ゲームは我々にとってなんであり、我々はゲームとどう関係するのか『ゲーム思考 コンピューターゲームで身につくソーシャル・スキル』
ファミコン世代のゲーマーであれば、一度くらいは仲間と話したことがあるだろう。
「ゲームはいったい何の役に立つのか」
ゲームでも昨今の「インタラクティブな映画」みたいな趣のものは、映画のように感動や明日へのパワーを与えてくれるかも知れない。ゲームだからこそ体験できるような、プレイヤーの行動によって変化する物語みたいなものを備えたゲームも、分かりやすく何かの価値がありそうなもののひとつだ。
ところが、宇宙から迫りくるインベーダーを正確に打ち落としたり、どこからともなく次々と落ちてくるブロックをきれいに並べたり、物体を3つか4つ並べて消していく、といった作業に習熟することに、いったい何の価値があるのだろう、と考え始めると途端に話は難しくなる。たぶんそのスキル自体はあまり役には立たないだろう。もっとも、役に立つかどうかよく分からないものは無駄だなどと言い始めると、最終的には人類は宇宙にとって必要かどうか分からなくなり、宇宙とクジラと、波間を揺蕩うクラゲの人生について思いをはせる羽目になり、合理性と効率を重視したAI社会の中で我々人類は無駄を実践するために存在するのだ、などというよく分からない理論に到達することになるだろう。
無駄かどうか以前の問題として、世間で定期的に話題になるのは、ゲームは我々ないしは青少年の発育にとって有害なのか、という話だ。これはアニメファンは危険な連中なのかなどという話と同様に、現代インターネット社会では「可燃物のテンプレート」とみなされている話題であり、まあ大方いい加減な研究結果に基づいて大人たちが勝手に騒いでいるのだろうと広く認知されている話題であると思うが、正直なところ「確たることは言えないが、別にそんな感じでもなさそう」という以上のことは誰も言えそうにない、というフワっとしたポジションに置かれている問題である。
今日紹介する『ゲーム思考 コンピューターゲームで身につくソーシャル・スキル (ニュートン新書)』は臨床心理士が、臨床の現場で遭遇した、何かしら「ゲーム」に関係のある患者たちとのセッションでの経験を踏まえながら、我々にとってゲームがなんであるか、ということについてひとつの解釈を示してくれる本だ。
最初に言っておくと、『○○思考』といった昨今流行りのタイトルが付けてあるが、全然そういう本ではない。『○○思考』というのはだいたい『○○』のメソッドをビジネスに拝借してカネ儲けをしようというナゾのハウ・ツー本であることがほとんどだが、本書は全くそういうのとは関係ない。
本書の優れている点は、ゲームすなわち「遊びの空間」を、ドナルド・ウィニコット(精神科医)の精神分析理論に当てはめて整理してみせるという試みがなされているところだ。ウィニコットの理論は、自己の内なる世界と現実世界の間もしくは境界にあたる領域を中間領域ないしは潜在空間と呼び、子供が成長していく過程で通る領域である、などとするものらしく、こうした空想と現実が混ざったような領域を与えてくれる遊び場としてゲームが機能しているのではないか、というのが著者の主張になる。
精神的な疾患や人格障害には、内面と現実との境界が機能しているかどうかが関係する場合がある。典型的なのは、内面と現実がごっちゃになってしまって、現実にはないものが見えたり、声が聞こえたりするケースだ。そのような深刻なケースでなくても、多くの人と関わる場が社会である以上、外的なものとうまく折り合いを付けられていないと実社会で安心して暮らしていくのは難しい。結局のところ、内面は内面であり、外界は外界である。我々は、そこをうまくつなげる方法を体験を通じて学んでいくしかないのだ。
現実は恐れすぎてもいけないし無視してもいけない。自分の力の全く及ばないものとみるのも違うし、全く思い通りになるものと捉えるのも違う。そのいい塩梅を学んでいく上で、遊びが重要であり、ほどよい遊び相手が重要だ。ゲームは、ある意味現実を単純化したものとして我々にとって程よい遊び相手になってくれる。
ゲームはそもそも役に立つものなのか有害なものなのか、という問いではなく、我々はゲームとどのように関係しているのかという問いを立てているところが、本書の着眼の優れているところだと思う。
ゲームを批判する言葉のひとつとして、現実を生きていない的なものがある。これについて思うのは、我々は物理的には現実空間に存在しているように思われるが、結局それも思われるだけであって、当の自分自身の意識のようなものは直感的には完全に自分の内的な世界にしか存在しないように思われるということだ。要するに、みんなそれぞれ「体験する世界」は違うのだ。
重要なことは、自分が接する世界がいわゆる「リアル」な世界なのか「バーチャル」世界なのか、ということに関わらず、自分の内面世界以外の世界とどのように関わるか、ということのように思う。