパフォーマンス翌日(24日)のツイキャスで、「会場を子宮とする安易な解釈も可能である」、「洗礼としての水」と神話性の意見を述べているが、ここには間違いはないであろう。
 まさに「誕生」の瞬間だったのである。
 『アクアノート〜』のディスクやパッケージ、それを映し出すテレビ・モニター、コントローラーを持つ自我から、いよいよい我々は解放されたのだ。

 ただ、この作品が「ゲームであるか?」という問いに、筆者は素直には頷けない。
 一種のこのアマチュアリズムな作りは意図的なのか?
 飯田のカメラのアングル、朗読の声・言葉の意味、ダンサーの動き……といったウェルメイドさ、あるいはレヴィ=ストロース的に言えばブリコラージュは、賛否が分かれるところではないのであろうか。

 ジョナス・メカスの詩とともに綴られる日記映画、あるいはテオ・アンゲロプロスやタル・ベーラのロングカットの完璧なコントロールと構築に比べると、超即興的であるために、飯田には緻密性はなく、映像の精度としては低い、と筆者は言わざるを得ない。

 ある種の全盛期ヴィデオ・アートの持っていたような、飯田の作家性であるパフォーマティヴ性が過激に先行している、とも言えるかもしれない。
 インターフェイスがツイキャスのコメントしか存在しないのであれば、「ゲームとしての」プレイヤーは、この暴走には耐えられない。
 同時に致命的なのは、ゲームに不可欠な「再プレイの不可能性」だ。

 その上で、ツイキャスの主観性を考えると「カメラで切り取る行為」から、寺山修司、赤テント的なものを「隠し取り的」に写しているキャス(氾濫するYouTubeやTikTok映像……)、というふうに鑑賞者は誤認しないか、批判的にならないか、という危惧は正直、筆者にはある。

 しかしながら、この多重の意味のコンテクストに配置された既存のゲームでもない、だからといって映像作品・パフォーマンス・インスタレーションといった安易さに還元できない「未来のゲーム」は、飯田の新しい扉を開いた傑作であることには間違いない。

 これから飯田和敏はどこへ向かうのか。
 彼は言う。

「ゲームはルールメイキングの芸術である」

 筆者はこの作品を通して飯田が、これからの未来、よりそのテーゼに接近して、我々にまだ見ぬ世界を見せていくのだと信じている。

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