双極とADHDの人間の特性がモロに出ているエッセイ
お題『いばらのみち』
noteを更新したかったのだが、ネタが思い浮かばず、Twitterのフォロワーからもらったお題で書いてみよう、と試みる。
第一印象は椿屋四重奏の楽曲だなあ、であった。
わたしが初めて椿屋を知り、聴き、中田裕二の色気に圧倒されたのをよく覚えている。
まあ、普通は険しい道のりのことを指すと思う。
わたしの現在の険しい道のり、
それは目下、『職探し』である。
職探し、学生や20代半ばのようにバイタリティや体力が有り余っていた時に比べて、全然進まない。勿論、自分の特性や体調なんかを考えて、より慎重になっているんだ、と言えば聞こえはいい。
しかし、昨年11月末から『高級ニート』をやらせてもらっている身としては
・社会復帰できる気がしない(そもそもあるのか?)
・復帰できたとして継続する自信がない
・やりたい仕事、やりたくないことが散漫としているので判断が難しい
・できることもやや中途半端なので宙ぶらりん
・そして職探しを考えると気分が悪くなる(要吐き気)
という具合である。
わかっている。すっごく甘えている状況なのは。
障がい者オプションで長くいろんなものが支給されているが、それもいつか期限がくる。そもそも誰かの為に何かする(ボランティアは違う)のが好きなので、働きたいな、とは思っている。(こうやって書くとキッザニアみたいだ)
だけど、体と頭と心が動かないのである。
そもそも、多少お金に余裕があって趣味がそこそこあるニート生活、楽しすぎるのだ。
好きな時間に寝て起きていいし、スイッチが入れば創作活動に打ち込んでいいし、予定があれば出かけて範囲内で遊べばいい。
こんな余生のような生活、味わったら抜け出せない。沼だ。
でもふと思った。この沼のような生活も、体力と気力がなければできないことを。
わたしは毎日朝晩合わせて15錠以上なんかしらを飲んで、やや正常っぽい装いをしている。それでも気圧や飲み忘れ(過失だけども)、生理周期など、何らかが原因で、『いつも通り』をキープするのが困難。そんな時は、上記のような悠々自適な生活すらこなせない。マジで生きるのに支えが必要すぎるのだ。
そんな人間が、毎日、とは言わなくても、日に8時間、とは言わなくとも、決まった時間に出勤、とは言わなくとも、通うことが…できなきゃ働くことはなかなか困難だよな。何回条件甘くしているんだ。
現代、フレックス制度とか、リモートとかでも仕事があるらしい。それも検討したらおのずと何かしらの可能性は見えてくるのだろうが…(過去の職場でリモートにしてもらい作業進捗にムラがあり過ぎたりサボったりが激しかった記憶)。
やっぱり、人が多少いないと難しい…のかもしれない。でもnote・Twitter・詩なんかの執筆はどこでもいつでもひとりでするのにな…。うーん、モロにADHD。
たくさん書いてきたが、要するに
『どうやったら仕事探す気になりますか?』
が極論言いたいことだ。
お金が切れた時、が明確なタイミングなんだろうが、それは起きてからじゃ何にもならない。
目の前の報酬にしか興味が湧かないで計画をうまく立てられないのも特性だとは思う。でも抗いたい。
先述した椿屋の楽曲『いばらのみち』の歌詞は以下のようにして終わるのだが、助けを甘んじて呼び続けても、仕方ないのかな、とも思う。
だって今まで自分で判断して決めてやってきた。
単に今いばらのみちなだけで、抜けて、薔薇の花咲く場所に出られるはず。涙をその為に流してもいいじゃない、そんなかわいそうなわたしは、という。
…この文章書いてる間に鬱転と躁転してますか?わたし。常備薬ちょっと見直そうかな…。
『いばらのみちだって 助けは呼ばないよ
涙から生まれ変わった
かわいそうな わたしさよなら
どこまでも 生まれ変わって
かわいそうなわたし さよなら』