自己嫌悪と自己疎外
時間は限られているのに、気づいたらSNSやYoutubeを開いてしまう自分。
気になることや話したいことがあるなら言えばいいのに、結局飲み込んでしまう自分。
他にやらなければいけないことは沢山あるのに、どうしようもないことで悩んで勉強時間や睡眠時間をだらだらと削る自分。
改善したい自己は山積みである。
それを変えようとしても変えられない結果、しばしば自己嫌悪に陥る。
こういう場面でどうしたらいいのかについて、自分への言い聞かせの念も込めて書こうと思う。
ここでゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)というドイツの哲学者の考えを紹介しよう。
彼は「弁証法」を提唱した人物として有名であるが、彼の思想には、他にも興味深いものがいくつかある。
その内の一つとして「自己疎外」という概念がある。
「自己疎外」とは、人間が自分の中にある本質的なものを外にとりだして、それを客体的なものにする、ということである。
人間が自分の意識を認識するためには、その意識を外化し、対象化し、客観化しなければならない。
そのような意識の作業を、ヘーゲルは「自己疎外」と呼んだ。
今、何かに対して自己嫌悪の状態にいる人間を想定してみよう。
人が自己嫌悪の状態に陥った場合、その人の中には、「嫌悪する主体としての自分」と、「嫌悪される客体としての自分」の2種類がいると考えられる。
この例に表れているような、自分が自分に対立している状態は、ヘーゲル的に言うと「対自(フユールジヒ)」に該当する。
ただ、この「対自」を認識するためには「自己疎外」を行う必要がある。
それは例えば、この記事の冒頭でしたような、誰に宛てるでもない書きなぐりであったり、あるいは落書きであったり、そうした自分の内部にある意志を示せる行為である。
では自己嫌悪している自分を疎外して客観視できたところで、その後どうすればよいのか。
ヘーゲルの弁証法を参照すれば、
人間は、まず何よりも自然そのままの自分自身であり(即自)、次に自分を外化して認識し(対自)、そして最後にはその対立するものをふたたび自分のなかにとりもどして(即かつ対自)、自分を完成させる。
という過程を辿る。
つまり、自分にとって必要なのは、その自分をもういちど自分のなかに取り戻すこと、止揚することなのである。
具体的な文脈に照らして言えば、自己嫌悪をすること自体は受け入れて、その自己嫌悪そのものやその影響をどれぐらい小さくできるか、とか、自己嫌悪を「自分を反省するいいチャンス」だとして積極的にリフレーミングしていく等の実践が考えられる。
これが止揚の実践として正しいのかは分からない。
ただ大事なことは、自己嫌悪を良くないものとして捉えるのではなく、むしろ自分がより高い精神レベルに到達するためのいい機会として捉えることだと思う。そのために必要なのが、「自己疎外」である。
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昨日見たムンク展で、
「私の芸術は自己告白である」
というフレーズがとても印象的だった。
彼は芸術において誰よりもこの「自己疎外」を体現していただろう。