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「田中一村展」その2:「青い空」と「白い雲」、そして奄美の空と雲を描き切って逝った

さ この記事は、前回の記事「田中一村展」その1の続きです。
(長文になります)


プロローグ

 突然ですが、本展覧会のチラシの田中一村代表作である下記の絵を見て何を感じられるでしょうか?

図17《アダンの海辺》 1969
出典:展覧会チラシより引用

 私は、これまで田中一村奄美時代代表作を見るたびに、その密集した南国の植物と花、そして珍しい鳥や蝶の造形と色彩に魅了されてきました。おそらく大半の人々も同じではないでしょうか。実際、一般の人々の感想記事や専門家の解説も同じように密林描写南国動植物に焦点が当てられています。

 しかしこの「アダンの海辺」ですが、他の奄美時代の絵とは一つだけ大きな違いがあります。
 確かに手前左に南国の植物「アダン」とその印象的な形状の実が描かれていますが、それは一本だけで密林ではありません。背後には小石の浜が遥か水平線まで描かれ、その上には三分の二を占めています。

 今回私は日本画墨彩画にもかかわらず、田中一村千葉時代に「青い空」と「」をこだわって描いたことを気が付き、前回予告したように、それについて記事を書こうとしています。
 ところが恥ずかしいことに、記事を書き出す直前まで、この《アダンの海辺》の海上から上部まで立ち上がる黒々とした入道雲とその背後に漏れてくる淡い陽光、そして水蒸気をたっぷり含んだ薄雲空一面に描かれていることにまったく気が付きませんでした

 それほど奄美時代の代表作の密集した南国の植物印象が強く私の頭に刷り込まれていたのです。
 はたしてこの絵は本当に日本画と呼んで良いのでしょうか?

「線スケッチ」教室での「空」の描写の経験から

 話が変わりますが、一般的に人は絵を描く時あるいは絵を鑑賞する時に、日中の空の描写にあまり注意を向けていないようです。
 もし向けるとすれば、夕焼け朝焼けなど、情緒を感じさせる場合だけだと思います(事実、歌川広重はその光景を数多く描いています)。

 実際私の教室の生徒さんが描く風景画では、地上の事物遠近法を使い、丁寧に描いているのに、なぜか広大な空標準的な風景画では少なくとも紙面の三分の一を占める)の描写がおざなりになりがちなのです。
 あくまで推測ですが、地上の事物、例えば建物、樹木、人物、森などはあきらかに実体(立体物)として目に見えるのに、空(空気)透明実体(立体物)が見えないので、どう描いたらよいか分からないからだと思います。

 そこで私は次のアドようにバイスしています。

風景画では空は必然的に紙面内で大きな面積を占める。地上物と同じように実体として描かなければならない。東洋(日本)画では余白にしたりで隠せば済むが、「線スケッチ」西洋の描写法を使うのでもそれに従って描写する必要がある。
、即ち空気は手前から地(水)平線まで、奥行きを持つ実体(立体物)である。立体(奥行き、遠近)を示すには、空に浮かぶものを利用すればよい。雲、鳥などである。
印象派の画家達たとえばモネピサロ風景画(油彩)を参考にするとよい。地(水)平線を紙面の上部から下部に設定した構図の数々、青空に浮かぶ様々なと配置が、写実的にしかも遠近法に従い描かれている。輪郭線を使う「線描」の観点では明治以降の「新版画」の「青空」と「」の描写も参考になる。

 南画からスタートし、日本画革新を目指した田中一村は、当然ながら中国、日本絵画の伝統だけでなく西洋絵画の大きな流れを知っていたはずです。

 ここでは、田中一村の作品をこの観点で見てみましょう。

14年前のblog記事を読み返してみた!

 前記事で、すでに私は14年前、2010年千葉市美術館で開催された「田中一村 新たなる全貌」展を訪問したことを書きました。実は、その当時5回にわたってブログ記事を書いていたことをすっかり忘れていました。

 本来ならば、記事(その1)を書く前に読むべきでしたが、今読み返してみると、自分で言うのもおかしいのですが、今回のnote記事で書きたい内容を当時すでにコメントしていたのには驚きました。
 以下に、その時の感想のポイントをまとめてみます。

まず、千葉市美術館田中一村展を訪問するにあたっての問題意識ですが、

1)なぜこれほど画風を変えていったのか
2)なぜ中央画壇に受け入れられなかったのか。

Fc2blog、千葉市美術館 「田中一村 新たなる全貌」展(1)

 上記問題意識で見た結果、次のような感想(要約)をブログに綴りました。

(1)魚眼の眼日本画転向後の構図は、魚眼の眼でデフォルメされている。(奄美時代構図突然出てきたのではなく千葉時代から一貫している) 
(2)写実の雲:これは、日本画を描いている人に聞きたい。日本画でここまで雲を写実的に描くことはあるのか。(私は特異だと思うが・・)
 この雲へのこだわりは、新版画川瀬巴水が描くのようだ。その色彩と相まって、遠目には新版画印象
(3)若冲ばりの極彩色南画の時代、構図奄美時代につながるものが感じられるが、色彩は赤、緑、青が中心で、一部を除いて、後年の作品の多彩な色彩配色の気配は感じられない。今回、日本画とは別に、ふすま絵や天井画などが展示。作品は素晴らしく、ひまわりの顔料の塗り方など見事。
(4)もりあがり、垂れ下がる顔料:絵を間近に見て、その顔料の塗り方に特徴を感じた。きりっとした色彩の源は顔料の厚塗りにあった。顔料のしずくが垂れているほど。習作時代には、油絵と見まごうほどの、筆のタッチがわかる作品がある。日本画としてやり過ぎではないかと思う。
(5)スケッチ、下絵、写真による作画方法植物と鳥を対象とする鉛筆デッサンが中心。特に鳥の様々な姿、しぐさを繰り返しスケッチしている。本画と見比べると、本画では周到に計算し配置されているかがわかる。

千葉市美術館「田中一村 新たなる全貌」展のブログ記事・感想の要約

 奄美時代の構図が、南画の時代千葉時代の日本画時代から一貫して続いているという指摘は、すでにこの時に書いていることに驚きました。 
 当時は、南画に関心が無かったので詳述しませんでした。南画を中心に書いた前回の記事(その1)は、結局当時のブログの指摘を補完するものになりました。

 次にもう一つの指摘、日本画における「写実の雲」についても、私は今年になって、京セラ美術館「村上隆 もののけ京都」展を訪問した記事、「村上隆 もののけ京都展」(2)で、はじめて指摘したと思い込んでいました。

 ですから当時直感とはいえ、自分自身が指摘していたことに改めて驚いたのです。なお、偶然にも、私は村上隆展の記事の中で田中一村青空白い雲を描いた「ずしの花」(後述)を一例としてあげ、好きな絵の一つだと書いたのは千葉市美術館田中一村展での印象が残っていたのでしょうか。

今回の展覧会本来の目的:千葉時代と九州・四国の風景画

 前回の記事その1の冒頭で、今回の田中一村展訪問の目的は、「江戸絵画を見る」という延長線上で田中一村南画作品を見ることと書きました。

 しかし「線スケッチ作品を描く」という観点では、実は千葉時代の風景画、奄美大島に移住する前に長期間写生旅行をした、九州、四国各地で描いた風景画の作品群を見ることを楽しみにしていたのです。
 なぜなら、千葉市美術館田中一村展で、一番印象に残ったのは、奄美大島で描いた代表的な作品群ではなく、千葉市千葉寺時代風景画であり、九州、四国各地風景画だったからです。

 これらの風景画は、日本画墨彩画でありながら明るく、空には雲がたなびき青空まで描いているので、あたかも西洋の油彩水彩画を思わせ、私が通常描く都市やその中の人物を入れた風景とは違うものの、どの絵も構図の取り方や視点が独特で、線スケッチの風景を描く上でとても参考になると思ったからです。

 ですから、本来今回のnote記事も、これらの風景画の鑑賞をメインに書くべきですが、前回の記事で予告したように、田中一村の絵のもう一つの特徴「青い空」「白い雲」の描写に焦点をあてることにしました。

 それではまず、今回展示された作品を中心に、年代順に「」を描いた作品を以下に示すことにします。

田中一村(米邨)の雲を描いた作品の変遷と作品事例

1931(昭和6年)~:信州滞在時代

図18 左:《富貴楼にて(アルプス連峰の雲海)》 右:《アルプス連峰》
出典:展覧会図録51頁 筆者撮影

 近年発見された空白時代水墨風景画作品7点のうちの2点。題名にある様に、アルプス連峰にかかる雲海に注目して描かれました。
 伝統的な水墨画と違って昭和初年近代水墨画ならば空一面が描かれることがありえますが、両作品ともに、雲の形状描写が眼でみたまま、極めて写実的に描写しているのはかなり珍しいと思います。

1938(昭和13年)~:千葉(千葉寺)時代

図19 左上《山の田》1946  左下《田植え》1945
右上《千葉寺はさ場》1945 右下《牛車と農民》1945
出典:展覧会図録66頁、67頁 筆者撮影
図20 左《夕日》1941, 1942 右上《千葉寺 春》1945末 右下《千葉寺 杉並木》1945末
出典:展覧会図録70頁、73頁 筆者撮影
図21 上《千葉寺 雪》1945末 下《水辺夕景》1952頃
出典:展覧会図録74頁、75頁 筆者撮影

 上に挙げた絵で注目したいのは、図19《山の田》《田植え》を除いて地平線が全て低く取られていることです。すなわち、一村の眼大きく空に注がれていると判断できます。

 もちろん海上地上事物(漁獲用の施設、樹木、林、枯草)を描くためにそれらに目を向けたでしょう。しかし《夕日》(図19)《水辺夕景》(図20)では、地上の事物はシルエットとして描かれており、むしろ夕日でオレンジに染まる白雲や、その手前に横にたなびく黒雲の描写が主役のように見えます。また描き手(一村)の真上の雲大きく広がり、地平線に行くほど小さく、しかも横雲間隔を狭めて線遠近法による奥行きを描写して、まるで現場の光景そのものです。

 図19《山の田》《田植え》では、と背後の主題なのは間違いありませんが、山の端の上の空も、薄紅に染まった黒雲が覆う光景で一村が空と雲の描写に力を入れていることが分かります。

 さらに特筆したいのが、青空です。

 「村上隆もののけ京都」展(その2)の記事で述べたように、もともと日本絵画江戸期を除き伝統的に青空を描きませんでした。しかし明治以後洋画日本画に分かれ、日本画は、洋画に対する対抗心のためか、戦前までほとんど青空を描かなかったのです(この点については、後ほど章を改めて詳しく述べます)。

 田中一村は、それを知ってか知らずか(いや知っていたと思います)、図19~図21に示すように戦前1941年から終戦年まで千葉の風景青空を描写し続けているのです。

 例えば、図19《千葉寺はさ場》《牛車と農民》では、右上に小さくうっすら青空が見え、《夕陽》(図20)《千葉寺 春》(図21)では、暮れる前の青空をある程度の面積をとって、しかし薄めに描き、そして《千葉寺 杉並木》(図20)《千葉寺 雪》(図21)では、ついに日中の青空堂々と描いています。

 特に《千葉寺 雪》(図21)にいたっては、積雪後雲一つない晴れ渡った青空が主題といってもよいくらいです。

 上に示した一村風景画では、日本画独特の平面的様式化装飾化余白のある構図などの片鱗はまったくなく、写実に徹した西欧絵画だと考えても不思議ではありません。

 14年前に、日本画の素養がまったくなかった私がこれらの写実的な空(雲)を見て、直感で日本画ではないみたいと思ったのは無理からぬことだったと思います。

1947(昭和22年)~:田中一村誕生以後

図22
 《入日の浮島》1946-47
出典:展覧会図録96頁 筆者撮影
図23 《黄昏》1948
出典:展覧会図録103頁 筆者撮影

 田中一村は、戦後本格的に公募展に応募しはじめます。《入日の浮島》(図22)《黄昏》(図23)共に展覧会出品の大きな作品です。共に前節で紹介した写実的な空の絵の延長にある本画です。

 特に《黄昏》は、青龍展で落選した《秋晴》と同じ趣向の作品です。農家とその周囲の樹木シルエット暮れ行く青空黒い雲をまるで油彩画のように描いていますが、はたして審査員に理解されたのでしょうか?

1955(昭和30年)~:石川県やわらぎの郷滞在、九州、四国、紀州への旅

図24 《仁戸名蒼天》1960
出典:展覧会図録150頁 筆者撮影
図25 《筑波山》1955
出典:展覧会図録151頁 筆者撮影
図26 《ずしの花》1955
出典:田中一村展企画展HP:https://isson2024.exhn.jp/exhibition/
図27 《青島の朝》1955
出典:展覧会図録153頁 筆者撮影
図28 左上《山村六月》1955 左下《由布嶽朝霧》1955 中上《雲仙雨霽》1955
中下 《雨霽》1955 右上《僻村暮色》1955 右下《僻村暮色》1955
出典:展覧会図録154頁、157頁、158頁 筆者撮影
図29 左上《足摺狂濤》1955 左下《平潮》1955 
右上《九里峡》1955 右下《鬼ヶ城黎明》1955
出典:展覧会図録160頁、161頁、162頁 筆者撮影

 落選が続いた後、1955年(昭和30年)以降田中一村天井画の制作のための石川県羽咋市長期滞在九州・四国・紀州へので新たな展開を図ります(図26~図29)。

 九州・四国・紀州で描いた風景画は、これまで以上にの描写にこだわっており、千葉時代の絵に比べて明るく感じます。おそらく、一村が慣れ親しんだ関東とは違う南国植物空気を描こうとしたからでしょう。

 特に、すでに千葉時代にも試みがありましたが、植物地面から空に向かって描く構図の《ずしの花》(図26)明るさは圧巻です。鑑賞者が地面に這う昆虫になり、一本の花を見上げると、明るい青い空が上空に広がり、白い雲が眼に飛び込んでくるのです。とても印象的です。

 図24《仁戸名蒼天》は、1958年(昭和33年)奄美大島行きを決意し、与論島沖永良部島など各地を訪れた後、千葉一時帰った時の作品です。1m四方に及ぶ作品で、真っ青な、まさに雲一つない”蒼天”が眼に飛び込んできます。手作りの木の額に入っているためにとても日本画とは思えません。

 最後に奄美時代以降の「青い空」と「白い雲」「奄美の写実的な空と雲」の例を示します。

1958年(昭和33年)~:奄美大島移住以後

図30 左上《宝島》1959頃 左下《麗日》1959頃 右《寶島の奇巖》1959頃
出典:展覧会図録160頁、168頁 筆者撮影

 一村は最初に奄美に来た時に、トカラ列島宝島にも訪れ、上の絵を残しています。九州・四国・紀州のときと同様、大きく空をとり、白い雲を描いていますが、さらに印象が明るくなっています。旅による気持ちの高揚もあるでしょうが、野生馬が草をはむ広い緑の草原もそうさせていると思います。
 なぜなら、今回出品されていませんが、千葉市美術館田中一村展で見た九州阿蘇草千里で描いた《放牧》という作品の青空草千里の緑が強く印象に残っているからです(下記参考図)。

参考図 《放牧》1955
出典:千葉市美術館《田中一村 新たなる全貌》展(2010)図録 152頁 筆者撮影
図31 上《湾とパパイヤ》昭和30年代 下《アダンの浜辺》昭和30年代
出典:展覧会図録 177頁 筆者撮影
図32 《アダンと小舟》1960
出典:展覧会図録 183頁 筆者撮影
図33 《パパイヤとゴムの木》1960
出典:展覧会図録 184頁 筆者撮影

 上記図31~33は、手前南国植物を配し、遠くに奄美の地(海)上地(水)平線まで望む絵です。植物は逆光図32を除く)気味で、共通なのは背後から来る光がぼやけて(ハレーション?)おり、水蒸気を多量に含んだ空気のために光が分散していることを表します。

 なお、縦長の本画《パパイヤとゴムの木》図32)では、画面全体を占めるアダン葉と実の背後の青空に、巨大な白い入道雲が描かれているのにご注意ください。
 あまりにも南国の配役揃い過ぎていて、日本画というよりも南国を描いたイラストか、南国の旅に誘うポスターと見まごうほどです。
 一村は、そう感じたのでしょうか、次に示す、鳥と昆虫小品図34、図35)以外に、以後青空白い雲を描いた大型作品は制作していません。

図34 上《海に磯鵯》昭和30年代 下《アカショウビン》1961年頃
出典:展覧会図録 193頁、202頁 筆者撮影
図35 上《浜木綿と緋桐》1955 下《木登蜥蜴と蝶》
出典:展覧会図録 200頁、201頁 筆者撮影
図36 上段左《孤枩》1965 上段右《花と蝶》1965
下段左《奄美の海》1975 下段右《夕空に浜木綿》1975
出典:展覧会図録 214頁、216頁、217頁 筆者撮影

 上記小品(図36)からも、一村「雲」へのこだわりを知ることが出来ます。
 例えば上段左《孤枩》の海上の入道雲をご覧ください。拡大して観ていただくと分かるのですが、入道雲の輪郭は通常目にする丸みを帯びた形ではなく、手前のシルエットになっている奇岩ごつごつとした輪郭相似形になっています。すなわち、入道雲写実ではなく意図して奇岩と相似させているのです。
 同じ試みは今回出品されていない作品でも見ることが出来ます(下記参考図)。海上の立ち上がる白雲は、岩上に止まっているアカショウビンを含んだ岩の輪郭とほとんど相似形です。

参考図2 右《崖の上のアカショウビン》昭和40年代 左、海上の白い雲を拡大して並置
出典:田中一村作品集[新版](2002第3刷)NHK出版 42頁 筆者撮影

 ですかから、このことからも、一村は、主題の地上の動植物の描写だけでなく、の描写に同じ力割いていることが分かると思います。

奄美の代表作を「空」と「雲」の観点で見直してみる

 田中一村は、奄美大島で亡くなる直前まで、多くの代表作を制作しました。しかし私が知る限り、田中一村「空」「雲」の描写の観点で評している例はないと思います。そこで前章までに述べて来た観点で見直すことにしたいと思います。

 すでに「プロローグ」で奄美の代表作品《アダンの海辺》を示しましたので、それ以外の代表作を下に示します。

図37 奄美の代表作(1)
出典:企画展HPより
図38 奄美の代表作(2)
上段左《奄美の郷に褄紅蝶》1968 上段中《桜躑躅に赤髭》昭和40年代 
上段右《草花に蝶と蛾》1968以降
下段左《大赤啄木鳥と瑠璃懸巣》昭和40年代 下段中《枇榔と浜木綿》昭和40年代
下段右《枇榔樹の森に浅葱斑蝶》昭和40年代後半
出典: 展覧会図録

 プロローグで紹介した《アダンの海辺》を除けば、紙面全体南国の植物動物が描かれ、の部分にはほとんど目が行きません。しかし、意識して見れば、次のように様々なが描かれていることが判別できます。

薄い青空:《榕樹に虎みゝづく》(図37)、《桜躑躅に赤髭》、《草花に蝶と蛾》、《大赤啄木鳥と瑠璃懸巣》、以上(図38)
薄い青空に黒い雲:《不喰芋と蘇鉄》(図38)
曇り空に白(灰)雲:《奄美の郷に褄紅蝶》(図38)、
明るい曇り空に黒い雲と薄茶の雲:《アダンの海辺》(図17)
夕焼け空:《初夏の海に赤翡翠》(図37)
夕焼け空と黒い雲:《枇榔と浜木綿》(図38)
光る空、空間(ハレーション):《枇榔樹の森》(図37)、

 ここで注目したいのは、一つとして千葉九州・四国・紀州、宝島で描いた晴れ渡った青い空白い雲が代表作には無いことです。植物の間を通る光ハレーションを起こし、水蒸気を含んだ空間通過してきたことを示しています。

 すなわち上で判別した代表作の空の描写が示すのは、たっぷりと水蒸気を含む空気のために薄い青となり、ほとんどしろっぽく光る空です。あるいは、今にも雨が降りだしそうな曇り空黒雲です。
 まさにそれは南国植物密林の枝葉から遠方の空(空間)を覗く構図として、田村一村新しい日本画を目指して奄美大島多雨多湿な風土を描くために到達した工夫の一つだったといえないでしょうか。

 私は、これらの代表作を通じて、年間ほとんど雨ばかりといわれる奄美独特の気候・風土を描き切ったと言えると思います。

 それでは日本画における「青い空」と「白い雲」の描写という観点で、田村一村が描いた日本画をどのように位置づけるのかを次に考えてみたいと思います。

日本美術における「青い空」と「白い雲」:なぜ北斎・国芳・広重の革新描写は明治の「日本画」で途絶えたのか? 大正、昭和の流れを概観する。

 

 もともと、田中一村の「青い空」と「白い雲」を思い出したのは、村上隆氏が描く白い入道雲を見たことがきっかけでした(下記記事)。

 その記事の中で、専門家裏付けのない、まったくの推論仮説を述べました。要点を以下に記します。

1)日本絵画の歴史で明確な輪郭を持つ雲を描いたのは北斎が初めてではないか?同時に、青空に雲を描いたのも北斎ではないか、もしそうだとすると、北斎は数千年の東洋絵画の伝統を破ったとんでもない革新者といえないか?
2)北斎《神奈川沖浪裏》の富士の真上に積乱雲白い雲が大きく広がって描かれていることを誰も言及していない
3)北斎に続いて、国芳広重青空と雲を描き出した。

 さらに加えて、次の記事の中で、

 村上隆氏が描く四神の一つ《青龍》に描かれた荒れ狂う波に翻弄される南蛮船と白い入道雲は、北斎の《神奈川沖浪裏》の積乱雲から採用したと断定し、新作《金色の空の夏のお花畑》の中に描かれた入道雲の意義について、日本絵画における雲の描写歴史から論じました。

 私が注目したのは、北斎、国芳、広重によって、長い伝統を打ち破って「青い空」「白い雲」普通に描く時代が来たにも関わらず、どうしたことか明治以降日本画では、きれいさっぱり描かれなくなったことです。

 それに対し、私が「線スケッチ」で大いに参考にしている「新版画」では、むしろ真昼の風景画、すなわち青空白い雲名作が続々と生まれているのに一体これはどうしたのだと根本的疑問が湧いてきたのです。

 一つの理由として、私は明治維新後、絵画としては同じなのに、わが国では「洋画」と「日本画」という二分野に分かれてしまったからではないかという仮説を立てました。

明治以降の青空と雲の描写について:歴史を逆戻りさせた日本画

 その記事を書いた時点で調べた結果
を次のように記しました。

 事実、手持ちの明治初期から戦後の日本画家の画集をざっと見ると、戦前の日本画では青い空は勿論、沸き立つ白い雲もまったく描かれていません(見た画集は横山大観竹内栖鳳速水御舟、菱田春草、田中一村です。また、webでも他の日本画家をざっと調べました)
 精査すれば一つ二つあるかもしれませんが、ほとんど無いと言ってもよいと思います。まさに北斎広重によってようやくたどり着いた青空と雲新たな日本画の表現の歴史を明治維新後の日本画は、100年以上逆戻りさせたと云えましょう。
 ところが、もしかすると唯一田中一村だけは例外かもしれません。昭和18年(1943)に千葉に移り住んでから、戦後の昭和30年前後に離れるまで、青空のみ、あるいは青空と白い雲を浮かべた千葉の風景画多量に描いているのです(残念ながら年代不明が多く、戦前のものか分かりませんが、少なくとも太平洋戦争の前後、遅くても福田平八郎と同時期までと推定)。そして、日本画壇とは隔絶してどうどうと青空と白い雲を亡くなるまで描き続けています。

 以上の2点の推論、仮説①北斎が青空・白い雲を日本絵画として最初に描いた②明治維新後命名された、日本画では青空・白い雲をほとんど描かなくなった)について、私は記事を書いた8月から現在まで継続して調査をしています。

 まず、ですが、実は記事を書いた時点で、おそらく違うだろうなと思っていました。
 結論を言えば、北斎より一世代前、司馬江漢秋田蘭画の画家達、亜欧堂田善北斎よりも先んじて描いていました。ある意味では当然ですが、西洋の絵画に影響された彼らが描くのは(透視図法も併せて)当然です。
 北斎は、彼らの絵を何らかの機会に見たり、研究した可能性は十分あるでしょう。

次に②については、誰か専門家が論文を書いている可能性が十分あると思うのですが、まだ見出していません。

 しかし、何という幸運か、8月の時点で、次に示す松涛美術館の展覧会の予告が眼に入りました。題して「空の発見」

出典:松涛美術館チラシより

 すなわち、絵画の専門家(学芸員)が記述したであろう文章によれば、私の仮説①は、専門家の意見も同じだったので裏付けがとれました(下記のプレスリリースに詳細説明と司馬江漢北斎の事例が載ってます)。

https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2024/03/Press-Release_Discovering-the-Sky.pdf

 ところが、仮説②については、松涛美術館のPDFは何も答えてくれません。なぜならそこでは日本画、洋画、他すべてひっくるめて論じているからです。

 私は、専門家のように網羅的には調査できないので、その後8月に行った手持ちの資料以外に、図書館にあった「アサヒグラフ別冊」の日本画家シリーズを片っ端から眺めた結果、次の傾向を掴みました。詳細は別の機会にして、ポイントだけ示します。

調べた画家にリストは以下の通りです(順不同):堅山南風、小林古径、南嶋薄暮、山口蓬春、東山魁夷、平福百穂、山本春挙、川端龍子、松林桂月、堂本印象、山本丘人、橋本関雪、土田麦僊、横山大観、竹内栖鳳、速水御舟

1)明治40年ごろまでは、青空と雲を描くことはない。
2)大正時代になって、雲を描く画家が出始める。青空も薄い。(例外:速水御舟:群青の空。上部に僅かの面積)
3)昭和3年(1928)、山本丘人のような伝統に縛られない画家が青い空と白い雲を描く
4)戦後(下記東山魁夷で代表させる)

 以上分かることは、戦前青い空と白い雲を描いているのは速水御舟山本丘人のような、伝統を破り新しいことを生み出そうとする画家です。

同期の東山魁夷を代表とし、戦後の日本画の青空と雲の描写の歴史の文脈を探る

 さて、東山魁夷は、田中一村東京美術学校日本画科に入学時、同期ですが、他の同期に比べて、画壇に出るのが遅咲きだったことが知られています。
 そこで東山魁夷を代表させて、彼がその日本画作品においていつどの場所で青空白い雲を描いたかを記述し、戦後の日本画文脈を追ってみたいと思います。

 田中一村が、千葉1941年(昭和16年)から45年(昭和20年)にかけて、大胆にも真っ青な青空を紙一面に描いていた、その2年後、1947年東山魁夷も始めて青空を描きました。それが上に示す有名な絵、《残照》です。東山魁夷はこれによりブレイクしました。
 私は、いつも山並みばかりに目が行って、にあまり印象はありませんでした。今回まじまじと見ると、青空というよりも、薄青の空ですが、画面の三分の一を占めるほどの大面積で、東山魁夷としては相当な覚悟で冒険したのだと思います。結果はめでたしで、その甲斐がありました。
 さらにその3年後(1950年)、有名な《道》を描きます。

 実はこの絵でも私は、しっかりと青空が描かれていることに《残照》と同様気が付きませんでした。
 なぜなら、この青空は地平線の上に紙面の上部八分の1しか描かれておらず気が付きにくいのです。おそらく、東山魁夷は、それ以上目立つのを恐れて、この比率にしたのではないでしょうか。

 さて、以上は日本国内の空ですが、以降国内の青空の絵姿を消します。ところが、1960年代になって、突如青い空白い雲が現れます(下記)。

 それは、訪れた北欧を描いた絵です。上に例を一つ挙げましたが、まるで水を得た魚のように、何枚も何枚も描いているのです。

 これは一体どうしたのでしょうか? 海外の風景画だから気を許したのでしょうか? 一応その説は成り立つかもしれません。しかし、洋画(油彩)新版画では、日本国内だろうと海外だろうと、戦前から青い空白い雲は当たり前のように描いていますから無理があります。。

 私の推測ですが、日本画の中央画壇第一人者となり誰も恐れることの無い東山魁夷でも、この1960年代という現代においてすら、日本画では鮮やかな青空白い雲を描くことがはばかられたのではないかと思うのです。そうと考えなければ説明がつかないと思います。

 制約がない(と思われた)北欧で、自由に青空を描いたという訳です。

 なお、1970年代になっても、《晩鐘》というドイツの街と、そのを描いた絵を制作しています。日本画というよりも、まるで100年遅れて現れた印象派の風景画のようです。

 結局、私が知る限り東山魁夷は、国内では青空と雲を描くことなく、晩年は古来の水墨画回帰していきました。

 以上の現代日本画の流れを見ると、田中一村日本画転向した戦前から青空白い雲を描いたことは、これまでにない日本画を描くことを当時から目指していたからだと言えないでしょうか。

最後に

 南画からスタートし、日本画の革新を目指した田中一村は、私の記憶が正しければ、『《ダナンの海辺》を含む奄美での代表作を「閻魔大王まで持っていく」と言って、最期まで所持していた』との記述をどこかで読んだことがあります。

 もともと、何度も公募展に応募しては落選し、一旦は中央画壇に受け入れられることをあきらめ奄美にやってきました。
 今となっては、田中一村の本当の気持ちを知ることはできませんが、奄美で仕上げた作品は、相当納得が行っていたのではないでしょうか。

 「閻魔大王まで持っていく」という言葉を額面通りに受け取れば、もはや中央画壇に作品の評価を問うつもりはないという宣言とも受け取れます。
 すなわち、いつの日か分かる人には分かってもらえるだけでよいと。

 しかし、南画家として若くして確立した地位を棄てて、これまでにない日本画を作り、中央画壇にその成果を問おうとした一村が、簡単にその気持ちをなくしたとは考えられません。
 他人にはそのように言ったかもしれませんが、どこかにまだ中央画壇に問うてみたいという気持ちが心の隅に残っていたのではと思うのです。 

 そこで私は次のような”たられば”の話で記事を終えたいと思います。

それは「もし田中一村がもっと長く生きて奄美の自信作を公募展応募していたならばどうなっただろうか」という仮定の話です。

 私の予想は、「やはり(ほぼ間違いなく)落選しただろう」です。

 それは彼の作品が良くないというのではありません。いわゆる純粋アート的な観点とは別に、人生における出世とか栄達とかいう世俗的な意味で、田中一村は、いつも「ちょっと」タイミングがずれている気がするのです。

 例えば”南画”というジャンルが世間的に時代遅れというレッテルを張られつつあった時に、その分野で自立した南画家になっていたこと、それが東京美術学校との齟齬を生み自主退学につながったかもしれないこと、川端龍子青龍展《白い花》で初入選を果たしたのに、それとはまったく異なる画風の、自信をもって臨んだ次回作、すなわち夕暮れの青空とを描いた《黄昏》(図23)と同じ作風《秋晴れ》落選したことなどです。

 特に《秋晴れ》落選一村に大いなる怒り落胆をもたらしたようですが、後代からの意見で無責任とは思いますが、それでも《秋晴れ》が《黄昏》と同じ作風の絵であったらしいので、いかに一村が意気込んで新しい日本画に仕上げたとしても、川端龍子が目指す方向とずれていることは当時でも冷静にみれば明らかです。

 私は奄美大作も同じことが起こるのではないかと思うのです。

 なぜなら、一村奄美独自の画風を追及している間に、戦後日本画は、海外流行も取り入れながら急速変化していったからです。

 ですから、もしかすると一村の絵は革新的な日本画とみなされるどころか、逆に日本画としては「陳腐な絵」と画壇から云われてしまうのではないかと思うのです。

 けれども奄美の作品は、その美しさと、エキゾチシズム分かりやすいことは誰がみても明らかで感動します。ですから、仮に落選を続けたとしても、その作品はいずれ大衆に受け入れられ人気の画家ではあるが無冠の帝王として長く生き続けるのではないかと予想するのです。

 それは「アンリルソーの絵」が画壇様式とは関係なく「ルソーの絵」であり、「ピカソの絵」が「ピカソの絵」としか言いようがないように、「田中一村の日本画」は「田中一村の絵」としか言いようがないのです。

(おしまい)

 前回の記事は、下記をご覧ください。


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