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【就活体験記】毒親育ちの早大生が、就活で100社以上落ちた、という話。(1)

「就職活動」という単語は、私にとって挫折と絶望の象徴といっても過言ではない。
遡ること18年前。「氷河期は終わった」とされた2006年度の新卒就活において連戦連敗、合計100社以上にお祈りされた、あの血反吐を吐くような日々。連敗記録が80社を越え、雨に濡れた線路に吸い込まれそうになったあの日、「そういえば缶のコーンポタージュ飲みたい」と思いついていなければ、私は線路の露と消え、西武新宿線の運行ダイヤを軽く1時間半は止め、実家の親は莫大な損害賠償に追われることとなっただろう。
たまたま近くにあった自販機のお陰で命を繋いだ私は、「線路が綺麗に見えすぎて頬ずりしたいと思ったらコンポタを飲む」とルールを定めて就活戦線の残りを生き抜き、最終的に何とかかんとか、システムエンジニアの職にありついた。今考えても危なかった。美味いよねコンポタ。

当時の私は頑張っていた。これ以上出来ないというほど真面目に、ひたすらに、がむしゃらに頑張っていた。今アラフォーの私だが、これまでの人生で、あれほど孤独に頑張り続けた時期はない。毎日毎日文字通り死ぬ気で、全身全霊をかけて頑張っていた。
だが、あの悲惨な日々の頑張りは、今にして思えば、最初のスタート地点から完全に間違っていた。拍手を送りたくなるほど見事な、努力の方向音痴だった。今なら分かる、あの100通以上のお祈りメールは、来るべくして私のもとに届いていたのだ。

恐ろしいほど無知で、世間知らずだったこと。そして何より、自分が知らないという事を知らず、「誰かに相談する」という選択肢を思いつきもしなかったこと。それが私の盛大な過ちの原因だ。

そもそも学生時代の私には、大学でこれを学びたい、将来こんな仕事につきたい、という未来に対する考えが、丸ごとすっぽり欠けていた。
私は早稲田大学の第一文学部(当時は第一と第二があった)に在籍していたが、大学を受験した動機はと言えば「東京で一人暮らししてバンドやりたい」しかなく、しかし母の「偏差値の低い大学なら一人暮らしは許さない、地元に残れ」という掟があったため、「じゃあこの大学なら文句ないだろ」という意地と幸運で、合格をもぎ取っただけだった。
大学に入学した時点で目的を達成していた私は、思う存分バンドサークルの活動と、後は恋愛とゲームとバイトに時間とエネルギーの全てを注ぎ、それだけではマズいなどとは考えもしなかった。「その先」についてなど、全然全く1ミリも、ロクに想像すらしていなかったのである。

そして悪かったことに、私はいわゆる「ゼミ」に所属していなかった。私の専攻は文芸で(今は存在しないらしい)、要するに作家志望の学生のための専攻だったわけだが、授業などあってもなくても大差ないようなものしかなく、卒業論文も「自作の小説を提出する」という、とにかく何か書いて製本して出せば卒業できる、めちゃくちゃ緩いコースだった。当時の私は「楽勝じゃんww」と舐め腐っていたが、この「教授や先輩はおろか、同期とも全く交流しなくても大学生活を過ごせてしまう」環境で、ぼっち適性の高い人間が4年間過ごすとどうなるか。
サークルのメンバー以外の知り合いが一人もいず、同学部の同期の誰とも交流のない、つまり「就職活動の情報源が、一学年年下の彼氏と、リクナビしかない」という恐怖の就活生が爆誕してしまったのである。

悲劇の材料はまだある。毒母の存在だ。
当時の私が絶大な信頼を寄せていた母は、幼少期からことあるごとに「大きい企業のサラリーマンが一番安心」「良い大学に入れば将来は安泰」という価値観を私に刷り込み続けていた。それを鵜呑みにして育ってしまった私は、母の価値観が旧時代の遺物になっている可能性を、微塵も考えたことがなかった。
つまり早稲田に入れた以上、例えば倍率が極端に高い大手マスコミなどを除けば、どんな企業でもより取り見取りなはずだと、そして大きな企業に入ることが唯一幸せをもたらすと、そう信じて疑っていなかった。

更に言えば、当時の私は社会の構造もよく分かっていなかった。日本に存在する企業の内、中小企業が企業数の99%以上、従業員数の70%近くを占めるなどということは全く知らず、「ちゃんとした」企業=自分が知っている企業だとぼんやりイメージしていた。
世間知らずの大学生が何の勉強もせずに「知っている企業」など、その時点で大企業中の大企業、各業界の金メダリストに相当する企業だ。そんな企業が、何の取柄もなく学生生活を遊び倒した文学部生を、学校名だけで拾ってくれるわけがない――のだが、そんな今考えれば当然のことを、当時の私は全く、さっぱり、猫の毛一本ほども、分かっていなかったのである。

かくして、悲劇の幕は上がった。

大学3年の秋になってから、当時の彼氏(一学年年下)のK君に言われて、そういえば就職活動をしなくてはいけない、と気付いた私は、いくつかの出版社にエントリーシートを提出した。
会社説明会も行ったことがなく、何の勉強もしていない、完全なぶっつけ本番だったが、熱意と自信だけはあった。

箸にも棒にもかからなかった。

不貞腐れた私に、母は地元の私大の大学院へ進学するのはどうか、と提案してきた。他の企業もポツポツと受けたが全て落ちており、モラトリアムが伸びるならそれも良いか、と思った私は、言われるままに受験した。
大学院は受かったが、私は何だかモヤモヤしていた。したい仕事があるわけでもないが、大学院で勉強したいことがあるわけでもない。ただ、自分一人では生きていけない――経済的に自立した生活をすることが出来ない、という状況が、どうにも納得がいかなかった。

働かせてくれる企業がない、わけがない。
あるはずだ。どこかは分からないけど、どこかに。

私は大学院への進学を見送り、もう一度就職活動に戻ろうと決意した。
丁度その頃――大学4年の、確か9月ごろ。
常に1限か2限だった必修の語学の授業を、1年生の頃からサボり倒したツケが回り、留年が確定した。

図らずも就職活動のやり直しが出来るようになったわけだが、学費と仕送りの継続を求めると母は怒った。少なくともこの件については、母の反応はもっともである。
学費は何とかするが、仕送りを減額すると通達された。実家の経済状況を考えれば、妥当な所だった。

減った仕送りの分だけアルバイトをする必要が出来た私は、学内の募集掲示板から、小さな編集プロダクションへと応募した。
出版関係への就職を目指す身としては、情報収集や、何らかの足掛かりにしようという下心が勿論あった。アルバイトとして重用してもらえるようなら、拝み倒してそのままフリーターや社員として働かせてもらえるかもしれない、とも思っていた。
アルバイトは問題なく採用してもらえて、私は働き始めたが、そういった就職活動の相談や、自分自身の将来の話を、私はバイト先の社員さんたちに全く言い出せなかった。
社員さんたちが聞いてくれなさそうだったという訳ではない。彼らは優しく、かといって私のプライベートを根掘り葉掘り聞いたりもせず、大人として、きちんと私を尊重してくれていた。では、何故か。

当時の私の目標が、本当は「作家になる」だったからだ。

私は就職して社会人になりたいと、できれば出版関連に就職したいと思って行動していたが、どんな企業に入るとしても「作家になるための踏み台」のつもりだった。そして、編集者という職業が何をするかもよく知らないまま、「作家になりたい人には、編集者をやってから、というルートがあるらしい」と、その程度の知識で出版関係を希望していたのである。
とはいえ、夜な夜な詩や散文を書き散らすばかりで、ただの一度も長編小説を書き上げたこともなく、どこかの賞に応募したこともなく、卒業論文以外では教授にさえ、自分の書いたものを読ませたこともなかった。そんな状況を省みると、真面目に働くプロのライターさんたちを相手に「作家になりたいので、そのためにライターとか編集者を経験したいんです!」とは流石に彼らの仕事に対して失礼すぎる気がして、言えなかったのだ。

そこまで若くてアホならいっそ、言ってしまえば良かったものを。
アラフォーになった今ならそう思う。バイト先にしろ就職活動先にしろ、そこまで腹を割って話せば、そんな夢物語を語る私を面白いと思ってくれる誰かがいたかもしれないし、優しかったバイト先のライターさん達なら、真面目に現実を教えてくれたかもしれない。
だが、傲岸不遜な癖に中途半端に身を弁えていた私は、誰にも何も言わなかった。

そんなこんなで第二幕、就職活動2年目である。流石に少しは学習した私は、バイトの仕事を覚えながら、真っ当な時期に就職活動を開始した。
座右の銘は「数うちゃ当たる」。つまり目についた企業――「知っている」あるいは「聞けば何となくわかる」大企業を、業界の区別なく片っ端から総当たりすることにしたのだ。とにかく大量の説明会に参加し、大量のエントリーシートを書いて、書類選考に通れば大嫌いな化粧とパンプスを装備し、精一杯取り繕って面接に行った。

同時に就職活動をすることになった彼氏のK君と一緒に会社説明会に出たりもしたが、ほどなくK君とは行動を別にすることにした。同じ文学部ではあったが、心理学専攻で優等生だったK君には、軽いマウント癖があった。当時の私があまりに準備不足で見ていられなかったのかもしれないが、ただでさえストレスのたまる時期に、それでなくてもコンプレックスを刺激される相手に、「エントリーシートを見てやる」と言われ、見せたらボコボコにダメ出しを受け、弱音を吐いたら「他人に評価をねだるな」とまで言われて、耐えられるほどのメンタルは私にはなかった。
忙しさを理由に距離を取ってから間もなく、K君はあっさり就職人気ランキング最上位クラスの企業の内定を勝ち取り、私は乾いた笑いと共に「おめでとう」の台詞を絞り出し、エントリーシートとの格闘に戻った。
既に何十社ものお祈りメールが届いていて、私の「知っている」「分かりそうな」企業は、業界問わず、もう残っていなかった。

じゃあ、次はどこを受ければ良いのか。

K君に頼る選択肢はない。だが自分一人の頭では限界だ、とようやく気付いた私は、大学のキャリアセンターというものの存在を思い出し、そちらを頼ることに決めた。

<(2)へつづく>


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