そうか、教養ってのは武器なのか。
教養のある人間になりたい。
教養、という言葉が醸し出す雰囲気には、どことなく色気がある。
それも、おおっぴらにさらけ出すのではなく、こっそり気配に忍ばすみたいな。匂わせる、というやつだ。
その人をより魅力的に演出してくれる香水みたいなもの。
人間でいったら、「プラダを着た悪魔」のメリル・ストリープ。
カッコよさと、美しさと、鋭さと、絶対にぶれない自分軸を持った女性。
私にとって、教養という字面はいつでも毅然とした女性の姿をしている。
べつに男性だってかまわないのだけれども、自分のなりたい姿を反映しているので、私にはいつも女性なのだ。
ところが、最近、教養には別名があることを知った。
「リベラルアーツ」というのだという。
リベラルアーツ・・・。
初めてその言葉を耳にしたとき、私には筋骨隆々のマッチョメンがプロレスのリングに入っていく映像が見えた。
リングアナが叫ぶ。
「マスター・オブ・リベラルアーツ!!!」
○○アーツ、と言えば、私はマーシャルアーツしか知らない。
マーシャルアーツとは、武芸の英訳である。
空手、柔道、カンフー、少林寺拳法など、東洋の武術の総称だ。
ちなみに、なぜ私がこの言葉を知っているのかというと、こども時代に流行った格闘ゲームにこれの使い手という設定のキャラクターがいたのである。
まあ、それはそれでカッコいいけれども、なんだかなあ。
私の思い描く「教養」さまとは相容れない気がする。
メリル・ストリープがプロレスのリングインするところは、おもしろいかも知れないけれど、なんだかちょっと違う。
性格も真逆な気がする。
「教養」さまは、静だ。
分からないことがあれば、図書館で分厚い学術論文を読みあさり、知識で解決。
「リベラルアーツ」王は、動。
壁にぶつかったならば、壁が壊れて道が開くまで、あらゆる武術を試す。
うーむ。
まるでジキルとハイドではないか。
同一人物なのに、まるで違う。
もしかして、私の思い描いている「教養」が間違っているのかしらん?
そこで、今回読んでみたのが『教養としての教養』(角田陽一郎 著 クロスメディア・パブリッシング)である。
(版元ドットコムに書影がなかったので、残念だけど絵がない)
歴史、地理、社会、エンタメ、文化、人生。
この6つを「教養」として捉えなおすという。
ふむ、つまりは歴史、地理、社会のお勉強というわけですね?
ああ、そういうことだったら興味ないんで。
私、詰込み教育って苦手なんですの。
と、一瞬本を棚に戻そうかと思ったのだが。
ん? エンタメ? 文化?? 人生???
どういうこと??
読んでいる間、私は驚きっぱなしだった。
そして、納得した。
教養は、たしかに「リベラルアーツ」だと。
教養というのは、知識を詰め込むことではなかった。
むしろ疑問を持ち続けることだった。
歴史では、通説を疑う。
地理では、地形が人々の心身に何をもたらしたのかを考える。
社会とは、エンタメとは、文化とは、人生とは、そもそも何なのか。
まるで、子どもみたいだ。
「何で? どうして? それから?」
そんなふうに、自分のまわりにあるすべてを、改めて見直す。
先入観をぶち壊す。
そうやっていくうちに、「自分」だったり、「自分が置かれている状況」だったり、「今という時代」だったりが、なんだか違って見えてくる。
疑って、壊して、新しい視点を手に入れるためのプロセス。
それが、教養だった。
「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」。
教養は、まさに「釣り方」なのだ。
この本では、教養をどう使いこなしたか、その実体験レポートみたいなものも描かれていて、とても面白い。
6つの教養、そこから得た知見が、作者の人生(正確にいうとそれを見る目)を変えていく。
ああ、そうか。
教養ってのは、RPGで言うところの武器であり、魔法でもあるのだ。
自分を強化してくれるツール。
なるほど、たしかに「教養」は、「リベラルアーツ」だ。
やっぱり、私は教養のある人間になりたい。
教養を使いこなしたい。
マスター・オブ・リベラルアーツ。
プロレスのリングではなく、図書館の隅っこで、私は一人そう呼ばれる日を夢見ている。
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