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問いについて考えた
名著すぎんか?
— わたなべ#10 (@watakenken) January 8, 2024
という一冊。昨年の実践論文にて痛感した【問いの立て方の下手くそさ】に対して右ストレートでぶん殴ってくる明瞭さ。鈍器本じゃん。
帯の読者猿さんの【知はすべて「あなたの感想」から始まる】も、パンチライン。
去年読んでおきたかった…。 pic.twitter.com/tVFtPch4jR
問いって必要なのか?
最近、巷で【学習者主体の学習のデザイン設計を】とか、【探究型の学習が来る】とか言われるようになった。
そのためには問いが必要だという主張が聞かれるようになった。(自分の周りだけかもし!ない)
そして、いかに学習者に問いを持たせるかという方法論が見られるようになってきた。ただ、個人的にはこの問いを持たせる方法論が【指導者が無理矢理問いを抱かせようとする時点で、学習者主体じゃないんじゃない?】と感じるようになった。
なんか、無理矢理食わせてる感じがする。
オーバーロードカリキュラムが指摘されてる教育界なんか、正直お腹いっぱいですぐらいに感じていた。(個人の感想)
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めちゃくちゃ美味しかった。
問いは必要ではないが、問いがない世界は味気ない
では、問いが必要でないのかというと一概にもそういうわけにはいかない。
誰しもが何かの趣味やら嗜好する物、ついやってしまうことを持っていると思う。
それに対して、なぜやっているのかと(これも問い)言語化してると
問いが生まれてくると思う。
野球が好き→野球をプレーすることが好き→どうしたら上手くなるのだろう?
野球が好き→野球を観戦するのが好き→どうしたら推しのチームが強くなるのだろう?
みたいな。
結局、意識、無意識とは別に人間は根源的に問いを持って生きているのだと思う。
それを無理矢理作らせようというのは不自然だが、自然な営みな気がする。
自分の感想→問い→そして探究へ…
結局、誰もが何かしらの問いを持って生きているのだと思う。
それを無理矢理作らせることなく、自然に興味を持たせるようにするのがこれからの
指導する側の役割だと思う。
なんかこう興味あることが色々あったでしょうよ。
それをとことん追究していくことが探究への道となる。
しして、それを突き詰めた結果が専門性という道へ繋がると個人的に考えた。