【日本人は何を食べていた?】日本に家畜はいなかったって、ホント? ①
【縄文時代】 狩猟採集。すでに主食と副菜があった?
本日のお題は、私たち日本人は何を食べてきたのか?
「普段の食事は、昔ながらの和食ごはんです!」と得意げに宣言していますが、昔ながらの和食って? そもそも日本人て何を食べて生きてきたの?そんな疑問をもったことがきっかけです。
というわけで、日本の食文化の歴史を紐解いていきましょう。
そのルーツは、今から数万年前の旧石器時代。日本列島に人類が暮らすようになった時期まで遡ります。この頃はいわゆる狩猟採集がメイン。氷河期のため、寒さで植物性食材に乏しく、獣肉や魚介など動物性食料が中心だったと想像されます。
斧をもった原始人がマンモスを追いかけたり巨大な骨付き肉にかぶりつく、あのイメージでしょうか(笑)。
続く縄文時代も狩猟採集が中心でしたが、氷河期が終わって暖かくなった結果、食べ物が一気に豊富になります。
貝塚遺跡や住居跡から出てきたのは、クリやどんぐり、クルミやトチの実などの堅果類のほか、根菜やヤマモモなどの果実も見つかっています。
その他にも、シカやイノシシ、ノウサギなどの動物肉、マグロやカツオ、シジミなどの魚介類を食べていたといいます。
この時代、すでに主食と副食という考えが根付いていて、植物性の食料が主食、動物性のお肉などは副菜だったようです。
【弥生時代】 水田稲作文化の伝来。主食はお米!
そんな生活に変化が起きたのは、弥生時代のこと。かの有名な邪馬台国の女王・卑弥呼の頃ですね。大陸から稲作が伝わり、お米が主食に踊り出ます。他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀も栽培されていたようです。
ここで注目したいのは、水田稲作文化というのは、お米だけではなく、水田に住む淡水魚と簡単に飼育できるブタもセットでついてくること。日本をはじめ東南アジアでは、ほぼこのパッケージで稲作が広まりました。これにより、海のない内陸部でも魚が食べられるようになります。
お米を主食に、副食はタイやスズキなどの海魚、アユやフナなどの淡水魚。ほかに狩猟によるシカや飼育したブタの肉、野菜などが基本の食事でした。
その証拠に、中国の歴史書「魏志」倭人伝には、弥生時代の日本についてこのような記述があるそうですよ。
「倭の地(日本)は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる ※」、「牛や馬、羊はいなかった」、「魚や蛤をよく食べる」、「人々は生来酒が好きである」。どうやらこの時代の人々はお酒が好きだったようですね。なんだか親近感がもてます(笑)。(※生菜=野菜という説と、生の主菜のことでお刺し身であるという説もある)
ここに興味深いデータがあります。現代の日本人のDNAを調べたところ、縄文人の遺伝子は10%程度。つまり、私たちのほとんどは弥生時代以降にやってきた稲作農耕民の子孫だそう。
【古墳〜奈良時代】 肉食禁止令により”米と魚中心”の食文化へ
古墳時代になると、中国や朝鮮半島からの渡来人が激増。鉄製の鎌や農具が伝わり、水田稲作が本格化します。同じ頃、牛や馬も日本に伝わりました。ただし、今のような食用メインではなく、あくまで労働力として利用されていたようですね。
特に牛は希少で、田畑の耕作や荷物の運搬のほか、牛のフンを肥料にしたり、また、神事のときの生贄として利用されていたとか。
古墳時代も末期になると肉食への禁忌が強まり、675年、肉食禁止令が出されます。ときは律令政治まっただなかの飛鳥時代。仏教によって国家を支配しようと、仏教の教えである殺生禁止令が出されたようです。
また、肉食禁止令は稲作文化とも深い関係があったそうですよ。イネの栽培は天候に左右される難しいもの。そのため、殺生をする、つまり肉を食べると神の怒りをかって長雨が続く、イネが育たない、そんな都市伝説が広まったようです。
対してお米は、日本神話・天照大神からもたらされた神聖な食べ物。そのため、イネの成長をさまたげる肉食は”穢れ”である、という考えが定着していきます。
その結果、他の東南アジア諸国とは異なり、肉が抜け落ちて、”米と魚中心”という日本独自の食文化が形成されたんですね。
では、具体的にどのようなものを食べていたのでしょうか? 奈良時代の皇族・長屋王の屋敷跡から出土した木簡をみてみましょう。この木簡には、地方から税として納められた品々が記されています。
◎海産物…サケ、カツオ、タコ、アワビ、エビ、海藻など
◎野菜&山菜類…大根、ナス、ウリ、タケノコ、セリ、フキなど
◎蘇…牛乳を煮詰めたチーズのようなもの
◎獣肉…シカ、イノシシなど
どうやら、表向きは肉食禁止令がだされていましたが、獣肉は食べられていたようです。この時代に禁止とされていたのは、牛、馬、ニワトリ、サル、イヌ(!)の5種。禁止対象になっているということは、食べる文化があったということ。日本でも韓国や中国と同じように、犬肉を食べる文化があったんですね…。
ちなみにこの時代の調理法はとてもシンプル。基本的に味付けはされておらず、食べる人が手元の調味料、塩や酢、酒、醤(※醤油の原型となる発酵調味料。魚や穀物を発酵させたもの)などを使い、自分好みに味付けして食べていたそうですよ。お刺し身や餃子のように、タレにつけるイメージでしょうか。
そういえば、お箸が普及したのも奈良時代だとか。それまではなんと、手食だったというから驚きです。前述の「魏志」倭人伝にも、「飲食には高坏を用い、手づかみで食べる」という記述がありました。なかなかワイルドですね(笑)。
【平安時代】 小麦粉を揚げた唐菓子など中国の影響大
平安時代になると、中国色が強くなります。お米をメインに、魚介や野菜のおかずが並ぶのは変わりませんが、これに、小麦粉を油で揚げた”唐菓子”という彼の国のお菓子が登場。宮廷での儀式料理も、漆塗りの大盤に銀製の食器、それにお箸と匙が並べられるという、中国スタイルを真似たものだったそう。
とある祝宴の記録をみてみましょう。
生物・干物には、コイ、マス、タイ、アワビ、カニ、ウニなどの魚介類のほか、キジなどの鳥類が勢ぞろい。ご飯の横には調味料、塩、酢、酒、醤が並び、さらに果物、唐菓子と続く豪勢な大饗料理(おもてなし料理)です。ここでもまだ、各自が自由に味付けするスタイルは健在です。
【鎌倉時代】 精進料理の登場で、調理技術がアップ!
鎌倉時代になると、日本の料理を根幹から変える出来事が起こります。禅僧により中国からもたらされた精進料理です。法事などで出されるアレですね。修行の一環でもあるため、肉食どころか動物性食材はいっさいNG。少しでも肉や魚に似せようと、大豆や小麦粉を駆使した高度な調理技術が必要とされます。
この精進料理によって、日本の調理技術は大きな変換点を迎えました。各自で味付けをするスタイルから、あらかじめ料理自体に味付けをする、今と同じような調理方法が生まれたのです。
【室町〜戦国時代】 出汁や発酵調味料により、和食の原型が完成
そんな和食の完成をみるのは、室町時代のこと。主役が貴族から武士へとかわり、新たに本膳料理という和食の原型が出来上がります。
どんなものかというと、ご飯と汁物を中心に、従来の生物、干物に加えて、煮る焼くなどの調理をほどこしたおもてなし料理。精進料理の高い調理技術と、昆布やカツオ節、しょうゆや味噌といった調味料の登場によるものです。ここに、今日と同じような和食が完成しました。
戦国時代になると、そんな本膳料理がさらに進化を遂げます。茶の湯のおもてなし精神から生まれた、懐石料理の登場です。
そもそも本膳料理とは、戦国大名たちによる見た目の豪華さを競う面もありました。そのため、何日も前から作り置きしたものが大半で、冷めた料理も多かったのです。
形式主義の本膳料理から脱却し、”映え””よりも”美味しさ”にこだわったのが懐石料理といえます。旬の食材にこだわり、出来立ての温かいものを提供する、和食の最高峰ともいうべき料理を目指したのです。
この時代に欠かせないのがもうひとつ、異国情緒あふれる南蛮料理です。ときは大航海時代。ポルトガルやスペインによって、新しい食材や調理法がもたらされました。それらをひっくるめて南蛮料理というそうです。
カボチャやトウモロコシが伝わったのもこの頃。料理でいうなら、天ぷらのようなものや、カステラ、金平糖なんかもそうですね。和食以外のジャンルが増え、なんだかグルメな雰囲気です。
【江戸時代】 食文化の集大成。物流が整い、外食が盛んに
日本の食文化が大きく花開くのは、江戸時代です。260年に続く太平の世は、町人主導の新しい食文化を生み出しました。その前提となるのが、市場経済システムの成立です。
生産技術の向上により、米や麦などの穀物や野菜類、魚介類などの生産量が大幅にアップ。また加工技術もすすみ、酒、しょうゆ、みりん、酢などの調味料も商品化されるように。
そして、これらの品物が物流ネットワークによって、商業の中心である大阪や大消費地・江戸へと運ばれるようになりました。
野菜類をみても、いまスーパーに並ぶ野菜のほとんどは、江戸時代に出揃っています。一例をあげてみると、じゃがいも、ピーマン、玉ねぎ、人参、パセリ、さつまいも、ほうれん草、キャベツ、アスバラガス、トマトなどなど…。その多くは、中国や新大陸・アメリカから、またオランダ人によってもたらされたそうですよ。
食料が豊富になり人の往来も増えた大都市では、外食文化が急速に発展します。それまでもお茶屋さんくらいはあったようですが、この時代の食べ物屋はそんなレベルではありません。高級料理屋から屋台のファーストフードまで、実にバリエーションに富んだラインナップです。
江戸時代の浮世絵をみると、名所にずらりと並ぶ屋台が描かれています。そこにあるのは、汁粉屋、だんご屋、二八そば屋、天ぷら屋、焼きイカ屋、すし屋、冷水売り、水菓子売り(果物)などなど、現代と変わらない顔ぶれですね。
おまけに江戸には、今でいうミシュランや食べログのような料理屋番付まであったとか。今も続く江戸料理の名店、「八百善」も紹介されていたそうですよ。もはや江戸は、一大グルメ都市といった様相です。
日本ではじめて料理本が登場するのも江戸時代のこと。最初の頃はおもてなし料理が多く、プロの料理人向けだったそう。幕末になってやっと主婦を対象にしたお惣菜中心の料理本が普及します。
材料をのぞいでみると、豆腐や大根、サンマといった庶民に人気の食材のほか、トリ、江戸時代は野鳥がメインだったようで、カモやガン、シギといった見慣れない名前も。
面白いのが、この時代の味付けです。なんと、調味料にみりんやお砂糖といった甘味成分はなし。酒と醤油、味噌で味付けしたものがほとんどだとか。しょっぱくてご飯がすすみそうなおかずです。
それもそのはず。この時代の日常食はというと、白米や大麦、雑穀などの穀物が主食で、なんとひとり1日4合ものご飯を食べていたとか! 4合ってすごい量です。
あながち、「まんが日本昔ばなし」に出てくる山盛りご飯もウソではないのかも…。味付けの濃いおかずで、大量のごはんをかきこむスタイルだったんですね。
ちなみに、みりんが料理に使われるのは江戸時代後期、砂糖の登場は明治時代までお預け。ただ、お砂糖自体はあったようで、お菓子には使われていたそう。
さて、実際にどんな献立だったかというと、
◯ご飯(白米や玄米に近いもの、大麦、雑穀など)
◯汁(味噌汁。人気は納豆汁だとか)
◯菜(惣菜番付の人気No.1は、八杯豆腐※酒と醤油の出汁に葛でとろみをつけ、豆腐をいれたもの)
◯漬物(たくあん、梅干し)
といったもの。庶民はもっぱら雑穀や麦を混ぜたご飯を、野菜や大豆食品、それに少しの魚介のおかずでかきこむ、大飯ぐらいだったんですね。
一方、行事やおもてなしの食事はというと、基本の構成は同じですが、品数が増えたり、食材がぐっと豪華になります。
例えば、伊達巻すしやかまぼこ、タイやヒラメのお刺し身、また、エビやタイの焼き物などが登場。まるで竜宮城にでもきたかのような豪華さです(笑)。
海の幸に乏しい山間部ですらも、婚礼などの特別な日には魚介類が並んだといいます。今とは違って普段とハレの日の差が大きく、暮らしの中にメリハリがあったのがうかがえます。
さて、江戸時代までざっとみてきましたが、続きは②にてご覧ください。
ここまで呼んでいただき、ありがとうございました。