<2024展覧会を振り返る>日本絵画における推論・仮説をまとめてみた:「江戸の遠近法」、「黒ベタ」「夜空」、「青い空」「白い雲」
(長文になります)
あけましておめでとうございます。本記事は、昨年末に投稿する予定でしたが、歳を越してしまいました。本年もよろしくお願いいたします。
はじめに
現在私は「「線スケッチ」の立場で美術展を鑑賞してみた」というタイトルで、訪問した美術展の記事を投稿しています。
かつては、あらゆるジャンルの美術展に出かけましたが、最近は「線スケッチ」作品の制作や、スケッチ教室での指導の中で抱いた問題意識に基づき、焦点を絞ってでかけることにしています。
例えば、2023年の問題意識は「ベタ黒」と「水墨画」(中国と日本の違い)です。
一方、2024年は正月に長谷川等伯の「松林図屏風」を見て以来、日本絵画における「空間」(奥行き)の描写について関心を寄せることになりました。
さらには、村上隆、田中一村の展覧会において、日本美術における「空」、特に真昼の「青空と白い雲」の描写について注目することになり、その後年末になってカナレット展の西欧美術の空の描写との対比や、明治以後の「日本画」の空の描写にまで関心を持つことになるとはまったく考えもしませんでした。
さて、展覧会を見るたびに新しい発見があるために、当然ですが問題意識から生まれる推論、仮説は変化していきます。特に今年注目した「青い空」と「白い雲」については、これまで一般書などでは取り上げられてこなかったテーマなので、毎回新しい発見があり、記述も変化して、現在自分がどこまで分かって何を訴えようとしているのか、自分自身もわからなくなってしまいました。
そこで、上記問題意識に関連する2024年に訪れた展覧会記事の内容を振り返り、問題意識と自説(推論・仮説)を概観し、本記事で整理したいと思います。
なお投稿済みの記事の中では、まるで私が初めてその推論、仮説を思いついたかのように書いていますが、実際はすでに専門家がすでに知っていることばかりだと私は考えています。すなわち眼にした一般書には書かれていないだけで、専門書や論文には書かれている可能性が高いと。
ですから、記事を書いた後も、できるだけ専門家の著書や言葉の確認作業を続けています。確認が取れたものについては、追加情報として今後記述していくことにします。
なお、本来ならば、最初に記事の振り返りで論点を整理し、その後に推論や仮説のまとめを示すべきですが、振り返り部分は、私にとっては有用でも読者にとっては、読むのが煩雑になるだけですので、本記事では先に整理結果(現時点でのまとめ)を示すことにします。ですから、読者の皆様は第一章だけ読んでくださればよいと考えます
もし、記事の時系列の流れ、その中での推論、仮説の変化を知りたい方は、次章「各展覧会記事で何を記述したか、時系列でその変化を要約」をお読みください。
各展覧会記事の中の推論、仮説の時系列での変化にもとづく現時点でのまとめ
以下、末尾に示した今年投稿した展覧会記事の中の推論、仮説をまとめた結果をテーマ別に示します。
1)日本絵画における空間、空(昼と夜)、雲の描写の変遷について
2)日本絵画における地表の事物の描写の変遷について
3)ベタ黒(漆黒)について
4)輪郭線による造形、装飾性、平面性について
5)絵画空間設計(非完全性、非対称性の取り込み)と抽象表現
6)商業美術と純粋芸術について(制作者の意識)
各展覧会記事で何を記述したか、時系列でその変化を要約
(1)「小村雪岱」展・補遺1:春信は知っていた!「線遠近法」とその「ハイブリッド描写」
昨年末に投稿した「小村雪岱」展の記事の中で、小村雪岱の作品では、伝統的な平行線による空間描写、一方外の風景は一点透視図法による描写、すなわち日本の古典的な空間描写と一点透視図法のハイブリッドで構成されていることを指摘し、小村雪岱自身が新たに工夫したものだという指摘した。
しかし、その後諏訪春雄著『日本人と遠近法』ちくま新書(1998)を読み修正しなくてはいけなくなった。
諏訪氏によれば、鈴木春信は西洋の遠近法と伝統的な視点移動法との併用をすでに行っていたから(図1)。
上段のニ本の樹木の根元と鳥居の根元が、線遠近法で描かれている一方、参道の敷石から下の部分はすべて、平行線による伝統的描写になっている。
諏訪氏によれば、本質的な理由は「視点の移動」にあり、日本の画家は、自由に移動する視点を持ち、それが、浮世絵師の遠近法にも反映されていく。そして西洋の遠近法と日本の伝統的な遠近法の併用は春信以降も幕末まで続いていく。
(2)「小村雪岱」展・補遺2:泉鏡花「日本橋」の装幀画は仏画の三部構図だった?
昨年末投稿した「小村雪岱」展の記事の中で小村雪岱の出世作である泉鏡花『日本橋』の装幀画(図2)の空間描写についての以下の指摘:
はすべて小村雪岱の工夫であると述べた。
一方、諏訪春雄著『日本人と遠近法』ちくま新書(1998)の中で、葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》(図3)を例にとった著者の次の主張:
すなわち「中国伝来の三部構図法とヨーロッパ遠近法をたくみに融合させたもの」という見方に驚き、泉鏡花『日本橋』の装幀画(図2)をその観点で見直した。
その結果、この絵においては、諏訪氏が提案する「視点移動遠近法」とみるにはあまりにも意匠化されていると判断し、「視点移動」という観点で三つのグループに分けて描写したとは断定せずに保留とした。
(3)「北宋書画精華」展(根津美術館):水墨画鑑賞2023年の振り返り、白眉を飾る北宋山水画
「水墨画」鑑賞は、次の疑問を持ちながら始めた。
「山水画」が一番興味を惹いた。例えば、燕文貴《江山楼観図巻》(図4)
1000年も前にこれだけきちんとした風景を描けるのかと感じる。受ける印象として「緻密」「ゆるがせにしない」「きっちり」「厳しい」という言葉が浮かぶ。
さらに(伝)許道寧《秋山蒲寺図巻》、(伝)董源《寒林重汀図》、李成《喬松平遠図》、李唐《山水図》、(伝)趙令穣《秋塘図》ら名品を鑑賞した。
会場では(伝)董源《寒林重汀図》と李成《喬松平遠図》が、比較するように並べられていた。前者は江南系山水で後者が華北系山水である。共に奥へ奥へと遠近感が強調されているが、前者では水の気配が強く、後者では大陸的な乾いた大地で、後年牧谿の南宋水墨画を日本人が好んだ理由が分かる気がする。
(4)展示「国宝 松林図屏風」(東京国立博物館)その1:知識、経験が変われば見方も変わる。実物鑑賞変遷記
教科書で《松林図屏風》に出会って以来今日までの感想の変遷を4つのステージに分けて述べた。
第2ステージでは《松林図屏風》を抽象絵画みたいだとポジティブに捉えていたが、「線スケッチ」を始めた第三ステージでは一転、別人の如くマイナスに見えるようになってしまった。その原因は、日本絵画の特徴である霧”や”雲”である。
日本の絵を見ると、近景の草花、樹木は克明に描いているのに、中遠景はことごとく雲や霧で覆い隠してしまい、画家は中遠景の描写を避けている(逃げている)ようにしか見えない。
従って《松林図屏風》の大面積を占める白い紙(余白)が、霧立ち込める空間に見えるのか、西欧美術の目で単なる未完成の空白と見えるかという、日本の絵画の根本の問題に突き当たることになった。
第4ステージでは、私の絵の鑑賞法が少し変わった。それは空間描写方法と輪郭の線描の描写をつぶさに見ることと、必要に応じて模写をすることで、作者の気持ちを推測するようになったことである。
《松林図屏風》を模写した結果、次のような感想を得た:
模写して分かるのは、筆さばきの思い切りの良さ、スピード感、枝の位置にお構いなく葉の位置を決めていることで、それは素描の感覚に似ており、「下絵」説に賛同する。
(5)国宝障壁画展示《楓図》《桜図》(智積院・宝物館):茫々60年、あれは夢・幻だったのか?国宝の前のお昼寝
智積院にて長谷川等伯《楓図》、長谷川久蔵《桜図》、その他の国宝障壁画を見た。以下それぞれの感想を示す。
長谷川久蔵《桜図》
コメント:桜の花がすべて正面向きなのは、装飾性を際立たせるとともに、400年を経た現代の日本画家、加山又造氏の桜の絵や、同じく桜の絵で人気の中島千波氏の絵にまで桜の花の正面描きのスタイルが受け継がれているのは驚くべきことである。
長谷川等伯《楓図》
コメント:《桜図》、《楓図》ともに大書院の襖に対として設置していることから、それぞれ構図、描き方の特徴が共によく似ている。
主幹を中心に大きく描くのは狩野永徳の《檜図》と同じ構図だが、今回《檜図》に比べて画面下の草花がこの二人の絵に目立つ特徴ではないかと感じた。
長谷川等伯《松に秋草図》
コメント1:長谷川等伯が、狩野永徳の様式に対抗して試みたのではないかという上述の私の感想は、下記の論文で議論されていた。
黒田泰三「長谷川等伯の草花表現」出光美術館研究紀要 第十七号(2012)
著者は、長谷川等伯は、永徳の金碧画の様式を採り入れつつも、狩野派にはない自然景の中の草花をそのまま再現する表現を作ったという。
コメント2:注目したのは松の葉の描写である。松の葉の描写は写実的ではなく完全に様式化、図案化された造形であり、「やまと絵」の描き方と云える。一方秋草の描写は、水墨画の描き方、すなわち写実的な描法に従っており。その結果、《松に秋草図》の中に極端にデザイン化された松の葉の造形とリアルな描写の草花が存在する。
以下、西欧人、中国人の目になって《松林図》、《桜図》、《楓図》、《松に秋草図》を見てみた
もし日本美術を知らない西欧人、中国人(明代)が《松林図屏風》、金碧障壁画を見たならばどのように目に映るのだろうか?
といったところが西欧人の主な感想ではないだろうか?
それでは、明代の中国人の感想も下に示す。
と中国の絵画から受ける厳しさ、隅々まできっちりと構成、描写されている感じ、無駄な余白はなく絵全体が計算されている感じ、抒情的な要素が無いなど精神性、宗教的意味を絵画に求める点、西欧人と共通の絵画に対する見方を中国人は持ち合わせている。特に、自然と人間との関係は、日本人と、中国人、西洋人とは基本的に異なっており、それが絵画にも反映されている。
芸術作品から装飾調度品まで様々な様式を一人の画家が描き分けた例は西欧(おそらく中国でも)ではあまりないと思う(やまと絵と水墨画の落差を見てほしい。これほどまでの大きな違いの絵を、最高の水準レベルで一人の作家が描いた例は西欧や中国でかつてあっただろうか?)
以上、日本の代表的絵画に対する西欧人、中国人の一方的な見方に対して反論すれば、そのまま日本美術の特徴に繋がるはずと考える
(6)「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」(千葉市美術館):なぜ国内に優品がないのか(泣)、驚きのその色彩と気品
驚いたことにボストン美術館は500枚近い鳥文斎栄之の作品を所蔵していることが判明した。しかも別々の画題の絵が大半を占める。
一方、大英博物館は100枚近くの作品を有し、ボストン美術館よりは劣るが、事情は同じである。
同じく鈴木春信の「闇夜」の作品の国内所蔵品はほとんど無いうえに、数少ない国内の作品の色は、一度欧米の所蔵品を見てしまうと、もはや見るに堪えない。
春信の闇夜表現とは真逆に、日本絵画の夜の描写は伝統的に黒ではなく紙の「白」で表すのが常ではなかった。すなわち、余白部分、紙の白が夜であり、空を黒く塗ることはなかった。あるとすれば、水墨画において月の周りの空をせいぜい外隈で描く程度であった。それは平安の絵巻物以来連綿と続いてきた。
しかし江戸時代中期になって事情が変わった。水墨画で夜の空を全面的に塗りつぶすのは鈴木春信とほぼ同時代の与謝蕪村の《夜食楼台図》、《紙本墨画淡彩鳶鴉図》が思い浮かぶ。 しかし、いずれも漆黒ではなく、淡く塗られており、外隈の延長である(おそらく降る雪、雪山を際立たせるため)。
一方、鈴木春信は、大胆にも、夜空を本当に漆黒で塗りつぶした。現時点での私の推測では、鈴木春信こそ、日本絵画史上初めて夜空を漆黒に塗った画家ではないかと思う。
もしそうならば、鈴木春信は、「錦絵」の創始者だけでなく、漆黒の夜空の創始者で、とんでもない革新的な表現者であり、日本美術史上外せない業績だと考える。(春信以降、夜空を全面塗りつぶした版画が一般的になるが漆黒ではなく、空の上を一部黒くするか、全面暗く深い青色など青系の色にするなど)
(7)「木村伊兵衛 写真に生きる」(東京都写真美術館):白黒スナップショットから街歩きスケッチを考える
野良着の襟周りの部分黒ベタは浮世絵美人画そのものだ
鈴木春信の浮世絵版画の褪色問題に関連して、この《秋田おばこ》の写真がなぜ魅力的に感じるのかを考えてみた。
この写真が私たちにとって魅力的に見えるのは、モデル自身の美しさによるところが大きいが、着物の白黒模様と首周りの黒ベタ帯による、日本の浮世絵版画の伝統的な美人画の構成によるものと考えたい。
事実、「浮世絵検索」のデータベースの最初の300件を見るだけで、首周りの黒ベタ帯が描かれた美人画の大首絵が6件ほどすぐに見つかる。
《秋田おばこ》において浮世絵版画の着物の黒ベタに完全にならっている。
モノクロ写真は白との漆黒の面による抽象画ではないか
次に《秋田おばこ》の右側の《渡し場》を見てみる。これは写実描写といえるだろうか? 結論を云えば、人間の眼で見た姿を写実的というのならば、写真は決してそのようには写せていない。すなわち人間の眼と異なり、白と黒の面による強い抽象化が起こっているために白と黒のコントラストが美しいと感じると考えたい。これは鈴木春信、喜多川歌麿らの黒ベタ浮世絵版画、特に部分黒ベタ版画の美とオーバーラップする。
(8)<武士(サムライ)と絵画>展(千葉市美術館)渡邉崋山の肖像画の下絵に驚愕、華山と私
風景スケッチ《四州真景「釜原」》のとんでもない近代性
この絵のどこに近代性を感じるのか? 一番大きい点は、作者が描く視点である。江戸中期以降、特に葛飾北斎や歌川広重も透視図法を用いて数多くの風景(広々とした大地も含む)を描いているが、俯瞰、鳥瞰構図がほとんどで、平安時代の絵巻物から続く日本美術の伝統である。《四州真景「釜原」》の菅笠をかぶった人物では、菅笠の位置と地平線がほぼ一致している。すなわち描かれた地平線は渡邊崋山の眼の高さと一致することになり、渡邉崋山は西洋人画家と同じように、地面に立った視点から眺めて、地平線に消失点がある透視図法に沿って描いている(一点透視図法)ことを示す。
この絵では広々とした牧場が主題で、「広々とした平原、畑」の絵と云えばゴッホの畑の絵(例:素描《ラ・クロー》)を思い出す。ゴッホは、日本の絵のように俯瞰、鳥瞰図の場合、地平線が上部に来ることを意識している。
ところが、ピサロやバルビゾン派の画家達は主題は広々とした平原(畑)だが、地平線は、半分以下、大半は下部に設定している。彼らは俯瞰構図ではないことも理由だが、主役は平原(畑)だけでなく、空(雲)も併せた風景だからだろう。そのため空に浮かぶ雲の造形も神経を使って描写している。
渡邉崋山の《四州真景「釜原」》の地平線はどうか? あきらかにピサロやバルビゾン派の油彩の水平線の位置と同じである。だから屋外で風景画を描き始めた西洋の画家達の構図と同じ方向を目指していると言える。
(9)「村上隆もののけ京都」展(2):村上作品は日本絵画の単なる延長・模倣にすぎないのか?
どのような観点で作品を眺めたか?
これまでの記事の中で私が注目した日本美術ならではの描写表現(幕末の西洋絵画の技法を取り入れた絵画、版画を除く)は以下の通り。
■村上隆《金色の空の夏のお花畑》:私の問題意識、テーマ1)、2)、4)、5)
尾形光琳《立葵図屏風》と比べて、何が違うのかを以下にまとめる。
《金色の空の夏のお花畑》の空に浮かぶ花と雲の表現は日本美術の伝統描写に対するチャレンジである
《金色の空の夏のお花畑》では、1)金色の空に正面、横向きの花を飛ばす、2)明らかに積乱雲とわかる白抜きの雲を描くという日本絵画の伝統にはない二つのチャレンジを行っている。
すなわち、従来の日本絵画では、空に浮かぶのは太陽、月、鳥(特に高い空には雁など渡り鳥)に限られ、大半の空は紙の白または金箔でほとんど空白(余白)である。
一方《金色の空の夏のお花畑》では、空全体に花を配置し、その花を異なる向き、異なる大きさにすることで、あたかも三次元空間のように実空間を感じさせる。すなわち従来の日本の絵画の概念(余白としての空間)を破っている。
もう一つ、日本の絵画の伝統では、空に浮かぶ明確な輪郭線を持つ写実的な雲を描くことはなかった。もちろん快晴を示す青く彩色した空の例もない。
ただし幕末近く、それらは葛飾北斎および歌川広重により破られる。両者は霧やすやり霞の描写はするものの控えめで大地、都会の街を雲で覆い隠すことなく描いている。そしてついに葛飾北斎の傑作《富嶽三十六景》において、少し様式化しているものの明確な輪郭を持つ雲を描き、歌川広重も自然な形の雲を描くに至った。
明確な輪郭を持つ雲を描いたのは、北斎が初めてではないか? しかも青空に雲を描いたのは東洋の歴史上初めてであり、いわば北斎は数千年の東洋の伝統を破った革新者といえる。(ただ歌川国芳が青空と雲を描いた版画を出している)
なお雲の事例に《神奈川沖浪裏》があり、大方の人の眼は”Great Wave"に行くが、実は富士の真上に積乱雲状の白い雲が大きく広がっていることに言及している人はほとんどいない。メトロポリタン所蔵版ではクリアに判別出来るが、他はすり減った版木を使っているため気が付きにくいと思われる。北斎の作画の意図を考える上で雲の存在は見逃してはいけない事実である。
一方、広重も後年に北斎に倣って輪郭が明確な白い雲と、青空を描いている。北斎の雲が様式化され、西洋絵画の抽象表現に近づいているのに対し、広重の雲の形は自然で写実的である。
《東海道五十三次 品川》の雲では、高い空の雲は大きく、地平線に行くにしたがって、雲のサイズが徐々に小さくなり、雲の間の間隔がだんだん狭まっていく。明らかに西欧の透視図法を使って、空という空間の立体性(三次元性)を雲の配置で表現しているのを示す。
この絵は、地上、海上、空と絵全体が透視図法で描かれており、西洋絵画そのものといってもよい。唯一西洋絵画と異なるのは、地上から数十メートルの高さの視点、すなわち俯瞰構図でこの絵を描いていることである。広大な地上の風景を描くには俯瞰構図の方がむいているからである。
今回広重の雲の描写を調べたが、以前樹木の遠近描写法を調べた時と北斎と広重の描写の違いについて同じ結果が得られた。青空と雲の場合も北斎がデフォルメ、様式化しているのに対し、広重は写実的に描いている。
明治以降の青空と雲の描写について
日本の絵画は、明治維新を経て激変した。洋画と日本画に分かれてしまった。さらに浮世絵版画の役割は明治の初めにすたれ、大正、昭和になって再興された新版画は、制作システムこそ浮世絵版画と同じだが、絵画の描写は西洋絵画の技法である。その中で、川瀬巴水、吉田博は、青い空に白い雲の名作を多く残している。中でも前者の夏空に積乱雲、後者の山岳風景の雲に惹かれる。
透視図法、明暗法を駆使しておりあきらかに西洋絵画寄りで日本絵画の伝統とは隔絶している。
歴史を逆戻りさせた日本画
それでは、明治以降日本画は青空と雲をどう描いたのか?
《金色の空の夏のお花畑》に描かれた白い雲を見た途端に福田平八郎の《雲》(1950)を思い出した。
福田平八郎は日本画家であるが、彼がこのように写生に基づくけれども対象を単純化、装飾化させたスタイルの一連の日本画の代表作《漣》、《雨》、《筍》を発表した時、特に最初の《漣》を発表時(1932年)、日本画壇から「何だこれは、絵と云えるのか!?」という声が巻き起こったとのことである。
なので上記真っ青な青空に白い雲という組み合わせは、1950年時点で日本画の関係者にとって事件ではなかったか?。
手持ちの明治初期から戦後の日本画家の画集をざっと見ると、戦前の日本画では青い空は勿論、沸き立つ白い雲もまったく描かれていない。ほとんど無いと言ってもよい。まさに北斎、広重によってようやくたどり着いた青空と雲の新たな日本画の表現の歴史を明治維新後の日本画は、100年以上逆戻りさせたと云える。
(10)「村上隆もののけ京都」展(3):村上作品を見て日本絵画の特徴を考える(続き)
ここでは商店の家の中の畳の色について説明する。
実は、私は絵巻物や日本の都会を描いた屏風絵や浮世絵版画を見る時はついつい家の中の畳の彩色に目が行く。発端は、小村雪岱の作品「青柳」、「落葉」の畳の青緑色が、鈴木春信の浮世絵版画と同じく目に優しい落ち着いた色調に魅せられたこと、それ以前にも歌川広重の「名所江戸百景」、《浅草田甫酉の町詣》に惹かれたことである。
畳は時間が経てば、色褪せて薄緑色、薄茶色に変色していくはずで、画家は絵の真ん中に緑色を配することで、あえて現実を描かず、緑色の視覚効果を狙っていると推測している。
(11)「村上隆もののけ京都」展(4):村上作品を見て日本絵画の特徴を考える(続き)「四神と六角螺旋堂」の部屋とその作品
私は日本絵画の歴史を意識する村上氏の新作は、明るい場で展示してもらいたかった。なぜなら日本の絵画は、夜でも暗闇は描かなかったから。例えば「夜」の字が題名にある日本の絵巻を次に示す。
1)《百鬼夜行絵巻》
2)平治物語絵巻《三条殿夜討の巻》
また題名に「夜」はない例に次がある。
3)《鳥獣人物戯画・甲巻》
キツネが自分の尾を松明代わりに燃やしているこの場面は夜の光景だとされている。
以上《青龍》《朱雀》の二つの絵の背景のまとめから、私は村上氏が語る「日本絵画の歴史の文脈を採り入れる」ことに大いに頷けるのです。その理由は以下の通り。
(12)「田中一村展」その2:「青い空」と「白い雲」、そして奄美の空と雲を描き切って逝った
田中一村の絵のもう一つの特徴、「青い空」「白い雲」の描写に焦点をあてることにした。年代順に「雲」を描いた作品を以下に示す。
1931(昭和6年)~:信州滞在時代
アルプス連峰にかかる雲海に注目して描かれた。両作品ともに、雲の形状描写が眼でみたまま、極めて写実的に描写しているのはかなり珍しい
1938(昭和13年)~:千葉(千葉寺)時代
注目したいのは《山の田》と《田植え》を除いて地平線が全て低く取られていることである。すなわち、一村の眼は大きく空に注がれている。
《夕日》、《水辺夕景》では、地上の事物はシルエットとして描かれており、夕日でオレンジに染まる白雲や、その手前に横にたなびく黒雲の描写が主役のように見える。また真上の雲は大きく広がり、地平線に行くほど小さく、しかも横雲の間隔を狭めて線遠近法による奥行きを描写している。
《山の田》、《田植え》では、田と背後の山が主題だが、山の端の上の空も、薄紅に染まった空に黒雲が覆う光景で空と雲の描写に力を入れている。
さらに特筆したいのが、青空である。
日本絵画は江戸期を除き伝統的に青空を描かなかった。しかし明治以後、洋画と日本画に分かれ、日本画は戦前までほとんど青空を描かなかった。
しかし田中一村は戦前の1941年から終戦年まで千葉の風景で青空を描写し続けている。
例えば《千葉寺はさ場》《牛車と農民》ではうっすらと青空が見え、《夕陽》、《千葉寺 春》では、暮れる前の青空を薄めに描き、そして《千葉寺 杉並木》、《千葉寺 雪》では日中の青空を堂々と描いている。特に《千葉寺 雪》は、積雪後の雲一つない晴れ渡った青空が主題といってもよい。
上に示した一村の風景画は写実に徹した西欧絵画だと考えても不思議ではない。
1947(昭和22年)~:田中一村誕生以後
田中一村は、戦後公募展に応募しはじめる。《入日の浮島》、《黄昏》共に写実的な空と雲の絵の延長にある本画である。特に《黄昏》は、青龍展で落選した《秋晴》と同じ趣向の作品で、農家とその周囲の樹木をシルエットに暮れ行く青空と黒い雲をまるで油彩画のように描いている。
1955(昭和30年)~:石川県やわらぎの郷滞在、九州、四国、紀州への旅
九州・四国・紀州で描いた風景画は、これまで以上に空と雲の描写にこだわっており、千葉時代の絵に比べて明るく感じる。一村が関東とは違う南国の植物や空気を描こうとしたからであろう。
特に植物を地面から空に向かって描く構図の《ずしの花》の明るさは圧巻である。鑑賞者が地面に這う昆虫になり、一本の花を見上げると、明るい青い空が上空に広がり、白い雲が眼に飛び込んでくる。
《仁戸名蒼天》は1m四方に及ぶ作品で、真っ青な、まさに雲一つない”蒼天”が眼に飛び込む。手作りの木の額に入っているために日本画とは思えない。
1958年(昭和33年)~:奄美大島移住以後
一村は最初に奄美に来た時に、トカラ列島の宝島にも訪れ、上の絵を残している。大きく空をとり、白い雲を描いているが、さらに印象が明るくなっている。旅による気持ちの高揚もあるが、野生馬が草をはむ広い緑の草原もそうさせていると思う。
なぜなら、千葉市美術館の田中一村展で見た九州阿蘇の草千里で描いた《放牧》という作品の青空と草千里の緑が強く印象に残っているから。
縦長の本画《アダンと小舟》ではアダンの葉と実の背後の青空に、巨大な白い入道雲が描かれていることに注意。日本画というより南国を描いたイラストか、南国の旅に誘うポスターと見まごうほどで、以後青空と白い雲を描いた大型作品は制作していない。
日本美術における「青い空」と「白い雲」:なぜ北斎・国芳・広重の革新描写は明治の「日本画」で途絶えたのか? 大正、昭和の流れを概観する。
村上隆氏が描く白い入道雲を見たことがきっかけで思いついた2点の推論、仮説(①北斎が青空・白い雲を日本絵画として最初に描いた②明治維新後命名された、日本画では青空・白い雲をほとんど描かなくなった)について、記事を書いた8月から現在まで継続して調査した。
①について結論を言えば、北斎より一世代前、司馬江漢や秋田蘭画の画家達、亜欧堂田善が北斎よりも先んじて描いた。西洋の絵画に影響された彼らが描くのは(透視図法も併せて)当然である。北斎は、彼らの絵を何らかの機会に見たり、研究した可能性が十分ある。②については、専門家の論文や解説をまだ見出していない。
ところが松涛美術館の展覧会、題して「空の発見」が予告された。専門家(学芸員)が記述したPDFによれば、仮説①は、専門家の意見も同じで裏付けがとれた(下記)。一方仮説②についてはPDFは何も答えていない。
https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2024/03/Press-Release_Discovering-the-Sky.pdf
その後「アサヒグラフ別冊」の日本画家シリーズを片っ端から眺めた結果、次の傾向を掴んだ。
調べた画家は以下の通り(順不同):堅山南風、小林古径、南嶋薄暮、山口蓬春、東山魁夷、平福百穂、山本春挙、川端龍子、松林桂月、堂本印象、山本丘人、橋本関雪、土田麦僊、横山大観、竹内栖鳳、速水御舟
以上分かることは、戦前青い空と白い雲を描いているのは速水御舟、山本丘人のような、伝統を破り新しいことを生み出そうとする画家である。
同期の東山魁夷を代表とし、戦後の日本画の青空と雲の描写の歴史の文脈を探る
田中一村が、千葉で真っ青な青空を描いていた2年後、1947年に東山魁夷も始めて青空を描いた。それが《残照》で、東山魁夷はこれによりブレイクした。青空というよりも、薄青の空だが、画面の三分の一を占めるほどの大面積で、相当な覚悟で冒険したと思う。その3年後、有名な《道》を描く。
以上は日本国内の空だが、以降国内の青空の絵は姿を消す。ところが、1960年代になって、突如青い空と白い雲が現れる(下記)。
これは一体どうしたのか? 海外の風景画だから気を許したのかもしれまないが、洋画(油彩)や新版画では、日本国内だろうと海外だろうと、戦前から青い空と白い雲は当たり前のように描いてるので理由にはなりにくい。
推測だが、日本画の中央画壇第一人者の東山魁夷でも、この1960年代においてすら青空と白い雲を描くことがはばかられたのではないか。
私が知る限り東山魁夷は、国内では青空と雲を描くことなく、晩年は古来の水墨画に回帰していった。
(13)山口晃氏の田中一村鑑賞術(NHK・日曜美術館)紹介と公募展落選の理由を考えてみた
田中一村の日本画の革新性は、金地の"青空"と写実描写のモテイーフとの組み合わせにあった!
その構図と構成は、地平線をかなり下に取り、全画面のほとんどが「空」である。一体どこが、田中一村が目指した新しい日本画なのか?
実は、この《秋晴》と同時期にまるで姉妹作のように制作された《黄昏》という作品がある。(図7)
《黄昏》ではなく《秋晴》の方を掲載したかった。屏風に金地(金箔)は伝統的な素材で全面金地なので、あたかも夕陽に染まった空を表しているだけで、特に革新性は無い絵であると見て、取りあげなかった。
しかし「タイトル」は《秋晴》で金地(金箔)は、夕日に染まった空ではなく雲一つない青空だった!
さて、江戸以前の日本絵画では、「青空」と「白い雲」を描くことが無かったのに、司馬江漢、亜欧堂田善、小田野直武ら秋田蘭画の画家達が洋風風景画の中で「青空」と「白い雲」を描き始め、葛飾北斎、歌川国芳、歌川広重に至って「浮世絵版画」として、大量に流布することで、「青空」と「白い雲」の風景画が、日本絵画として定着したと思われることを述べた。
明治維新後、日本の絵画が「洋画」と「日本画」に分かれた途端、なぜか「日本画」では歴史の逆回りが起こり、「青空」と「白い雲」が描かれなくなった。大正時代前後から新しい日本画を目指す少数の画家達により僅かに青空が描かれるようになった。
「青い空」と「白い雲」が日本画の中で市民権を得たのは戦後になってからではないかと述べ、その例として田中一村が戦前から終戦直後にかけて「青空」と「白い雲」を描いていること、そして後に東山魁夷が《残照》、《道》で「青空」を描いたことを紹介した。
また1950年に福田平八郎が、究極に単純化した「青空」と「白い雲」を描いた《雲》を世に問うていることも示した。
ところが、田中一村の《秋晴》は、金地が「青空」を表すことは村上隆氏の《金色の空の夏のお花畑》と同じだが、モティーフすべてが写実的に描写されていることが大きく違う。
この《秋晴》を目の前にした青龍展の審査員達は大いに戸惑ったと思う。なぜなら、日本絵画で金地に描かれるのは、桃山時代の金碧障屏画におけるモティーフか、琳派の絵の装飾化されたモティーフなのに、《秋晴》では、金地にまるで西洋画のような写実でモティーフが描かれているから。《秋晴》の金地は、全く日本絵画の伝統のらち外にあり、これが青空だと言われても、審査員がとまどうのは当然。
以上から、私はようやく田中一村が、何故あれほど怒ったのか謎が解けた。田中一村が試みたのは、写実の地上風景に対して試みたのだ。それが、どれほど突飛なことか、モネやピサロの風景画の青空を、全て金地に置き換えた時を想像してみればよい。かなりの違和感を感じると思う。
さらに一村が描いたの金地に農村風景、金地(金箔)と農村風景との組み合わせ自体が日本絵画の伝統では異端ではないか。確かに田中一村は、本気で日本画の革新を目指していたといってよい。
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どのような観点で西洋風景画を見たのか
今回は、以下の観点で鑑賞した。
線遠近法を用いる西欧絵画では、近景の建物を大きく入れようとすると、遠方が小さく、しかも地(水?)平線を下げざるを得ず。必然的に空の面積が大きくなり、単調を避けるために、いかに空を魅力的に描くかが勝負にななる。
日本の画家達(浮世絵版画)は青空に白い雲を避け、朝焼け、夕焼け、雨あられ、雪などの天候とすやり霞を多用しますが、西欧絵画の場合は、すでにこの時代から、青空と白い雲に真っ向から勝負している。
なお、同時代、海の向こうの司馬江漢、小田野直武らが、遠近法と青い空と白い雲の風景画に一生懸命取り組んでいる。
(おしまい)
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