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<2024展覧会を振り返る>日本絵画における推論・仮説をまとめてみた:「江戸の遠近法」、「黒ベタ」「夜空」、「青い空」「白い雲」

(長文になります)
 あけましておめでとうございます。本記事は、昨年末に投稿する予定でしたが、歳を越してしまいました。本年もよろしくお願いいたします。


はじめに

 現在私は「「線スケッチ」の立場で美術展を鑑賞してみた」というタイトルで、訪問した美術展の記事を投稿しています。

 かつては、あらゆるジャンルの美術展に出かけましたが、最近は「線スケッチ」作品の制作や、スケッチ教室での指導の中で抱いた問題意識に基づき、焦点を絞ってでかけることにしています。

 例えば、2023年の問題意識は「ベタ黒」「水墨画」(中国と日本の違い)です。
 一方、2024年は正月に長谷川等伯の「松林図屏風」を見て以来、日本絵画における「空間」(奥行き)の描写について関心を寄せることになりました。
 さらには、村上隆、田中一村の展覧会において、日本美術における「空」、特に真昼の「青空と白い雲」の描写について注目することになり、その後年末になってカナレット展の西欧美術の空の描写との対比や、明治以後の「日本画」の空の描写にまで関心を持つことになるとはまったく考えもしませんでした。

 さて、展覧会を見るたびに新しい発見があるために、当然ですが問題意識から生まれる推論、仮説は変化していきます。特に今年注目した「青い空」と「白い雲」については、これまで一般書などでは取り上げられてこなかったテーマなので、毎回新しい発見があり、記述も変化して、現在自分がどこまで分かって何を訴えようとしているのか、自分自身もわからなくなってしまいました。

 そこで、上記問題意識に関連する2024年に訪れた展覧会記事の内容を振り返り、問題意識と自説(推論・仮説)を概観し、本記事で整理したいと思います。
 なお投稿済みの記事の中では、まるで私が初めてその推論、仮説を思いついたかのように書いていますが、実際はすでに専門家がすでに知っていることばかりだと私は考えています。すなわち眼にした一般書には書かれていないだけで、専門書や論文には書かれている可能性が高いと。

 ですから、記事を書いた後も、できるだけ専門家の著書や言葉の確認作業を続けています。確認が取れたものについては、追加情報として今後記述していくことにします。

 なお、本来ならば、最初に記事の振り返りで論点を整理し、その後に推論や仮説のまとめを示すべきですが、振り返り部分は、私にとっては有用でも読者にとっては、読むのが煩雑になるだけですので、本記事では先に整理結果(現時点でのまとめ)を示すことにします。ですから、読者の皆様は第一章だけ読んでくださればよいと考えます

 もし、記事の時系列の流れ、その中での推論、仮説の変化を知りたい方は、次章「各展覧会記事で何を記述したか、時系列でその変化を要約」をお読みください。

各展覧会記事の中の推論、仮説の時系列での変化にもとづく現時点でのまとめ

 以下、末尾に示した今年投稿した展覧会記事の中の推論、仮説をまとめた結果をテーマ別に示します。

1)日本絵画における空間、空(昼と夜)、雲の描写の変遷について

■~17世紀
 基本的に空間は何も描かない(西洋の観点では、何も描かない未完成の領域、東洋的には余白とも云えるが、霧、空気など実体としてみなされる)。
 従って昼も夜も紙の白で表現する。水墨画では月は外隈で表現する。やまと絵では太陽は赤月は銀で彩色(時には金属を貼り付ける場合もある)。雁の群れを描くことで空の空間を示す。ベタに青で塗った空の描写はない。同じく写実的な雲は描かない。もちろん快晴を示す青く彩色した空の例もない。水墨山水では山間にただよう霧、霞の表現のみ。一方、月と同じように、雪山も周りを外隈で描写して表現するが、残りの空を隅々まで黒で描写することはない。
 
なお、仏画の背景や地獄草紙の地獄環境を黒で表す例があるが、それは空ではない。
■18世紀~幕末
 徳川吉宗の洋書輸入解禁による蘭学興隆以降、銅版画など西欧絵画に倣って司馬江漢秋田蘭画の画家達、亜欧堂田善が油彩で青い空白い雲を描いた。
 その後、19世紀になり葛飾北斎、歌川国芳、歌川広重は、風景画で「青い空」「白い雲」を数多く描くに至った。そのため、西欧の線遠近法の使用と合わせると西欧風景画と同じで、西洋人には馴染みやすい印象を与えることになった。だからこそ17世紀以前の日本絵画ではなくて、北斎、広重の浮世絵版画が西欧の芸術家(画家、工芸家、作曲家、作家、文芸評論家)に熱狂的に受け入れられたのだと考える。
 一方、18世紀に突然、日本の水墨画、浮世絵版画でも「ベタ黒」(ベタの薄墨も含む)の夜空または闇夜の表現が出現する。それは鈴木春信の漆黒の闇夜、伊藤若冲の拓版画の《乗興舟》(この場合は昼の空?)であり、与謝蕪村の《夜色楼台図》である。
 19世紀になり北斎、国芳、広重の風景版画において「ベタ黒」の夜空が一般化する。
■幕末から明治40年
 油絵を中心とする西欧絵画を「洋画」、従来の日本絵画を「日本画」という区別が始まって以来、空(昼と夜)と雲の描写に両者は明確な差が出てくる。
 洋画(水彩画も含む)では青空と白い雲は当然のように描かれ、明治初期の浮世絵も幕末の北斎、国芳、広重の流れで描かれる。また、渡邊庄三郎が始めた新版画は西洋絵画の技法に従うので、作家たちは、青空と白い雲を戦後まで青い空と白い雲を描き続ける。中でも、川瀬巴水吉田博は、青い空に白い雲の名作を多く残している。
 ところが、洋画を意識したのか、日本画では、古来の伝統に従い空を描かず、霧で覆い隠す。風景画を描いても、地平線を最上部に取るか、まったく描かず、俯瞰構図で地上のみを描く構図を採用する。明治末になって、一部の革新をめざす日本画家が、最上部に僅かに青い空を描くケースが出てくる。
■大正から昭和20年
 大正時代になってようやく青い空と白い雲を描く日本画家が一部出始めたが、基本的にはあくまで地上の風景が主体で、空の部分は小さい。
 一方、田中一村戦前1941年から終戦年まで千葉の風景青空を描写し続けた。従来の日本画家と違い、地平線を最下部に設け、空を主体に描いており、青空だけでなく白い雲も描いている。
 戦前の日本画では青い空は勿論、沸き立つ白い雲もまったく描かれていない。ほとんど無いと言ってもよい。まさに北斎広重によってようやくたどり着いた青空と雲新たな日本画の表現の歴史を明治維新後の日本画は、100年以上逆戻りさせた
■昭和20年~昭和30年
 田中一村は戦時中に続き、戦後も青い空と白い雲を亡くなるまで描き続けている。日本画の中央画壇でも、昭和20年代になって青い空と白い雲を対象として描く画家が出始めた。例えば福田平八郎《雲》(1950)である。
 東山魁夷は、デビュー作《残照》で始めて青空を描いた。青空というより薄青の空だが、画面の三分の一を占めるほどの大面積で、その3年後最上部に青空が描かれた、有名な《道》を世に出した。しかし、以後国内の風景では青空は描かれず、1960年代になって、突如北欧風景画で青い空白い雲が現れるが、国内では描かれることは無かった。戦後重鎮となった東山魁夷でも、日本画においては青い空と白い雲を描くことを避けた可能性がある。
 

2)日本絵画における地表の事物の描写の変遷について

■透視図法は用いず、必ず俯瞰(鳥瞰)構図で描く。その際手前から奥まで、すやり霞、霧、雲(紙の白、または金)をちりばめ、視点を移動して、雲(霞)間に、地表の事物を同じ大きさで描く。ただし19世紀の浮世絵風景画において始めて雲が描かれ(例:北斎)、またすやり霞、金雲の面積が激減する(広重)。
■花鳥図では、手前の樹木、草木だけを描き、背後の風景は霧で覆い隠して描かない。明治以降の「日本画」では、さらにこれらが徹底される。
■西洋絵画における風景画(カナレット、印象派以降の画家)
 線遠近法を用いる西欧絵画(カナレットの都市画の例)では、近景の建物を大きく入れようとすると、遠方が小さく、しかも地(水?)平線を下げざるを得ず、必然的に空の面積が大きくなり、単調を避けるために、いかに空を魅力的に描くかが勝負にななる。
 ゴッホの平原の絵では、日本の絵のように俯瞰、鳥瞰図を意識し、地平線が上部に来る。
 ところが、ピサロやバルビゾン派の画家達は主題は広々とした平原(畑)だが、地平線は、半分以下、大半は下部に設定している。彼らは俯瞰構図ではないことも理由だが、主役は平原(畑)だけでなく、空(雲)も併せた風景だからだろう。そのため空に浮かぶ雲の造形も神経を使って描写している。

3)ベタ黒(漆黒)について

■蒔絵には漆黒背景の絵は存在するが、ベタ黒の背景を持つ絵画はない(紺紙金泥経の仏画があるが漆黒ではなく濃紺)が18世紀になり漆黒のベタ塗り背景が水墨、版画共に現れる(白隠、若冲、蕪村、春信)。
■ベタ黒の背景絵画の優品は国内に少なく、海外に流出し、また海外での評価の方が高い。

4)輪郭線による造形、装飾性、平面性について

■水墨における輪郭線描写は中国由来だが、水墨山水に見られる中国の高士の理念性は薄れ、日本的な緩さを伴う南画、俳画、禅画などに変貌。
■西洋の写実描写に似た水墨花鳥図の描写は、桃山期にやまと絵と融合し、装飾表現と写実表現が混在する。例えば全ての花がこちらに向く描写と、前後左右に向いた地表の草花が同時に存在(例::長谷川久蔵の桜図屏風)。その後は琳派の草花図、浮世絵版画に継承される。また塗りは平板で、陰影はつけない。

5)絵画空間設計(非完全性、非対称性の取り込み)と抽象表現

■水墨表現は、本来抽象性を含むが、装飾料紙を使った絵や、琳派の草花図の装飾表現においても非完全、非対称空間配置を取る(ドラッカーのいう「トポロジー:線と形を使った完全に抽象的な空間表現」)。

6)商業美術と純粋芸術について(制作者の意識)

■宗教絵画を除いて、日本の絵画は、それが大きな物でも生活の中で使用される(襖、屏風あるいは娯楽用の巻物)。従ってそれは調度品であり工芸品も含め生活美術品と云える。
■当時の制作者にとって西欧が定義する「芸術」「美術」や個人の創造性を前面に出した「芸術至上主義」とは無縁である。一人の絵師というよりも権力層(大名、寺社)から都市経済を支える商人、江戸期では町人層までのマーケットにあわせて、「家」、「工房」、「木版画作成分担システム」を駆使して、高級一点物、廉価大量生産作品(製品?)を提供する個人事業主(起業家)の側面も併せ持つ。
■芸術作品から装飾調度品まで様々な様式を一人の画家が描き分けた例は西欧(おそらく中国でも)ではあまりないと思う(やまと絵と水墨画の落差を見てほしい。これほどまでの大きな違いの絵を、最高の水準レベルで一人の作家が描いた例は西欧や中国でかつてあっただろうか?)

各展覧会記事で何を記述したか、時系列でその変化を要約

(1)「小村雪岱」展・補遺1:春信は知っていた!「線遠近法」とその「ハイブリッド描写」

 昨年末に投稿した「小村雪岱」展の記事の中で、小村雪岱の作品では、伝統的な平行線による空間描写、一方外の風景は一点透視図法による描写、すなわち日本の古典的な空間描写と一点透視図法のハイブリッドで構成されていることを指摘し、小村雪岱自身が新たに工夫したものだという指摘した。

 しかし、その後諏訪春雄著『日本人と遠近法』ちくま新書(1998)を読み修正しなくてはいけなくなった。
 諏訪氏によれば、鈴木春信西洋の遠近法伝統的な視点移動法との併用をすでに行っていたから(図1)。

図1 鈴木春信《笠森お仙と団扇売》 中版 錦絵 
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-142?locale=ja)

 上段のニ本の樹木根元鳥居根元が、線遠近法で描かれている一方、参道の敷石から下の部分はすべて、平行線による伝統的描写になっている。

 諏訪氏によれば、本質的な理由は「視点の移動」にあり、日本の画家は、自由に移動する視点を持ち、それが、浮世絵師の遠近法にも反映されていく。そして西洋の遠近法と日本の伝統的な遠近法併用春信以降も幕末まで続いていく。

(2)「小村雪岱」展・補遺2:泉鏡花「日本橋」の装幀画は仏画の三部構図だった?

 昨年末投稿した「小村雪岱」展の記事の中で小村雪岱出世作である泉鏡花『日本橋』装幀画図2)の空間描写についての以下の指摘:

図2 泉鏡花『日本橋』表表紙
「小村雪岱スタイル」展覧会図録、筆者撮影

●従来のやまと絵斜めの平行線ではなく、ほぼ例がない真正面から奥行きを描いている。土蔵の屋根の輪郭は、すべて垂直に引かれており、これは意表を突く構図である
●厳密に言えばやまと絵の伝統に則していない。本来ならば、手前の土蔵群対岸の土蔵群同じ大きさでなければならないが、1)手前の土蔵群2)日本橋川と行きかう船3)対岸の土蔵群の三つのグループに分けて、その順に大きさを変化させている

はすべて小村雪岱工夫であると述べた。

 一方、諏訪春雄著『日本人と遠近法』ちくま新書(1998)の中で、葛飾北斎《神奈川沖浪裏》(図3)を例にとった著者の次の主張:

図3 葛飾北斎《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》
出典:浮世絵検索(https://ja.ukiyo-e.org/)

 この遠近法は純粋な幾何学的遠近法ではなく、中国伝来の三部構図法とヨーロッパ遠近法をたくみに融合させたものであることはあきらかである。
 中国伝来の三部構図法は仏画などに見られる遠近法で、中景を大きく、前景をそれにつぐ大きさに、遠景を小さく描く方法である。

諏訪春雄『日本人と遠近法』(ちくま文庫)1998 108頁

 すなわち「中国伝来の三部構図法とヨーロッパ遠近法をたくみに融合させたもの」という見方に驚き、泉鏡花『日本橋』装幀画図2)をその観点で見直した。

 その結果、この絵においては、諏訪氏が提案する「視点移動遠近法」とみるにはあまりにも意匠化されていると判断し、「視点移動」という観点で三つのグループに分けて描写したとは断定せずに保留とした。

(3)「北宋書画精華」展(根津美術館):水墨画鑑賞2023年の振り返り、白眉を飾る北宋山水画

 「水墨画」鑑賞は、次の疑問を持ちながら始めた。

1)中国の山水画は普通(西洋的)の風景画のように鑑賞してはいけないのか? 「気」「老荘思想」「道教」などの中国思想、「詩書画一体」から「詩」を介さなければいけないのか? 「隠逸」の観点は必要か
2)日本の水墨画は中国と何が違うのか? 単なる物まねではないのか? 雪舟はどこがすごいのか? 桃山期以降の水墨画をやまと絵との対比や視点でどのように鑑賞するか? 禅画はどう位置付けたらよいのか? 日本の文人画(南画)は中国の文人画に対してどのように考えたらよいのか・・・

 「山水画」が一番興味を惹いた。例えば、燕文貴《江山楼観図巻》(図4)

図4 燕文貴《江山楼観図巻》 北宋 10~11世紀 大阪市立美術館蔵
出典:wikimedia commons, public domain

1000年も前にこれだけきちんとした風景を描けるのかと感じる。受ける印象として「緻密」「ゆるがせにしない」「きっちり」「厳しい」という言葉が浮かぶ。

さらに(伝)許道寧《秋山蒲寺図巻》、(伝)董源《寒林重汀図》、李成《喬松平遠図》、李唐《山水図》、(伝)趙令穣《秋塘図》ら名品を鑑賞した。

 会場では(伝)董源《寒林重汀図》李成《喬松平遠図》が、比較するように並べられていた。前者は江南系山水で後者が華北系山水である。共に奥へ奥へと遠近感が強調されているが、前者では水の気配が強く、後者では大陸的な乾いた大地で、後年牧谿南宋水墨画を日本人が好んだ理由が分かる気がする。

(4)展示「国宝 松林図屏風」(東京国立博物館)その1:知識、経験が変われば見方も変わる。実物鑑賞変遷記

図5 長谷川等伯《松林図屏風》左隻 国宝
出典:Colbase(https://colbase.nich.go.jp/)
図6 長谷川等伯《松林図屏風》右隻 国宝
出典:Colbase(https://colbase.nich.go.jp/)

 教科書で《松林図屏風》に出会って以来今日までの感想の変遷を4つのステージに分けて述べた。

表1 長谷川等伯《松林図屏風》鑑賞 感想の変遷

 第2ステージでは《松林図屏風》抽象絵画みたいだとポジティブに捉えていたが、「線スケッチ」を始めた第三ステージでは一転、別人の如くマイナスに見えるようになってしまった。その原因は、日本絵画の特徴である”や””である。
 日本の絵を見ると、近景の草花、樹木は克明に描いているのに、中遠景はことごとく雲や霧で覆い隠してしまい、画家は中遠景の描写を避けている(逃げている)ようにしか見えない。
 従って《松林図屏風》の大面積を占める白い紙(余白)が、霧立ち込める空間に見えるのか、西欧美術の目で単なる未完成の空白と見えるかという、日本の絵画の根本の問題に突き当たることになった。

 第4ステージでは、私の絵の鑑賞法が少し変わった。それは空間描写方法輪郭線描の描写をつぶさに見ることと、必要に応じて模写をすることで、作者の気持ちを推測するようになったことである。

 《松林図屏風》を模写した結果、次のような感想を得た:

■中国の水墨山水や日本の絵に特徴の高い俯瞰構図ではなく、むしろ西欧的な地上の高さから眺めた構図に近い
葉の線描激しくスピード感あふれる。現実の松ではなく頭の中にある葉の形状を、塊ごと向きを変えながら線描している。日本の絵画の様式化した葉ではなく、水墨画の写実的な描写でもないが離れてみると写実的な松の樹冠に見える。
■手前の松の上部の葉は濃く下半分の葉はかなりの部分薄墨で描き分けられている。その背後の松、さらにその背後の松が薄く描かれて、単なる奥行きの差ではなく、松の下半分の手前にも流れて視線遮っている描写と判断できる。その霧は松の左右の広大な空間に続いており、単なる余白ではなくという実態であることを示す。
は葉を描く前に描かれている。そして真ん中の枝は、の中から手前に出ており、樹木の立体描写が正確になされている。本来ならこれらの枝から葉が直接出るのだが、大部分の葉の描写は必ずしも枝に密着しておらず、枝にはお構いなく奔放に外れた位置から線描されている。このことは葉をかなり即興的に迷いなく描写していることを示す。

 模写して分かるのは、筆さばき思い切りの良さスピード感枝の位置にお構いなく葉の位置を決めていることで、それは素描の感覚に似ており、「下絵」説に賛同する。

(5)国宝障壁画展示《楓図》《桜図》(智積院・宝物館):茫々60年、あれは夢・幻だったのか?国宝の前のお昼寝

 智積院にて長谷川等伯《楓図》、長谷川久蔵《桜図》、その他の国宝障壁画を見た。以下それぞれの感想を示す。

長谷川久蔵《桜図》

図7 長谷川久蔵《桜図》(国宝)
出典:wikimedia commons, public domain

桜の花は蕾を除いて全て正面描きである。また、それぞれの花の直径異様に大きい。そのため桜の花の白い色が占める面積の割合は1割~2割近くに見え、金地背景に遠くからも強く印象付けられる。
●一方、地面に描かれた草花は、向きや大きが写実的に描かれている。
●ここで描かれた草花は中国のような図像学的な意味に関係なく、日本人の自然を愛でる自然に抱かれる喜びから選ばれ描いているように思える。
●桜の幹の描写は、狩野永徳ばりに太く力強い。今回実物を見たところ、輪郭が描かれない部分があることに気がついた。これは《楓図》狩野永徳《檜図》でも同様で、永徳が中国の水墨画表現から離れようと開発した描き方の可能性が高い。
水墨画との大きな違いは、画面の全面がほぼ金雲で占められていることである。下方に僅かに水の流れなのか、暗くて判然としない穴があり、草花の奥の空間が描かれている。これらは、中遠景金雲で隠していることを示し、すやり霞で中遠景を全て覆い隠す日本の絵画の伝統に従っている。

コメント:桜の花がすべて正面向きなのは、装飾性を際立たせるとともに、400年を経た現代日本画家加山又造氏の桜の絵や、同じく桜の絵で人気の中島千波氏の絵にまで桜の花の正面描きのスタイルが受け継がれているのは驚くべきことである。

長谷川等伯《楓図》

図8 長谷川等伯《楓図》(国宝)
出典:wikimedia commons, public domain

●楓の葉の向きは、全て正面向きである。しかし、サクラの花ほど拡大はされていない。おそらく紅葉の色が遠くからでも際立つためと思われる。
●楓の彩色は間近に見ると、驚くほど繊細な色塗り分けがされている。薄ピンク、薄赤茶など同系色と、紅葉していない緑の葉を混ぜるなど、配色が心憎い。未紅葉の緑の葉を、幹の左側の枝に配し、右側の枝には配さないなど配色の分布に変化を付けている。
草花は、楓の木の周りに数多く、かつ大きく描かれている。構図は、狩野永徳《檜図》と同じで、等伯の対抗意識を感じるが、《檜図》の場合はこれほどまできらびやかに草花は描かれていない。巨木草花取り合わせ長谷川派の特徴かもしれない。
楓の葉正面描きなのに対し、草花は、見下ろす角度から写実的に描写されている。
●楓の木の幹や枝輪郭線はほとんど見えない、あるいはあっても薄い
金雲画面の大半を占め、一部水なのか、闇なのか群青で示され、中遠景は描かれない。

コメント:《桜図》、《楓図》ともに大書院の襖に対として設置していることから、それぞれ構図描き方の特徴が共によく似ている。
 主幹を中心に大きく描くのは狩野永徳《檜図》と同じ構図だが、今回《檜図》に比べて画面下の草花がこの二人の絵に目立つ特徴ではないかと感じた。

長谷川等伯《松に秋草図》

図9 長谷川等伯《松に秋草図》(国宝)
出典:wikimedia commons, public domain

の巨木のサイズに比して、秋の草花異様に大きく描かれている。狩野永徳の《檜図》を意識した等伯構図かもしれない。
松の葉は典型的なやまと絵の描写に対し、秋草および葉っぱ向き水墨画写実的描写なのが対照的である。

コメント1:長谷川等伯が、狩野永徳の様式に対抗して試みたのではないかという上述の私の感想は、下記の論文で議論されていた。

黒田泰三「長谷川等伯の草花表現」出光美術館研究紀要 第十七号(2012)

 著者は、長谷川等伯は、永徳金碧画の様式を採り入れつつも、狩野派にはない自然景の中の草花をそのまま再現する表現を作ったという。

コメント2:注目したのは松の葉の描写である。松の葉の描写は写実的ではなく完全に様式化図案化された造形であり、「やまと絵」の描き方と云える。一方秋草の描写は、水墨画の描き方、すなわち写実的な描法に従っており。その結果、《松に秋草図》の中に極端にデザイン化された松の葉の造形リアル描写草花が存在する。

 以下、西欧人、中国人の目になって《松林図》、《桜図》、《楓図》、《松に秋草図》を見てみた

もし日本美術を知らない西欧人、中国人(明代)が《松林図屏風》、金碧障壁画を見たならばどのように目に映るのだろうか?

<西欧人の感想>
《松林図屏風》
●この絵の主題は何だろう。画家は一体何を伝えたいのだ。画家の世界観、思想が全く見えない。
●このだだっ広い白い紙の部分は何だ。筆が入っていないではないか。未完成のまま放置しているのか。もっと筆を入れて完成させなければ。
●松の葉は乱暴な筆致ではあるがリアルに描いている。しかしその枝葉と幹、根を入れた松全体は単なるシルエットにしか見えない。まったく立体感を感じない。松林や一応山も描いているようだが奥行き感がない。空間が描かれていないのだ。絵画とはとうてい思えない。
《桜図》《楓図》《松に秋草図》
この花の描き方は何だ。全部正面を向いているぞ。しかも、現実の花よりもサイズを大きく誇張して描いている。枝についた花は立体的ではなく、まるでスタンプを押したように平板ではないか。それは工芸品模様装飾のようだ。
楓の葉正面を向いたものばかりだ。桜と同じようにスタンプで押したように見える。
●この大面積を占める金色の箔は何だ。単なる背景か。しかし丸みを帯びた部分があるがこれは何だろう。穴の部分には水か何か描いている以外、ひたすら金色だらけだ。ここは手前の草花と巨木の奥にある中景遠景を描く場所だろう。なぜ金色で中景、遠景覆い隠すのか?
金色だけでなく葉の緑やの花の極彩色派手過ぎないか? きれいできらびやかなことは認めよう。けれども、巨木の花、葉は装飾的、手前の草木は写実的な描写と、異なる描法が共存しており一貫性が無い。どこにも画家の思想世界観が描かれていないではないか。

予想される西欧人の感想

  といったところが西欧人の主な感想ではないだろうか?

 それでは、明代中国人の感想も下に示す。

<中国人(明代)の感想>
《松林図屏風》
で描いてあり、松の他に山が薄く描かれているので一応水墨山水のつもりかもしれないが、中国には松だけ描くような水墨山水はないので、この絵は水墨山水画とはいえない。
南宋水墨画では確かに紙の白を使ってを表現するものもあるが、このように大きな面積の余白を設けることは無い。形が明確ではない。
粗い筆致の葉の表現は中国でも即興表現としてないことはないが、それにしても大雑把な印象。描写に緻密さ、厳格さがない。全体に密度がなくゆるい。
水墨山水士大夫が眺めるものであり描かれるものすべてに意味がある。すなわち描き方に約束がある。しかしこの絵にはその片鱗すら見いだせない。水墨山水の決まり事にしたがっていないので水墨山水画とは云えない。
《桜図》《楓図》《松に秋草図》
描かれているものから言えば、中国の花鳥図にあたるが、水墨画ではない。ただただ、金色の背景と、極彩色巨木草花が描かれており、ひたすら華美装飾品のような印象。
水墨花鳥画にみられる、宗教的精神的な深みが感じられない。ただ華美な調度品工芸品のようだ。

 と中国の絵画から受ける厳しさ、隅々まできっちりと構成、描写されている感じ、無駄な余白はなく絵全体が計算されている感じ、抒情的な要素が無いなど精神性宗教的意味を絵画に求める点、西欧人と共通の絵画に対する見方を中国人は持ち合わせている。特に、自然人間との関係は、日本人と、中国人、西洋人とは基本的に異なっており、それが絵画にも反映されている。

 芸術作品から装飾調度品まで様々な様式を一人の画家が描き分けた例は西欧(おそらく中国でも)ではあまりないと思う(やまと絵と水墨画の落差を見てほしい。これほどまでの大きな違いの絵を、最高の水準レベルで一人の作家が描いた例は西欧や中国でかつてあっただろうか?)

 以上、日本代表的絵画に対する西欧人中国人の一方的な見方に対して反論すれば、そのまま日本美術特徴に繋がるはずと考える

(6)「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」(千葉市美術館):なぜ国内に優品がないのか(泣)、驚きのその色彩と気品

 驚いたことにボストン美術館500枚近い鳥文斎栄之の作品を所蔵していることが判明した。しかも別々の画題の絵が大半を占める。
 一方、大英博物館100枚近くの作品を有し、ボストン美術館よりは劣るが、事情は同じである。

 同じく鈴木春信の「闇夜」の作品の国内所蔵品ほとんど無いうえに、数少ない国内の作品の色は、一度欧米の所蔵品を見てしまうと、もはや見るに堪えない。

 春信の闇夜表現とは真逆に、日本絵画夜の描写は伝統的に黒ではなく紙の「白」で表すのが常ではなかった。すなわち、余白部分紙の白が夜であり、空を黒く塗ることはなかった。あるとすれば、水墨画において月の周りの空をせいぜい外隈で描く程度であった。それは平安の絵巻物以来連綿と続いてきた。

 しかし江戸時代中期になって事情が変わった。水墨画で夜の空を全面的に塗りつぶすのは鈴木春信とほぼ同時代の与謝蕪村《夜食楼台図》《紙本墨画淡彩鳶鴉図》が思い浮かぶ。 しかし、いずれも漆黒ではなく、淡く塗られており、外隈の延長である(おそらく降る雪雪山を際立たせるため)。

 一方、鈴木春信は、大胆にも、夜空本当に漆黒で塗りつぶした。現時点での私の推測では、鈴木春信こそ、日本絵画史上初めて夜空を漆黒に塗った画家ではないかと思う。
 もしそうならば、鈴木春信は、「錦絵」の創始者だけでなく、漆黒の夜空創始者で、とんでもない革新的な表現者であり、日本美術史上外せない業績だと考える。(春信以降、夜空を全面塗りつぶした版画が一般的になるが漆黒ではなく、空の上を一部黒くするか、全面暗く深い青色など青系の色にするなど)

(7)「木村伊兵衛 写真に生きる」(東京都写真美術館):白黒スナップショットから街歩きスケッチを考える

野良着の襟周りの部分黒ベタは浮世絵美人画そのものだ

 鈴木春信の浮世絵版画の褪色問題に関連して、この《秋田おばこ》の写真がなぜ魅力的に感じるのかを考えてみた。

 この写真が私たちにとって魅力的に見えるのは、モデル自身の美しさによるところが大きいが、着物の白黒模様と首周りの黒ベタ帯による、日本の浮世絵版画の伝統的な美人画の構成によるものと考えたい。

 事実、「浮世絵検索」のデータベースの最初の300件を見るだけで、首周りの黒ベタ帯が描かれた美人画の大首絵が6件ほどすぐに見つかる。

図10 喜多川歌麿の版画(首周りのお慕情の黒ベタ塗りがある美人大首絵)
出典:上段 浮世絵検索、立命館大学所蔵のモノクロ写真 下段 浮世絵検索、ただしカラー画像をモノクロに変換

 《秋田おばこ》において浮世絵版画の着物の黒ベタに完全にならっている。

モノクロ写真は白との漆黒の面による抽象画ではないか

 次に《秋田おばこ》の右側の《渡し場》を見てみる。これは写実描写といえるだろうか? 結論を云えば、人間の眼で見た姿を写実的というのならば、写真は決してそのようには写せていない。すなわち人間の眼と異なり、白と黒の面による強い抽象化が起こっているために白と黒のコントラストが美しいと感じると考えたい。これは鈴木春信、喜多川歌麿らの黒ベタ浮世絵版画、特に部分黒ベタ版画の美とオーバーラップする。

(8)<武士(サムライ)と絵画>展(千葉市美術館)渡邉崋山の肖像画の下絵に驚愕、華山と私

風景スケッチ《四州真景「釜原」》のとんでもない近代性

図11 渡邉崋山《四州真景「釜原」》出典:中上昌秀「四州真景の旅⑩ 名品「釜原」」第47号 華山会報(令和3年)10頁より引用https://www.kazankai.jp/kaihoushi_file/20211216012936.pdf

 この絵のどこに近代性を感じるのか? 一番大きい点は、作者が描く視点である。江戸中期以降、特に葛飾北斎歌川広重も透視図法を用いて数多くの風景(広々とした大地も含む)を描いているが、俯瞰鳥瞰構図がほとんどで、平安時代の絵巻物から続く日本美術の伝統である。《四州真景「釜原」》の菅笠をかぶった人物では、菅笠の位置と地平線がほぼ一致している。すなわち描かれた地平線は渡邊崋山の眼の高さと一致することになり、渡邉崋山は西洋人画家と同じように、地面に立った視点から眺めて、地平線に消失点がある透視図法に沿って描いている(一点透視図法)ことを示す。

 この絵では広々とした牧場が主題で、「広々とした平原、畑」の絵と云えばゴッホ畑の絵(例:素描《ラ・クロー》)を思い出す。ゴッホは、日本の絵のように俯瞰、鳥瞰図の場合、地平線が上部に来ることを意識している。
 ところが、ピサロやバルビゾン派の画家達は主題は広々とした平原(畑)だが、地平線は、半分以下、大半は下部に設定している。彼らは俯瞰構図ではないことも理由だが、主役は平原(畑)だけでなく、空(雲)も併せた風景だからだろう。そのため空に浮かぶ雲の造形も神経を使って描写している。
 渡邉崋山の《四州真景「釜原」》の地平線はどうか? あきらかにピサロやバルビゾン派の油彩の水平線の位置と同じである。だから屋外で風景画を描き始めた西洋の画家達の構図と同じ方向を目指していると言える。

(9)「村上隆もののけ京都」展(2):村上作品は日本絵画の単なる延長・模倣にすぎないのか?

どのような観点で作品を眺めたか?

 これまでの記事の中で私が注目した日本美術ならではの描写表現(幕末の西洋絵画の技法を取り入れた絵画、版画を除く)は以下の通り。

1)空間、空(昼と夜)、雲の描写について
■基本的に空間は何も描かない(余白)、昼も夜も紙の白で表現する、水墨画では月は外隈で表現、やまと絵では太陽は赤、月は銀で彩色(時には金属貼り付け)。雁の群れを描くことで空の空間を示す。ベタに青で塗った空の表現はない。写実的な雲は描かない。水墨山水では山間にただよう霧、霞の表現のみ。18世紀になって、水墨画でも浮世絵版画でもベタ黒(またはベタの薄墨)の夜空または闇夜の表現が出現する。
2)地表の事物の描写について
■透視図法は用いず、必ず俯瞰(鳥瞰)構図で描く。その際手前から奥まで、すやり霞、霧、雲(紙の白、または金)をちりばめ、視点を移動して、雲(霞)間に、地表の事物を同じ大きさで描く。ただし19世紀の浮世絵風景画において始めて雲が描かれ(例:北斎)、またすやり霞、金雲の面積が激減する(広重)。
■花鳥図では、手前の樹木、草木だけを描き、背後の風景は霧で覆い隠して描かない。
3)ベタ黒(漆黒)について
■蒔絵には漆黒背景の絵は存在するが、ベタ黒の背景を持つ絵画はない(紺紙金泥経の仏画があるが漆黒ではなく濃紺)が18世紀になり漆黒のベタ塗り背景が水墨、版画共に現れる(白隠、若冲、蕪村、春信)。
■ベタ黒の背景絵画の優品は国内に少なく、海外に流出し、また海外での評価の方が高い。
4)輪郭線による造形、装飾性、平面性について
■水墨における輪郭線描写は中国由来だが、水墨山水に見られる中国の高士の理念性は薄れ、日本的な緩さを伴う南画、俳画、禅画などに変貌。
■西洋の写実描写に似た水墨花鳥図の描写は、桃山期にやまと絵と融合し、装飾表現と写実表現が混在する。例えば全ての花がこちらに向く描写と、前後左右に向いた地表の草花が同時に存在(例::長谷川久蔵の桜図屏風)。その後は琳派の草花図、浮世絵版画に継承される。また塗りは平板で、陰影はつけない。
5)絵画空間設計(非完全性、非対称性の取り込み)と抽象表現
■水墨表現は、本来抽象性を含むが、装飾料紙を使った絵や、琳派の草花図の装飾表現においても非完全、非対称空間配置を取る(ドラッカーのいう「トポロジー:線と形を使った完全に抽象的な空間表現」)。
6)商業美術と純粋芸術について(制作者の意識)
■宗教絵画を除いて、日本の絵画は、それが大きな物でも生活の中で使用される(襖、屏風あるいは娯楽用の巻物)。従ってそれは調度品であり工芸品も含め生活美術品と云える。
■当時の制作者にとって西欧が定義する「芸術」「美術」や個人の創造性を前面に出した「芸術至上主義」とは無縁である。一人の絵師というよりも権力層(大名、寺社)から都市経済を支える商人、江戸期では町人層までのマーケットにあわせて、「家」、「工房」、「木版画作成分担システム」を駆使して、高級一点物、廉価大量生産作品(製品?)を提供する個人事業主(起業家)の側面も併せ持つ。

■村上隆《金色の空の夏のお花畑》:私の問題意識、テーマ1)、2)、4)、5)

図12 村上隆《金色の空の夏のお花畑》 2023-2024
出典:「村上隆もののけ京都」展のHPより

 尾形光琳《立葵図屏風》と比べて、何が違うのかを以下にまとめる。

1)サイズと用途が全く異なる尾形光琳《孔雀立葵図屏風左隻》(以
  下、《立葵図》と略)は小さな調度品(屏風)であるのに対 
  して壁面を飾るための大画面壁画である。
2)《立葵図》では立葵部分の面積が大きく描かれるが、村上作品では、
  空とお花畑の比率半々の大きさ。
3)《立葵図》は主に正面を向いているが一部横向きや数は少ないが
  後ろ向きの花も描かれる。またはどの方向も向く、写生的に描かれ
  ている。また立葵の本数も少なく、横一列に並び、前後関係がない。一
  方、村上作品のお花畑は、全て前面を向き、またも幹から左右に 
  
出ており機械的で判で押したように描かれている。はタイトル「お花
  畑
」に相応しく多数描かれ、上下6段程度に分け、花のサイズ大小と 
  変えて、前後の奥行きを示している。
4)《立葵図》では、水墨花鳥画と同じ伝統的描写(僅かに上から見
  る視点
)に対し、村上作品は視点を上下左右すべてに移動させて等価に
 (多視点)描くことでどの花も意匠化(模様化)されている。
5)《立葵図》では、金箔のみ青空を表し、他には何も描かれない。
  一方、村上作品背景(空)は、正面向きと横向きの大小の花空に舞っていることと、従来の日本絵画の伝統にない積乱雲が描かれている。
6)《立葵図》花の色は実在の花の赤と白の二色が使われているが、村上
  作品
ではを表す架空のキャラクター造形で、それらをPOP調のカラフ
  ルな多色彩色を施している。

《金色の空の夏のお花畑》の空に浮かぶ花と雲の表現は日本美術の伝統描写に対するチャレンジである

《金色の空の夏のお花畑》では、1)金色の空に正面、横向きの花を飛ばす、2)明らかに積乱雲とわかる白抜きの雲を描くという日本絵画の伝統にはない二つのチャレンジを行っている。

 すなわち、従来の日本絵画では、空に浮かぶのは太陽(特に高い空には雁など渡り鳥)に限られ、大半のは紙の白または金箔でほとんど空白(余白)である。
 一方《金色の空の夏のお花畑》では、空全体に花を配置し、その花を異なる向き、異なる大きさにすることで、あたかも三次元空間のように実空間を感じさせる。すなわち従来の日本の絵画の概念(余白としての空間)を破っている。

もう一つ、日本の絵画の伝統では、空に浮かぶ明確な輪郭線を持つ写実的な雲を描くことはなかった。もちろん快晴を示す青く彩色した空の例もない。
 ただし幕末近く、それらは葛飾北斎および歌川広重により破られる。両者は霧やすやり霞の描写はするものの控えめで大地、都会の街を雲で覆い隠すことなく描いている。そしてついに葛飾北斎の傑作《富嶽三十六景》において、少し様式化しているものの明確な輪郭を持つ雲を描き、歌川広重も自然な形の雲を描くに至った。

図13 葛飾北斎の雲を描いた作品:《富嶽三十六景》より上段左:《甲州三島越え》(大英博物館)、上段右:《山下白雪》(ボストン美術館)下段左:《神奈川沖浪裏》(メトロポリタン美術館)、下段右:《凱風快晴》(大英博物館)
出典:浮世絵検索:https://ja.ukiyo-e.org/
図14 歌川広重の雲を描いた作品左上:《東海道五十三次 品川》(ボストン美術館)、左下:《行書東海道 平塚》(ボストン美術館)、右:《六十余州名所図会 但馬 岩井谷 窟観音》(ボストン美術館)
出典:浮世絵検索:https://ja.ukiyo-e.org/

 明確な輪郭を持つを描いたのは、北斎が初めてではないか? しかも青空に雲を描いたのは東洋の歴史上初めてであり、いわば北斎は数千年の東洋の伝統を破った革新者といえる。(ただ歌川国芳が青空と雲を描いた版画を出している)

 なお雲の事例に《神奈川沖浪裏》があり、大方の人の眼は”Great Wave"に行くが、実は富士の真上に積乱雲状の白い雲が大きく広がっていることに言及している人はほとんどいない。メトロポリタン所蔵版ではクリアに判別出来るが、他はすり減った版木を使っているため気が付きにくいと思われる。北斎作画の意図を考える上で雲の存在は見逃してはいけない事実である。

 一方、広重も後年に北斎に倣って輪郭が明確な白い雲と、青空を描いている。北斎の雲が様式化され、西洋絵画の抽象表現に近づいているのに対し、広重の雲の形は自然写実的である。

 《東海道五十三次 品川》では、高い空の雲は大きく、地平線に行くにしたがって、雲のサイズが徐々に小さくなり、雲の間の間隔がだんだん狭まっていく。明らかに西欧の透視図法を使って、という空間の立体性(三次元性)雲の配置で表現しているのを示す。
 この絵は、地上、海上、空と絵全体透視図法で描かれており、西洋絵画そのものといってもよい。唯一西洋絵画と異なるのは、地上から数十メートルの高さ視点、すなわち俯瞰構図でこの絵を描いていることである。広大な地上の風景を描くには俯瞰構図の方がむいているからである。

 今回広重雲の描写を調べたが、以前樹木の遠近描写法を調べた時と北斎広重の描写の違いについて同じ結果が得られた。青空の場合も北斎デフォルメ様式化しているのに対し、広重写実的に描いている。

明治以降の青空と雲の描写について

 日本の絵画は、明治維新を経て激変した。洋画日本画に分かれてしまった。さらに浮世絵版画の役割は明治の初めにすたれ、大正、昭和になって再興された新版画は、制作システムこそ浮世絵版画と同じだが、絵画の描写西洋絵画の技法である。その中で、川瀬巴水吉田博は、青い空に白い雲の名作を多く残している。中でも前者夏空に積乱雲後者山岳風景の雲に惹かれる。

図15 川瀬巴水による青空と白い雲の作品例上段:《浜名湖》、下段左:《青い山へ》、下段中:《佐渡》、下段右:《神田明神》
出典:浮世絵検索:https://ja.ukiyo-e.org/
図16 吉田博による空と雲の作品例上段左:《五色が原》、上段右:《From Daitenjodake Otenjo》、下段左:《From the Summit of Komagatake 》、下段右:《Morning on Mt. Tsurugi》
出典:浮世絵検索:https://ja.ukiyo-e.org/

 透視図法明暗法を駆使しておりあきらかに西洋絵画寄り日本絵画の伝統とは隔絶している。

歴史を逆戻りさせた日本画

 それでは、明治以降日本画青空と雲をどう描いたのか?
 《金色の空の夏のお花畑》に描かれた白い雲を見た途端に福田平八郎《雲》(1950)を思い出した。

図17 福田平八郎《雲》 1950
出典:大阪中之島美術館「没後50年福田平八郎」展(2024)チラシより

 福田平八郎日本画家であるが、彼がこのように写生に基づくけれども対象単純化装飾化させたスタイルの一連の日本画の代表作《漣》《雨》《筍》を発表した時、特に最初の《漣》を発表時(1932年)、日本画壇から「何だこれは、絵と云えるのか!?」という声が巻き起こったとのことである。
 なので上記真っ青青空に白い雲という組み合わせは、1950年時点で日本画の関係者にとって事件ではなかったか?。

 手持ちの明治初期から戦後の日本画家の画集をざっと見ると、戦前の日本画では青い空は勿論、沸き立つ白い雲もまったく描かれていない。ほとんど無いと言ってもよい。まさに北斎広重によってようやくたどり着いた青空と雲新たな日本画の表現の歴史を明治維新後の日本画は、100年以上逆戻りさせたと云える。

(10)「村上隆もののけ京都」展(3):村上作品を見て日本絵画の特徴を考える(続き)

図18 《祇園祭礼図》(部分) 畳の彩色出典:筆者撮影

 ここでは商店の家の中の畳の色について説明する。

 実は、私は絵巻物や日本の都会を描いた屏風絵浮世絵版画を見る時はついつい家の中の畳の彩色に目が行く。発端は、小村雪岱の作品「青柳」「落葉」青緑色が、鈴木春信浮世絵版画と同じく目に優しい落ち着いた色調に魅せられたこと、それ以前にも歌川広重の「名所江戸百景」、《浅草田甫酉の町詣》に惹かれたことである。

図19 左から小村雪岱《青柳》、《落葉》、歌川広重《浅草田甫酉の町詣》(名所江戸百景)
出典:全て「浮世絵検索」 https://ja.ukiyo-e.org/

 畳は時間が経てば、色褪せて薄緑色薄茶色に変色していくはずで、画家は絵の真ん中に緑色を配することで、あえて現実を描かず、緑色の視覚効果を狙っていると推測している。

(11)「村上隆もののけ京都」展(4):村上作品を見て日本絵画の特徴を考える(続き)「四神と六角螺旋堂」の部屋とその作品

 私は日本絵画歴史を意識する村上氏の新作は、明るい場で展示してもらいたかった。なぜなら日本の絵画は、夜でも暗闇は描かなかったから。例えば「夜」の字が題名にある日本の絵巻を次に示す。

1)《百鬼夜行絵巻》

図20  真珠庵蔵『百鬼夜行絵巻』(部分)
出典:wikimedia commmons, public domain

2)平治物語絵巻《三条殿夜討の巻》

図21 平治物語絵巻《三条殿夜討の巻》(ボストン美術館)
出典:wikimedia commmons, public domain

 また題名に「夜」はない例に次がある。

3)《鳥獣人物戯画・甲巻》

図22  《鳥獣人物戯画・甲巻》(部分)
出典:wikimedia commmons, public domain

 キツネが自分の尾を松明代わりに燃やしているこの場面は夜の光景だとされている。

図23 《青龍》の部分拡大図上段左:漆黒の空間、彩雲、雷光のようなジグザグによる効果音描写 右最上段:竜の頭上の白い象 右中段:群青の空に浮かぶ白い積乱雲 下段:色とりどりの波濤と南蛮船
出典:村上隆《青龍》 京セラ美術館・企画展HP・ジュニアガイドより
図24 《朱雀》の部分拡大図上段:《朱雀》の絵の上左と上右の隅に描かれた円盤状のアイテム 中段左:漆黒の宇宙空間、雲に乗った五大明王、雲に乗った月(左隅、右隅)、円弧の上に配置された様々なアイテム 中段右上および中段右下:太陽系とアンドロメダ星雲 下段:左右の天女、下向きの円弧上の様々なアイテム、薄暗い空間に広がる霞状の雲
出典:村上隆《青龍》、京セラ美術館・企画展HP・ジュニアガイドより

■《青龍》では、荒れ狂う波濤の上に何隻もの南蛮船が翻弄されており、波濤の先には巨大な積乱雲がうっすらと白く立ち上がり、青龍の胴体にまで届いている。時刻は夜、青龍の上部には漆黒(青味も感じる)の空が広がる。青龍の周りには仏画の彩雲が多数取り囲み、青龍の尻尾、胴体からはジグザグの雷光で表した音が鳴り響いている。
■《朱雀》では《青龍》よりもはるかに高い宇宙空間に飛び出す。下部には霞が広がり、その上は宇宙空間の漆黒である。朱雀は薄い透明の膜からなる玉の中に五大明王と共に閉じ込められている。薄い膜上には小さなアイテムが配置され、左右に満月と下限の月が描かれる。広大な宇宙空間を示すために太陽系とアンドロメダ星雲が描かれる。四隅には、円盤状の不明な図像と天女が配置されている。

 以上《青龍》《朱雀》の二つの絵の背景のまとめから、私は村上氏が語る「日本絵画の歴史の文脈を採り入れる」ことに大いに頷けるのです。その理由は以下の通り。

(12)「田中一村展」その2:「青い空」と「白い雲」、そして奄美の空と雲を描き切って逝った

 田中一村の絵のもう一つの特徴「青い空」「白い雲」の描写に焦点をあてることにした。年代順に「」を描いた作品を以下に示す。

1931(昭和6年)~:信州滞在時代

図25 左:《富貴楼にて(アルプス連峰の雲海)》 右:《アルプス連峰》
出典:展覧会図録51頁 筆者撮影

 アルプス連峰にかかる雲海に注目して描かれた。両作品ともに、雲の形状描写が眼でみたまま、極めて写実的に描写しているのはかなり珍しい

1938(昭和13年)~:千葉(千葉寺)時代

図26 左上《山の田》1946  左下《田植え》1945右上《千葉寺はさ場》1945 右下《牛車と農民》1945
出典:展覧会図録66頁、67頁 筆者撮影
図27 左《夕日》1941, 1942 右上《千葉寺 春》1945末 右下《千葉寺 杉並木》1945末
出典:展覧会図録70頁、73頁 筆者撮影
図28 上《千葉寺 雪》1945末 下《水辺夕景》1952頃
出典:展覧会図録74頁、75頁 筆者撮影

 注目したいのは《山の田》《田植え》を除いて地平線が全て低く取られていることである。すなわち、一村の眼大きく空に注がれている。

 《夕日》《水辺夕景》では、地上の事物はシルエットとして描かれており、夕日でオレンジに染まる白雲や、その手前に横にたなびく黒雲の描写が主役のように見える。また真上の雲大きく広がり、地平線に行くほど小さく、しかも横雲間隔を狭めて線遠近法による奥行きを描写している。

 《山の田》《田植え》では、と背後の主題だが、山の端の上の空も、薄紅に染まった黒雲が覆う光景で空と雲の描写に力を入れている。

 さらに特筆したいのが、青空である。

 日本絵画江戸期を除き伝統的に青空を描かなかった。しかし明治以後洋画日本画に分かれ、日本画戦前までほとんど青空を描かなかった。

 しかし田中一村戦前1941年から終戦年まで千葉の風景青空を描写し続けている。

 例えば《千葉寺はさ場》《牛車と農民》ではうっすら青空が見え、《夕陽》《千葉寺 春》では、暮れる前の青空を薄めに描き、そして《千葉寺 杉並木》《千葉寺 雪》では日中の青空堂々と描いている。特に《千葉寺 雪》は、積雪後雲一つない晴れ渡った青空が主題といってもよい。

 上に示した一村風景画写実に徹した西欧絵画だと考えても不思議ではない。

1947(昭和22年)~:田中一村誕生以後

図29 《入日の浮島》1946-47
出典:展覧会図録96頁 筆者撮影
図30 《黄昏》1948
出典:展覧会図録103頁 筆者撮影

 田中一村は、戦後公募展に応募しはじめる。《入日の浮島》《黄昏》共に写実的な空の絵の延長にある本画である。特に《黄昏》は、青龍展で落選した《秋晴》と同じ趣向の作品で、農家とその周囲の樹木シルエット暮れ行く青空黒い雲をまるで油彩画のように描いている。

1955(昭和30年)~:石川県やわらぎの郷滞在、九州、四国、紀州への旅

図31 《仁戸名蒼天》1960
出典:展覧会図録150頁 筆者撮影
図32 《筑波山》1955
出典:展覧会図録151頁 筆者撮影
図33 《ずしの花》1955
出典:田中一村展企画展HP:https://isson2024.exhn.jp/exhibition/
図34 《青島の朝》1955
出典:展覧会図録153頁 筆者撮影
図35 左上《山村六月》1955 左下《由布嶽朝霧》1955 中上《雲仙雨霽》1955中下 《雨霽》1955 右上《僻村暮色》1955 右下《僻村暮色》1955
出典:展覧会図録154頁、157頁、158頁 筆者撮影
図36 左上《足摺狂濤》1955 左下《平潮》1955 右上《九里峡》1955 右下《鬼ヶ城黎明》1955
出典:展覧会図録160頁、161頁、162頁 筆者撮影

 九州・四国・紀州で描いた風景画は、これまで以上にの描写にこだわっており、千葉時代の絵に比べて明るく感じる。一村が関東とは違う南国植物空気を描こうとしたからであろう。

 特に植物地面から空に向かって描く構図の《ずしの花》明るさは圧巻である。鑑賞者が地面に這う昆虫になり、一本の花を見上げると、明るい青い空が上空に広がり、白い雲が眼に飛び込んでくる。

 《仁戸名蒼天》1m四方に及ぶ作品で、真っ青な、まさに雲一つない”蒼天”が眼に飛び込む。手作りの木の額に入っているために日本画とは思えない。

1958年(昭和33年)~:奄美大島移住以後

図37 左上《宝島》1959頃 左下《麗日》1959頃 右《寶島の奇巖》1959頃
出典:展覧会図録160頁、168頁 筆者撮影

 一村は最初に奄美に来た時に、トカラ列島宝島にも訪れ、上の絵を残している。大きく空をとり、白い雲を描いているが、さらに印象が明るくなっている。旅による気持ちの高揚もあるが、野生馬が草をはむ広い緑の草原もそうさせていると思う。
 なぜなら、千葉市美術館田中一村展で見た九州阿蘇草千里で描いた《放牧》という作品の青空草千里の緑が強く印象に残っているから。

図38 参考図 《放牧》1955
出典:千葉市美術館《田中一村 新たなる全貌》展(2010)図録 152頁 筆者撮影
図39 《アダンと小舟》1960
出典:展覧会図録 183頁 筆者撮影

 縦長の本画《アダンと小舟》ではアダン葉と実の背後の青空に、巨大な白い入道雲が描かれていることに注意日本画というより南国を描いたイラストか、南国の旅に誘うポスターと見まごうほどで、以後青空白い雲を描いた大型作品は制作していない。

日本美術における「青い空」と「白い雲」:なぜ北斎・国芳・広重の革新描写は明治の「日本画」で途絶えたのか? 大正、昭和の流れを概観する。

村上隆氏が描く白い入道雲を見たことがきっかけで思いついた2点の推論、仮説①北斎が青空・白い雲を日本絵画として最初に描いた②明治維新後命名された、日本画では青空・白い雲をほとんど描かなくなった)について、記事を書いた8月から現在まで継続して調査した。

 について結論を言えば、北斎より一世代前、司馬江漢秋田蘭画の画家達、亜欧堂田善北斎よりも先んじて描いた。西洋の絵画に影響された彼らが描くのは(透視図法も併せて)当然である。北斎は、彼らの絵を何らかの機会に見たり、研究した可能性が十分ある。②については、専門家の論文や解説をまだ見出していない。

  ところが松涛美術館の展覧会、題して「空の発見」が予告された。専門家(学芸員)が記述したPDFによれば、仮説①は、専門家の意見も同じで裏付けがとれた(下記)。一方仮説②についてはPDFは何も答えていない。

https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2024/03/Press-Release_Discovering-the-Sky.pdf

 その後「アサヒグラフ別冊」の日本画家シリーズを片っ端から眺めた結果、次の傾向を掴んだ。

 調べた画家は以下の通り(順不同):堅山南風、小林古径、南嶋薄暮、山口蓬春、東山魁夷、平福百穂、山本春挙、川端龍子、松林桂月、堂本印象、山本丘人、橋本関雪、土田麦僊、横山大観、竹内栖鳳、速水御舟

1)明治40年ごろまでは、青空と雲を描くことはない。
2)大正時代になって、雲を描く画家が出始める。青空も薄い。(例外:速水御舟:群青の空。上部に僅かの面積)
3)昭和3年(1928)、山本丘人のような伝統に縛られない画家が青い空と白い雲を描く
4)戦後(下記東山魁夷で代表させる)

 以上分かることは、戦前青い空と白い雲を描いているのは速水御舟山本丘人のような、伝統を破り新しいことを生み出そうとする画家である。

同期の東山魁夷を代表とし、戦後の日本画の青空と雲の描写の歴史の文脈を探る

 田中一村が、千葉で真っ青な青空を描いていた2年後、1947年に東山魁夷も始めて青空を描いた。それが《残照》で、東山魁夷はこれによりブレイクした。青空というよりも、薄青の空だが、画面の三分の一を占めるほどの大面積で、相当な覚悟で冒険したと思う。その3年後、有名な《道》を描く。

 以上は日本国内の空だが、以降国内の青空の絵姿を消す。ところが、1960年代になって、突如青い空白い雲が現れる(下記)。

 これは一体どうしたのか? 海外の風景画だから気を許したのかもしれまないが、洋画(油彩)新版画では、日本国内だろうと海外だろうと、戦前から青い空白い雲は当たり前のように描いてるので理由にはなりにくい。

 推測だが、日本画の中央画壇第一人者の東山魁夷でも、この1960年代においてすら青空白い雲を描くことがはばかられたのではないか。

 私が知る限り東山魁夷は、国内では青空と雲を描くことなく、晩年は古来の水墨画回帰していった。

(13)山口晃氏の田中一村鑑賞術(NHK・日曜美術館)紹介と公募展落選の理由を考えてみた

田中一村の日本画の革新性は、金地の"青空"と写実描写のモテイーフとの組み合わせにあった!

図40 《秋晴》1948出典:展覧会チラシより。https://www.tobikan.jp/media/pdf/2024/issontanaka_flyer_2.pdf

 その構図と構成は、地平線をかなり下に取り、全画面のほとんどが「」である。一体どこが、田中一村が目指した新しい日本画なのか?

 実は、この《秋晴》と同時期にまるで姉妹作のように制作された《黄昏》という作品がある。(図7

図41 《黄昏》1948
出典:「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」展覧会図録103頁 筆者撮影


 《黄昏》ではなく《秋晴》の方を掲載したかった。屏風に金地(金箔)は伝統的な素材で全面金地なので、あたかも夕陽に染まった空を表しているだけで、特に革新性は無い絵であると見て、取りあげなかった。

 しかし「タイトル」《秋晴》金地(金箔)は、夕日に染まった空ではなく雲一つない青空だった! 

 さて、江戸以前日本絵画では、「青空」と「白い雲」を描くことが無かったのに、司馬江漢亜欧堂田善小田野直武秋田蘭画の画家達洋風風景画の中で「青空」と「白い雲」を描き始め、葛飾北斎歌川国芳歌川広重に至って「浮世絵版画」として、大量に流布することで、「青空」と「白い雲」の風景画が、日本絵画として定着したと思われることを述べた。

 明治維新後、日本の絵画が「洋画」と「日本画」に分かれた途端、なぜか「日本画」では歴史の逆回りが起こり、「青空」と「白い雲」が描かれなくなった。大正時代前後から新しい日本画を目指す少数の画家達により僅かに青空が描かれるようになった。
 「青い空」と「白い雲」が日本画の中で市民権を得たのは戦後になってからではないかと述べ、その例として田中一村が戦前から終戦直後にかけて「青空」と「白い雲」を描いていること、そして後に東山魁夷《残照》《道》で「青空」を描いたことを紹介した。
 また1950年福田平八郎が、究極に単純化した「青空」と「白い雲」を描いた《雲》を世に問うていることも示した。

ところが、田中一村《秋晴》は、金地が「青空」を表すことは村上隆氏《金色の空の夏のお花畑》と同じだが、モティーフすべてが写実的に描写されていることが大きく違う。

 この《秋晴》を目の前にした青龍展審査員達は大いに戸惑ったと思う。なぜなら、日本絵画で金地に描かれるのは、桃山時代金碧障屏画におけるモティーフか、琳派の絵の装飾化されたモティーフなのに、《秋晴》では、金地にまるで西洋画のような写実でモティーフが描かれているから。《秋晴》金地は、全く日本絵画の伝統のらち外にあり、これが青空だと言われても、審査員がとまどうのは当然。

 以上から、私はようやく田中一村が、何故あれほど怒ったのかが解けた。田中一村が試みたのは、写実の地上風景に対して試みたのだ。それが、どれほど突飛なことか、モネピサロの風景画の青空を、全て金地置き換えた時を想像してみればよい。かなりの違和感を感じると思う。

 さらに一村が描いたの金地に農村風景金地(金箔)と農村風景との組み合わせ自体が日本絵画の伝統では異端ではないか。確かに田中一村は、本気で日本画革新を目指していたといってよい。

(14)「カナレットとヴェネツィアの輝き」展(SOMPO美術館):都市画の極み、素描動画が楽しく嬉しい

どのような観点で西洋風景画を見たのか

 今回は、以下の観点で鑑賞した。

●18世紀の西洋風景画とは? 西欧絵画の歴史の中で、同時代の日本絵画との対比で
●地平線の位置(地上と空の配分)
●空と雲の描写
●人物の描写
●水(波)の描写
●建物の描き方、下書きの有無(フリーハンドまたは定規の使用)
●素描はどうだったか
●ヴェニスを描く意味(都市画としてのヴェニス)

 線遠近法を用いる西欧絵画では、近景の建物を大きく入れようとすると、遠方が小さく、しかも地(水?)平線を下げざるを得ず。必然的に空の面積が大きくなり、単調を避けるために、いかに空を魅力的に描くかが勝負にななる。
 日本の画家達(浮世絵版画)は青空白い雲を避け、朝焼け夕焼け雨あられなどの天候とすやり霞を多用しますが、西欧絵画の場合は、すでにこの時代から、青空白い雲に真っ向から勝負している。
 なお、同時代、海の向こうの司馬江漢小田野直武らが、遠近法青い空白い雲の風景画に一生懸命取り組んでいる。

(おしまい)

 前回の記事は下記をご覧ください。


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