【毒親】「母の葬儀」のイメトレは昔から完璧に出来ている、という話。【#家族について語ろう】
私の頭の中で、母は何百回も殺されている。
と書くと非常に物騒なのだが、別にストレス発散のために頭の中で母をめった刺しにしていたとかいう話ではない。子供の頃に、母自身によって『ママが死んだら』というイメトレを延々させられていた、という話だ。
それが始まったのは、確か小学校1年生の頃だったと思う。何がきっかけだったかは覚えていないが、母はいつもの数時間にわたる「お話」の中で、ある日「例えばワタリが学校から帰ってきて、ママがここに倒れて死んじゃってたとしたら……」と言い出した。
その時の私は、泣いた。
多少の知恵があったとはいえ、死の概念が出来たか出来ないか、そのぐらいの年齢である。母がいなくなるかもしれない、というだけで怖いのに、母が死ぬなんて想像だけで悲しすぎるのに、「学校から帰ってきたら母の死体を発見する」というシチュエーションから始まるイメトレは、当時の私にはあまりに過酷だった。
母の話を遮ることは重罪だったが、「ママが死んだら嫌だ」とごく当然の主張と共に泣く私を、母は珍しく叱らなかった。いつになく優しい口調で私を宥めながら、しかしその詳細で具体的なシミュレーションを中断してくれることもなかった。
呼吸と心拍の確認を行い、死亡後短時間と思われる場合は救急車を呼び、病院に同行すること。死体が冷たく、死後硬直が始まっているようなら、警察を呼んで指示に従うこと。父の職場と、母の姉である伯母に電話をすること。死亡診断書を受け取り、葬儀に備えること。葬儀の手配は大人に任せること。その他の連絡先の書いてある電話帳はここで、この人とこの人にも電話をすること。貴重品の確保を行い、母名義の預金口座から引き出しができなくなる前に、貯金を下ろして葬儀費用を現金で持っておくこと。
それらの話を聞きながらベソベソ泣き続ける私に、普段よりずっと優しく上機嫌な母は、火葬後の納骨までの流れを一通り私に説明しきって、その日の「お話」を終えた。
「悲しいから、考えたくないからと言って、考えなくていいことなんてない。親が死んだらどうするかは、子供は必ず考えておく必要があるんだから、泣いてないで、きちんと考えられるようになりなさい」と締めくくって。
おいおいおいおいおい、である。
いくら一人っ子だからといって、小学校一年生の娘に「母親が死んだらどうするか」を具体的にイメトレさせる必要がどこにあるのか。父もいるのに。
もしこれが今小4の私の息子なら、開始数秒の「ママが倒れて死んじゃってたら」の部分だけで「いやだーーーーー!!」と涙目で絶叫しながら走り去ってしまう案件である。というか、今アラフィフの夫がここ数年でようやく、「夫の母(元気で一人暮らし中)に何かあったら」の話が出来るようになったばかりだ。「親が死んだら」という想像は本来、相当の人生経験と耐久性を得た大人が、自分自身で必要性を納得した上でようやく出来るようになる、という種類のもののはずである。
だが、当時の私は母の言葉を丸ごと鵜呑みにした。
母にそう言われた以上は、「ママが死んだら」を、泣いていないで、きちんと考えられるようにならなければいけない、と信じた。
それまで一度もしたことがなかった「ママが死んだら」という想像そのもののショックが大きかったこともあり、私はその後数日間、家でも学校でも、暇さえあれば「ママが死んだら」について考え、涙ぐむことを繰り返した。
何度も反復する内に、私は徐々に泣かずに「ママが死んだら」を最後まで想像しきることが出来るようになった。
そしてその数日後に、母は再び微妙に違う「ママが死んだら」の話を始めた。
私はやっぱり泣いた。自主的なイメトレ上では「学校から帰ってきたら死体を発見」パターンを乗り越えられるようになっていたが、母と話しているとやはり涙が出てきたし、「学校にいる間に先生から、母が交通事故に遭ったと聞かされる」という今度のシチュエーション設定はまた違うダメージがあったのである。
前回ほどの号泣ではなかったが、ボロボロ涙を流しながら話を聞いている私に、母は優しかった。警察で検死に回された死体の本人確認を行う、などのステップが加わる以外は、交通事故死の場合でも葬儀は大きく変わらない、と私は教えられ、その日の「お話」は終わった。
今にして思えば「ママが死んだら」という話をして私を泣かせることは、自己陶酔とか、ミュンヒハウゼン症候群的な何かとか、その手の何らかの快感を母にもたらしていたのだろう。それ以降「ママが死んだら」の話は母のお気に入りとなった。
数日おきから隔週ぐらいの高頻度でイメトレは繰り返され、母は何度も何度も色んな場所、色んな方法で死んだ。そして私は、葬儀の前段階から年忌法要まで、母の知る冠婚葬祭の「葬」に関する知識を、片っ端から叩き込まれた。
母は、母自身の母――つまり私の祖母が早く亡くなったことから、自分も早く死ぬかもしれないと考えており、この話は私に必要だと述べていた。しかしそれを考慮しても、祖母の享年は52歳、母が24歳の時である。
特に持病もないアラサーだった母が、小1の私にイメトレさせる合理的な理由はないはずだったが、母はそれに気付かなかった。あるいは自分の「話したい」欲求のために意図的に無視していたのかもしれない。
多種多様な「ママが死んだら」を繰り返し聞かされ、自分でも一人で考え続けるうちに、私はイメトレで全く泣かなくなった。小3になる頃には、私は平常心のまま、他の話と全く同じように「ママが死んだら」の話にも相槌が打てるようになっていた。
小4の頃に父方の祖父が亡くなり、葬儀の流れを実際に見て概ね理解してからは、ある種の自信すらついていた。
祖父の葬儀を下敷きにした質疑応答がひと段落したあたりで、母による「ママが死んだら」の講義は自然と終わり、以後その話はごくたまにしか出なくなった。父が家にいるようになり、そういった話をする時間自体がなくなったこともあるだろうし、母の知っていることは語り尽くしたこともあるだろう。だが、私が全く動揺しなくなったので、つまらなくなっただけではないか――と今の私としては思う。
それから30年が経ち、還暦を大分過ぎた母は「私が死んだら」の話が今も好きだ。5年前に乳がんの切除手術を行ったり、現在子宮がんの疑いで検査を受けていたりもするので、そっち方向に思考が傾いてもいるのだろう。
とはいえ「母が死んだら」のイメトレにかけてその道30年以上のベテランである私が、その話で今更動じることはない。フーンと心の底から適当に聞き流すことが出来るし、恐らく本当に母が死んだとしても、私は眉一つ動かさず葬儀を終えることが出来ると思う。
死ぬかも死ぬかもって、何十年も言い続けてるけどまだ生きてんじゃんか。何なら今すぐ死んでくれても何の不都合もありませんけど?
と、そんな感想しか持てない娘は、親不孝なのかもしれないが。
少なくともこの「母が死んだら」という想像で悲しめなくなったのは間違いなく全面的に母の責任なので、自業自得としか言いようがない。実際母が死んだ後に私に泣いてもらえなくても、小3までの私に散々泣いてもらえたのだから、もう十分すぎるぐらいだろう。
あれが心理的虐待に入るのかどうか、私にはよく分からない。
だが、私の感情の一部――「悲しい、嫌だ、という気持ち」は、あの「ママが死んだら」の繰り返しで、きっと殺されてしまったのだと思う。
それ以降、私は親密になった人を最低一度は脳内で殺す習慣が出来てしまった。恋人であれ、夫であれ、息子であれ、失いたくない人であればあるほど、それを失うイメトレを繰り返し、いつ来てもおかしくない「その時」に耐える訓練をしているのだ、と思っていたが、精神的な自傷行為なだけだったり、それ以上親密になるのを避けようとしているのかもしれない、と今書いていて気が付いた。
最近は誰かを殺す想像をすることもなくなってきたように思うが、「自分にとって一番堪えがたい事柄をわざと想像する」癖は健在だ。だがあまり精神衛生上良くないような気もするので、止めるように心がけた方が良いかもしれない。止めようと思って止められるものなのかどうかも分からないけれど。
私は、「ママが死んだら」を息子に話すつもりはない。やがて息子が成人して、具体的に私の死後を考える必要が出来るまでは。
たとえ私が明日死ぬとしても、そんなシーンでうまく立ち回れる気丈な小学生など、わざわざ「作る」必要はないのだ。不測の事態で親を亡くした場合、その子供がひたすら泣くだけだとして、一体何が悪いのか。子供のダメージが心配なら、周囲の大人にフォローを頼んだり、その後の生活環境確保のための根回しをするなど、建設的な準備をしておくべきだし、葬式の段取りが心配なら、配偶者に話しておくか、メモでも残せばいいだけである。
たとえ大人にとっては害悪でない知識でも、子供に無神経に与えれば、場合によっては毒となる。特に人の死のような概念は。
「死」の話を子供にする時は、用法容量を守って、くれぐれも慎重かつ適切にご使用ください。と、ひとまずはそんな結論にしよう。
――ママ、いやだよ。死なないで。
そう純粋に泣いていたあの日の私に伝えたい。
大丈夫、君のママは還暦すぎても元気だし、その頃アラフォーになった君は、ママが生きようが死のうが何の問題もなく生きていけるようになっているから、と。