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レジ袋有料化と、聴覚障害。
みなさんも、ファーストフードやカフェ、飲食店にスーパー、その他様々なお店で、普段買い物をされると思います。
会計の際に、店員さんから、ポイントカードなどを持っているか、などと、たずねられるでしょう。その順番や内容を、お店やチェーンごとに、詳細に覚えていますか。
私は、だいたいではありますが、ほぼ記憶しています。
普通の人なら、まずそんなことは、意識しないと思います。やりとり自体を、思い返すこともないでしょう。
一体なぜでしょうか。それは、私が聞こえない人だからです。
台本をつくる「必要性」
基本的にレジで店員さんと対面していて、店員さんがいま、何をたずねているのか、私は聞き取ることが出来ません。
あらかじめ「聞こえません」と伝えたり、「耳カード」(聞こえないので指さしなどでお願いします、などと配慮を求める、自作のカード)を見せることもあります。
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ただし、買い物をする場面は毎日のように訪れます。伝える前にやりとり自体が始まってしまい、伝えるタイミングを逃すこともあります。毎回これをやるのは、地味に面倒です。
なので私は、会計をするとき、お店によって違う想定問答集を、頭の中で開きます。
その問答集に基づき、「今おそらくこれを聞いてるんでしょ?」という仮説を立てます。そして、それに対する返答をするのです。
いわば、店員さんとお客のロールプレイをしているようなものです。
ここに至るまでの試行錯誤
聞かれていることがわからないなら、こちらから先に伝えてしまえばいいじゃないか。そう思っていた時期もありました。
コンビニであれば、
レジ袋はいりません。
お箸ください。
ポイントカードはありません。
あたためお願いします。
クレジットで払います。
店員さんが聞いてくる前に、聞かれるであろうことを、こちらからすべて伝えてしまうのです。
ところが、店員さんとしても、そんなに一気に伝えられても、というのが正直な感想でしょう。一瞬で把握することは難しく、困ってしまいます。
元来のマニュアルもあるので、結局は、改めて聞かれることになります。
その結果、元々の質問の順番が前後したりして、余計に聞かれている内容がわからなくなり、お手上げになります。
それなら、郷に入れば郷に従えで、相手のマニュアルの流れに乗って、答えてあげる方が、お互いスムーズです。
ミスタードーナツの場合
例えば、ミスタードーナツだと、こうです。
1.持ち帰るか?
2.(パイがある場合)温めるか?
3.楽天かdのポイントカードある?
4.セミセルフレジでの支払い
これで覚えているので、リズムよく答えていけます。
ただ、少し前から、ミスタードーナツアプリが導入されています。これにより、2.と3.の間に「ミスタードーナツアプリの有無」がたずねられるようになりました。
ポイントカードの類いは、基本的に後付け出来ない場合がほとんどなので、あらかじめ聞いておきたい、店員さんの気持ちも十分わかります。
アプリについて個別に聞いたあと、楽天とdのことを聞かれる場合。まとめて聞かれる場合の、両方があります。
私は、すべて使っていません。なので基本的に「ないです」と答えておけば問題ありません。
ここに少し、例外パターンが存在します。店舗に駐車場が併設されていて、無料になる利用券を会計の際に発行している場合です。
この場合、4.の支払いの後に、「駐車券が必要かどうか」をたずねられることになります。モール内のお店などで同様のサービスを行っているお店の場合も、同じ質問が行われることが多いです。
なお、フードコート内だと、微妙に質問が違ったり、チェーン店でなければお店によって質問がまちまちなことがあるので、問答集があれば万能、というわけでもありません。
ただし例えば、ギフト品を扱っているようなお店だと、「ご自宅用ですか?」という質問が、冒頭に行われることが多いような気がします。
そういった「質問文の例文」が脳内にあるだけでも、推測がしやすくなるので違ってきます。
聞き方に、個人差がある
万能でないのは、他にも理由があります。
質問の意図や内容が同じでも、店員さんによって聞き方が違うからです。
「店内飲食か持ち帰りか?」をたずねる質問でも、
お持ち帰りですか?
お召し上がりですか?
店内ご利用ですか?
食べて行かれますか?
など、たくさんの聞き方があります。
これについては、質問の順番はマニュアル通りであることがほとんどです。なので、こういったいろいろな聞き方を想定していれば、ある程度対応することは出来ます。
そこで、たぶんこのことについて聞いているなと質問を想定して、「店内です」など、こちらから強制的に答えてしまうのです。これで、だいたいは乗り切れます。
たまに、???みたいな顔をされることはありますが、そのときは仕方ありません。日本語って、ほんとうに面倒くさいと思います。
マニュアルの変化に気づける
脳内に問答集を持っていると、マニュアルの微妙な変更にも瞬時に気づくことが出来ます。
たとえば、サンマルクカフェでは、「チョコクロを温めるか」について、以前は聞かれませんでした。
ところがある時期から、必ず聞いてくるようになりました。
こうした変更には、最初の数回は理解できず、対応することが出来ません。
ただし、何度か利用していれば、徐々に気づくことが出来ます。
私はこうした機会に、脳内の問答集に「アップデート」をかけます。よってそれ以降は、スムーズな返答ができるようになります。
レジ袋有料化、の憂鬱
これに関して、近年、憂鬱な出来事がありました。
レジ袋の有料化です。
有料化の政策自体には、賛成も反対も、私はしません。
問題は、会計の際に聞いてくる質問が「1つ増えてしまった」ことです。
もちろん、マイバックを前もってカウンターに出していると、レジ袋はいらないんだなと、気を利かせてくれる素敵な店員さんもいます。コンビニなどでは品数が少なければ聞かれません。
しかし基本的には、会計の途中のどこかで聞かれることになります。
この「どこか」が問題です。
最初に聞かれる場合もあり、会計後に聞かれる場合もあり、お店によってまちまちです。ポイントカードもなく、質問自体がなかったお店でも、常に身構えておく必要が出てきます。
もちろん、先に伝えてしまう方法もあるのですが、袋自体が大きさ違いで何種類もある場合があったりします。こうなると改めて質問されることになり、お手上げです。
セルフレジとモバイルオーダーは神
逆に、世の中の嬉しい変化もあります。セルフレジとモバイルオーダーの普及です。
こういうやりとりがごっそりと省かれる、セルフレジとモバイルオーダーには、本当に感謝しています。
面倒だから使わないという人もいますが、私にとっては対面会計のほうが、よっぽど面倒です。加えてそういった人たちは有人レジに並ぶことも多く、空いていたりします。
私にとっては一石二鳥。ありがたく使わせてもらっています。
最近はその気楽さに甘えているところもあり、今ではセルフレジじゃないとわかった途端に、買い物自体をやめて、お店を出てしまうことすらあります。
正直リアル店舗で買うより、ネットで買った方が楽なところもあります。
飲食店も、モバイルオーダーが使えるところを、優先して選んでしまいます。
食券ならとも、思えそうですが、席に着くときに、なにか聞かれたり伝えられたりしますので、油断は出来ません。
聞こえないことの不便さは、見えにくい
ちなみに、この話を先にTwitterにて投稿したところ、共感するという反応をもらいました。聞こえない人にとっては、あるあるな話なのだと思いました。
そんなちょっとしたこと、と思われる方もいるかもしれません。ただこれは、あくまでも、レジでのやりとりを一例として、挙げたに過ぎません。
耳が聞こえないということは、今回の例のように、生活する上で必要な、ちょっとしたコミュニケーションにおいて、不便があります。
他人と暮らしていく以上、コミュニケーションを避けることは出来ません。それは、日常生活の至る所に散らばっているのです。
一言些細なことをたずねられても、答えることが出来ない。
そんなの適当にごまかしておけばいいじゃないか。それはそうなのですが、それが大事な質問なのか、適当で良い質問なのかが、そもそもわからないのです。
なんでもないやりとりに、よどみが生まれると、私は申し訳なくなり迷惑をかけた気持ちになり、自己否定までしてしまうことがあります。
さらに、それはちょっとした社会の配慮で、解決に向かえる問題でもあるのです。
たとえば、コンビニではこういった「指さしシート」が設置されるようになりました。
これを通してやりとりすれば、聞こえなかったり、また発話できなくても、コミュニケーションを取ることが出来ます。
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こういったインクルーシブな工夫は、以前より見かけられるようになりました。障害は社会の側にあるという「障害の社会モデル」という考え方があります。
聞こえなくても、目が見えなくても、歩けなくても、話せなくても、様々なひとが、どんな人でも、同じように安心して暮らせる社会に、なってほしいと願っています。