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怪談には、カタルシスを。

釈然としない。
読後、先ずそう思った。

8月も15日を過ぎたころ、なんだか急に夏らしいことをしたくなった。
いろいろ考えて、夏といえば「怪談」だろうと思い至り手に取ったのが、『怪談牡丹燈籠』(三遊亭円朝 作 岩波文庫)である。

からんころんと下駄の音を響かせて、幽霊となった美少女「お露」が毎夜恋人の元を訪ねてくるアレである。

私は幽霊を信じない。
それでも、人間の「念」というものはあると思っている。
恨み、悲しみ、妬み、怒り、はたまた身を焦がさんばかりの恋慕とか。
死してなお、この世にしがみつこうとする想い。
その激情を垣間見るのが好きなのだ。
幽霊の履歴書、とでも言おうか。
「私は生前これこれこんな人生を送ってまいりました。こんな経緯で殺されて、悔しくて悲しくて、幽霊になっているのです」といったような。

『怪談牡丹燈籠』に最も期待していたのも「お露」さんの来歴である。
何が彼女をこの世に縛りつづけているのか。恋人への未練だとしても、それがどれだけ深くて激しい物なのかをぜひ知りたい。できたら、ジャパニーズホラー特有の粘着質でしみったれたやつがいい。胸糞わるいやつ。

そういう薄汚い気持ちで読み始めたので、釈然としなかったのである。
「お露」さんは全く私の見込み違いであった。
純度100%の、ピュアな美少女でしかなかった。

さらに私をモヤモヤさせたのは、「怪談」と銘打ってあるにもかかわらず、「幽霊なんかよりも人間のほうがずっと怖い」というオチになっていたところだ。

『怪談牡丹燈籠』が創作されたのは、幕末から明治にかけてのころだという。当時「窮理」という現代の理科や科学を学ぶことが流行っていた。つまり、人々は幽霊だの妖怪だのといった「超常現象」に疑いの目を持ち始めていたのだ。そういう時代背景もあってか、幽霊「お露」は話の前半部でフェードアウトしてしまう。成仏するでもなく。

『怪談牡丹燈籠』をネタバレしない程度にまとめると「勧善懲悪の人情噺」といったところだろうか。もともと落語なので、調子が心地よく、ページを繰る手が止まらなかった。最後には大団円、ああ良かったね、なのだがどうにもこうにも「物足りなさ」は否めない。

「怪談」に求めているのは、コレジャナイ。

悪を懲罰するのは、幽霊であってほしいのだ。
幽霊になったからには、生半可なことで諦めてほしくない。どんな手を使ってでも無念を晴らしてほしい。やり遂げてほしい。
お露よ、君の恋心はそんなもんなのか。もっと狂え! 泣き叫べ!!
新三郎(恋人)に憑りついて呪い殺すぐらいやってみろ、幽霊だろ!?
ああ、君が不甲斐ないから読後感が消化不良なのよ?
私は君に同化するのを楽しみにしていたの! 胸を搔きむしるほどの恋に狂った女の情念、それを一緒に感じたかったのに! 一緒に狂いたかったのに! めちゃくちゃになってみたかったのに!! 

私は、カタルシスを求めていたのだ。
悲劇のヒロインに同化して、思いっきり泣く。
四谷怪談も、番町皿屋敷も、私にとってはカタルシスなのだ。
怪談の女たちは、みな毅然とした美しさを持っている。一本筋が通っている(怨念という名の)。なので、気持ちよくヒロインに浸ることができる。
カタルシスにはもってこいなのだ。

日常生活では絶対に不可能なことを体験させてくれるのが、読書のいいところだ。幽霊になるほどの強い「念」を持つなんて、なかなか出来るもんじゃない。そんな激情を抱えたまま、人は普通に生きられない。
だからこそ「怪談」を読みたくなるのだ。
非業の死を遂げた幽霊に、思いっきり感情移入して、泣いて叫んで最後はスッキリ。

怪談には、カタルシスが要る。どうしても、要る。
それは人生の味を整えてくれる「塩・胡椒」なのではないかと、私は思うのだが。






































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カタクリタマコ
最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。

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