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恩寵への招きの経験は、「ああ、嬉しい」、現象と思われがちである。私の経験では、たいていの場合「こん畜生」現象

ある出来事がチャンスを生むのは、その出来事を特定の形で表現できる人にとってだけである。洞察によって、それまで無視していた次元や因果関係を認識できるようになる。それが、新たな解釈や新たな予測モデルである(中略)ブレークスルーには、ほぼ決まってセレンディピティーが必要である。そしてセレンディピティーは、多様な心づもりから生まれる。奇妙な現象をどのように解釈すればいいのか、それに気づいて理解した人がブレークスルーを起こす

心理治療家

心理治療家を捜すには、口コミに頼るのが最善であることが多い(中略)症状が重かったり、身体症状のひどい場合には、まず精神科医にかかるのがとくに望ましい。医学的訓練を受けているので、精神科医は通常最も料金の高い治療者である。しかし、患者の状態をあらゆる面から理解するのに最良の立場にいるのも、彼らである。面接が終わって、医者が患者の問題をおよそ知ったところで、できればもっと料金の安い、非医師の治療者を紹介してくれるように頼んでもよい(中略)治療者と患者、そのどちらもユニークな存在である。患者は自分自身の直感的判断に頼らねばならない。 そこにはいくらか危険性が含まれており、ある程度幸運をまつしかない。いずれにしろ心理療法を始めることは、そこに含まれるさまざまなことをひっくるめて勇気ある行為なのだから、そういう人に心から敬意を表する(中略)環境を乗り越えて精神的に成長する人が、少数ながら存在する。しかし多くの人は、自らの恩寵の招きを無視し、その助けを拒む(中略)釈迦は、悟りを求めることをやめてそれが訪れるがままにまかせた時、悟った。われわれは恩寵を選ぶと同時に、恩寵によって選ばれる。意志の力で恩寵に至ることはできない。せいぜいできるのは、いつそれが訪れてもよいように自分を開いておくことである(中略)夢は恩寵の一形態であるが、他の種類の恩寵と同様に、パラドックス的アプローチで臨まねばならない。偉大な先人の恩寵の助けがあるにせよ、精神的成長の道はひとりで辿らねばならない。それには勇気と主導性、思考と行動の自律が要求される(中略)恩寵に気づきそれを利用するセレンディピティの能力は、天賦の才ではなく意識的に獲得できる。この能力があれば、精神的成長の旅はより迅速で確かなものになるであろう(中略)有能な心理療法家にかかってうまくゆかない人の大部分は、この仕事の厳しさを引き受ける意志もないからだ。と、私は今も信じている。しかし少数の人々 ───おそらく5パーセント程度───の場合、心理療法になじまないたちの精神医学的問題を抱えており、深い内省がかえって症状を悪化させることのあることを、指摘していなかった。本書を精読した人が、その五パーセントに入ることはまずないと思う。いずれにせよ、精神的作業に導くべきでない少数の患者を、慎重に、時にはゆっくりと見分けて、他のもっと役に立つ方法を取れるようにするのは、有能な治療家の責任である(中略)しかし、どんな人が有能な治療者なのか?(中略)適切な治療者を選ぶのに、有能かどうかをどう判断すればよいのか(中略)注意深く自制心があって、通常控え目である。そして、控え目の背後に暖かさがあるか冷淡さがあるかは、直感でつかむことができる(中略)治療者の能力は彼らのもっている免状とはあまり関係がない。愛と勇気と知恵は、学位では決められない。たとえば、「国の認定を受けた」精神科医、つまり最も高い資格をもった治療者ならば、厳しい訓練を十分に受けてきているので、無能な治療者にひっかかる心配はまずない。しかし、治療者として精神科医の方が、心理臨床家やソーシャルワーカーや牧師より優れているとは───あるいは同程度とさえも───必ずしもいえない。実際、私の知っている最も優れた二人の治療者は、大学さえ卒業していない───あとがき(中略)愛は意識的なものであるが、恩寵はそうではない(中略)責任を引き受けた人だけが、無意識のメッセージに注目し、恩寵を受け入れる(中略)心理治療とは、患者に責任をとることを教え込む、骨の折れる仕事(トレーニングという方が近い)なのである。精神疾患と向きあい、その責任を引き受け、その克服に必要な仕事をなし遂げた人たちは、呪いから解放されるだけでなく、自分が全く新しい世界にいることに気づく。かつては重荷であったことが、克服した症状も含めて、贈物のように思えてくる。彼らはまさしく恩寵に触れたのである(中略)邪悪な人間が健全性を完璧に装い、その破壊性が「正常」という姿を装っているとき、この種の人間をどう扱うべきだろうか。まず、その仮面にまどわされることをやめ、彼らの見せかけにだまされることをやめなければならない。

最も優れた二人の治療者

考え方は、少食を勧めた甲田医院の故甲田光雄先生の説で、少食で低体温こそ健康にいいのだというもの。厳しい玄米菜食を実践しているマクロビオティックの人たちもやはり大変やせていますが、同じように健康です。少食者と共通するところがあるのでしょう(中略)禅宗の僧がわずかな菜食でも顔色もよく健康にいきていけるのも同じこと。

才能は遺伝によるものかもしれない。だが、天才は違う。天才───あるいは馬で言うなら、とんでもない偉業は、血筋によるものではなく、どちらかと言えば「究極の嵐(パーフェクト・ストーム)」というものに近い。複数の条件が重なって相乗効果を生み、巨大な力に発展したものと言える(中略)天才もたいていは、目を瞠るほど優れた両親のもとに生まれてはいない(中略)ポイントはここだ。天才は突然、そしてどうやら、人のさまざまな表現型[遺伝子の組み合わせと環境の相互作用により、その遺伝子の組み合わせによる形態や特質の一部が目にみえる形で現れる生物的特徴]の組み合わせ───なかでも、知性や立ち直る力、好奇心、洞察力ある思考、少しどころではない脅迫的行動から、ランダムに出現する(中略)心理学者はこれを「エマージェネシス(emergenesis)」と呼ぶ。私たちのような素人は「究極の状況」と呼んだほうがわかりやすいだろう。起こりえる可能性はあるのだけれど、そう滅多には起こらない、ということだ。

悪はキリストを十字架にかけたが、そのおかげでわれわれは遠くから彼を見ることができるようになった。個人としてのこの世の悪との戦いに個人的にうちこむことは、成長するひとつの方法である(中略)悪しき人々は、自分の状況に気づくことに抵抗する(中略)ユングは、神が無意識のなかに在る。と実際に言うまでにはいっていないが、著述は明らかにその方向を指している(中略)私のイメージでは集合的無意識は神である(中略)この道を十分に長くかつ真摯に歩めば、断片的な知識があるべきところに収まりはじめる。そして徐々にことの次第が明らかになる(中略)なぜある人々は、心理療法の助けのあるなしにかかわらず、まったく愛の欠けた子ども時代を乗り越えて自ら愛のある人になるのか(中略)恩寵の存在は、神の実在の何よりの証であるだけでなく、神の意志が個々の人間の精神的成長に捧げられている証でもある(中略)ある面では、恩寵の招きに気をとめるかどうかを選ぶのは自分自身であると言えるが、もうひとつのレベルでは、選択するのは明らかに神のように思われる。恩寵の状態を成就し、「天から下された新しい命」を授けられた人々の共通の経験は、自分の状態に対する驚きである。彼らはそれを勝ち取った物とは感じない。自分の特別な善性に現実的に気づくことはあっても、その性質を自分自身の意図したものとはしない。むしろ自分の善性は、自分よりも賢明で巧みな手によって創られた、と感じている。恩寵に最も近い者が、彼らの授かった贈りものの不可思議な性格を一番わかっているのである。このパラドックスをどう解決するのか。それはできない。せいぜい言えることは、われわれの意志で恩寵を招くことはできないが、その不可思議な訪れに自分の意志で自分を開くことはできる、ということである(中略)もし自分を完全に律して全きを愛の人とすることができれば、神学にうとく神に思いを致すことをまったくしなくても、恩寵の到来に応じる準備は立派にできている(中略)恩寵を選びかつ恩寵に選ばれるパラドックスは、セレンディピティ現象の本質である。セレンディピティは「求めもしない貴重な、また嬉しい贈りもの」と定義される。釈迦は悟りを求めるのを諦め───その訪れにまかせ───て、初めて悟りを開いた(中略)人間進化の尺度でははるかに親のレベルをこえる、愛のある人間になるのは恩寵のゆえである。それではなぜ限られた人が精神的に成長し、養育環境を越えて進化するのか。私は、恩寵はあらゆる人に与えられており、われわれはみんな神の愛に包まれ、誰しもが同じように気高い、と信じている。だから私にできる唯一の答えは、ほとんどの人が恩寵の招きを気にとめようともせず、その助けを拒んでいる、ということである。私は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのだ」というキリストの言葉を、「われわれのすべては、恩寵によって恩寵へと招かれている、しかしほとんどの人がその招きに耳を傾けようとしない」という意味に解釈したい(中略)恩寵への招きとは昇進、より高い力と責任を伴う地位への招き、だからである(中略)恩寵への招きは、労の多い気配り、奉仕、必要とあらば犠牲を厭わぬ生活への招きでもある。それは精神的な子どもからおとなへの、人類の親になることへの、招きなのである(中略)ほとんどの人はいやいやで、事実、部分的なおとなにしかならず、いつも全きおとなとしての責任から尻込みしている。精神的成長にしても同じである(中略)回心あるいは突然の恩寵への招きの経験は、「ああ、嬉しい」、現象と思われがちである。私の経験では、たいていの場合「こん畜生」現象である(中略)われわれが恩寵に至るのではなく、恩寵がわれわれのほうに来るのである。 恩寵を手に入れようと試みても、それはわれわれをすり抜ける。求めていなくても、それがわれわれを見出す。

ゴッホ(引用者撮影)

かつてゴッホが、精神病への薬として処方された、ジギタリスの副作用で、ものが黄色に見える現象である「黄視症」を体験しています。いわば黄色の幻視ですね。全てのものが黄色味がかって見えるのです。ゴッホはこの黄色を神の恩寵ととらえて、その後の絵は、黄色を強調した油彩画に変わっています。これが、黄色のひまわりなどのシリーズになったのです

ゴッホ(引用者撮影)

ゴッホはジギトキシンの毒の副作用に苦しんでいたと考えられ、視界全体が緑黄色がかって見えたようだ(中略)察するにゴッホの主治医がジギトキシンを大量に処方したか、ゴッホのマイクロバイオータには、この薬の副作用を防ぐ腸内細菌がいなかったのだろう。

ドュマルセは、次のように書いている。「哲学者にとって理性は、キリスト教徒にとっての神の恩寵のようなものである。恩寵がキリスト教徒を動かすように、理性は哲学者を動かす」(中略)認識論というのは、「人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか」、また、「自分が何を知っているのかを知るにはどうすればよいのか」といったことを探求する学問だ。

『ONE PIECE』や『サザエさん』が永遠に続いていくのは、世界観があるからです。ストーリーの前に世界観があります。そこにルフィというキャラが生まれ、物語が生まれ、メッセージがついてくるという展開です。

ローマカトリック司教のジョージ・バークリーが、ニュートンの機械論的な科学によってキリスト教の教義がむしばまれかねないと恐れを抱いた。そして「不信心な数学者」に宛てた論文の中で、ニュートンの編み出した微積分と呼ばれる数学的手法を非難すると、ベイズはすぐさまその微積分の擁護に回った(中略)「そもそもこの論争に宗教を持ち込むのは大いに間違っている」と主張したのだ。さらにベイズは長老派教会の牧師でありながら、「いまやこの分野は、宗教とのあらゆる関係から切り離された単なる人文科学の一つであるとみなさなければならない」と力説した。四〇〇年前にオッカムのウィリアムが手掛けた、宗教から少なくとも物理科学だけは切り離すという試みは、この頃にほぼ片がついたといえる(中略)トマス・ベイズは本書で取り上げる英雄たちの中でもとりわけ謎の人物である。彼について分かっていることはオッカムのウィリアムと同じくらい少ない(※現存のベイズの肖像画も彼かどうか疑わしい)(中略)ベイズが最初に確率論に関心を抱いたのは、スコットランド人哲学者のデイヴィッド・ヒュームが著した『人間本性論』を読んでからだったと思われる。ヒュームは、啓蒙運動以降優勢だった科学的方法への批判として、〝帰納法問題〟とのちに呼ばれることになるものを唱えた。※引用者加筆.

一七四八年に、スコットランドの哲学者、デイヴィッド・ヒュームが「奇跡論」という論文を書いた。この中でヒュームは、たとえこの目で見たという証人がいたとしても、奇跡が本当に起きたことは証明できない、と述べている(中略)ヒュームの念頭にあった「奇跡」とはもちろん、キリストの復活だったが、賢明な彼はそれをはっきりと言葉にしていない(その二〇年前には、トマス・ウールストンがまさにその主旨のことを書き、神を冒涜したとして投獄されている)。

フランスにはジュガード・イノベーションを表す「システムD(デ)」という表現がある。Dはデブルイヤールのことで、頭が柔らかく、とっさの判断に優れ、機略に満ち、どんな苦境にあっても乗り越えていける人を指す。システームDは、フランスの悪名高い官僚主義に負けず、独創性と機転によって新たな企業を創設する起業家を称える言葉(中略)そもそも起業家(アントレプレナー)という言葉はフランス語

引用者が教養として染色体疾患者の後療法のまとめを作っていた25年以上前も、西式健康法と甲田療法は、染色体疾患の人の後療法であり甲田光雄先生はアトピーやがん治療の第一人者だった(西式健康法の中興の祖。衰退に陥ったものを再び興して盛んにした)。私がアニメ「ワンピース」を初めて見たのは、福島原発事故から数年後だったが、きっかけはアニメ広告中のクローバー博士の顔が甲田光雄先生に似ていたからだ。それがきっかけで登場人物の顔を見ると、バギーという海賊が、染色体疾患者特有の顔貌であることに気づき、また主人公が麦わら帽子をかぶっていたことから、染色体疾患をテーマにしたアニメだと私は推察。漫画『ONE PIECE』の連載当初、麦わら帽子の画家ゴッホは薬の副作用ではなく、染色体疾患のために視野全体が緑がかった黄色に染まっているとされていた。ゴッホがジギトキシンやジギタリスの副作用で黄ばんだ視界になったという話はここ十数年くらいの話で、『ONE PIECE』連載開始当初、ゴッホは染色体異常で黄ばんだ色調の絵を描いていたというのが定説だった。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/n5cc29e27bedd

https://note.com/wandering_1234/n/n70cd6253ab9b


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