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長い旅の途上 星野道夫


ふと、カリール・ギブランの詩を思い出す。

 あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。彼等はあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼等に愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねてみることもできないあしたの家に住んでいるからだ・・・・・・。

(中略)

やっと歩き始めた息子は、まるでこの時期に課せられた仕事であるかのように、転び、落ち、毎日のように頭や身体をぶつけている。何度かヒヤッとさせられたこともあったが、まあ何とか生きのびている。子どもの持つ生命力に驚きながら、生と死が隣り合う、あっけないほどの脆さも感じている。その脆さを意識すればするほど、愛おしくなってしまうのだ。

が、ベッドから転げ落ち、大きなたんこぶをつくって泣き叫ぶ子どもを前にして、ふと考えたことがある。かわいそうだと思い、できたら自分がかわってあげたいと思いながら、どうやってもこの子の痛みを自分は感じることができないのだ。ぶつかったのは自分ではないのだから、あたりまえのことでもある。しかし、親は我が子の痛みを自分の痛みとして感じるという話があるではないか。いや、身体の痛みと心の痛みは違うということなのか。

それなのに、ぼくは泣き叫ぶ息子を見つめながら、”この子は一人で生きてゆくんだな”とぼんやり考えている。たとえ親であっても、子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。ただひとつできることは、いつまでも見守ってあげるということだけだ。その際限を知ったとき、なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。

星野道夫「長い旅の途上」はじめての冬 より



星野道夫さんのこの短編集は、ある旅行雑誌に掲載されていた抜粋に心ひかれて手に取りました。

上記「はじめての冬」は、長い旅の途上の一番最初に収録されている短いエッセイ。星野さんの0歳の息子さんについて書かれています。

この文章が心に残ったのは、私自身が親に対して思っていたことと少し共鳴する部分があったからです。特に母親には小さい頃から厳しく育てられ、思春期には過干渉だと思うことも少なくありませんでした。「私の人生なのだから放っておいて、もっと自分の人生を楽しめばいいのに」とよく思っていたし、直接母親に言ったこともあったと思います。

今、私も人の親になり、少し母の気持ちがわかる部分もあります。いろいろなことを先まわりして心配して、できるだけ子どもが痛い目、悲しい目に合わないようにしてやりたい、という気持ちは親なら誰しもあるはずです。

ただその一方で、星野道夫さんが言うように、子どもの人生と親の人生は別で、子ども自身で人生を歩んでいかねばなりません。

考えてみれば、子どもは私の約30年後の時代を生きていくのです。社会のあり方や価値観が、私の時代のそれと大きく変わっていて当然だということを頭の片隅にいつも置いておきたいです。時には受け入れるのが難しいかもしれないし、親が導くことが必要な場面もあるのだろうけど、「子どもの人生は子どもに任せる」ことは大前提のはず。それが子どもを信じる、ということでもあると思います。


本当は出産する前に、自分が子育ての「被体験者」として感じたことをふまえ、自分の子育てに取り入れたいことと、取り入れないよう気を付けたいことをリスト化しようと思ってました。結局、ずぼらさが優ってそんな準備はできなかったわけですが、最低限上に綴ったようなことは気を付けていきたいな、と星野道夫さんに気づかされました。


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