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「ラ・ジュテ」「過去を逃れて」「東京戦争戦後秘話」_ 過去と記憶と歴史を巡る断章、虚無。
過去、記憶、歴史。 どれも不可思議な存在だ。
過ぎ去ったものを忘れようすればするほど、何処までも追いかけてくる。
必死で逃げようとする:しかし、追いつかれた時、絡みとられたとき、ひとは死を選ぶほか、なくなる。
過去、記憶、歴史が孕む虚無 というものに男という生き物は惹かれるのだろう。そこから宝物を掘り当てようとする。真実()を突き止めようとする。
どうあがいてもそれは、深淵を覗くと同じ:どの男も最後、破滅からは逃げられない。
以下、作った国も、時代も、人間も、まるで違うが
歴史と過去と記憶に殺される 男を描いた白黒映画を3つ紹介したい。
歴史に愛しの人を探そうとした男の物語。「ラ・ジュテ」。
「12モンキーズ」の元ネタ など言われる作品。
近未来の廃墟となったパリで少年時代の記憶に取りつかれた男の時間と記憶を、フォトロマンと呼ばれるモノクロ写真を連続して映し出す手法で描いた、わずか28分の映画だ。
戦争で荒廃した世界。地下で生活する生存者は、救済を求めて過去に主人公を送り込む。タイムトラベルの方法は、体ではなく意識を飛ばすというもの。
記憶の中を彷徨い、夢のように過去を経験する男:そこでひとりの女性に恋をする。劇伴や特殊効果はなく、モノローグと静止画だけのシンプルな構成に、目を見張るばかり。
余計な言葉は要らない、この切ないロマンスを五感全体で味わって欲しい。
物語は空港で始まり空港で終わること、ぐるぐると歴史が螺旋を描く物語であること、そして歴史に引っ張られて男が死ぬこと だけは、触れておく。
※画像はCriterion公式サイトから引用
逃げたい過去から逃れようとした男の物語。「過去を逃れて」。
**
「Out of the past」というカッコいい原題、最も重要なフィルム・ノワールとすら言われる一作。
**ロバート・ミッチャムが、すでに後年を思わせるシャランとした演技で主役を演じている。醒めた目で、すべてを他人事のように見ている:が、中盤からそうも言ってられなくなる。
ガソリンスタンドを経営するジェフ(ロバート・ミッチャム)の元にかつてのボス、ウィット(カーク・ダグラス)の手下がやってくる。
ジェフは隠していた過去を回想する。数年前、ジェフはウィットの愛人キャシー(ジェーン・グリア)を連れ戻す仕事を引き受けたが、キャシーと愛しあってしまう。しかし、キャシーは追っ手を殺して逃げたのだった。
ジェフは身を隠して、足を洗い、真面目に働いている。それでも、かつてのボスから直に使いを寄越されては、会わずにはいられない。ジェフはウィットの屋敷に赴く。驚いたことに、キャシーがそこにいたのだ。
本作でいちばん怖いのは、過去の因縁を知る訳有りの女・キャシーだろう。
悪女というよりは、毒婦といった感じの人間で、自分の都合の良いようにころころと身変わってばかりいる。
八方美人?そんなチャチな言葉じゃ例えられない。
ジェフとウィットが(上記にある通りの)過去の因縁から殴り合っている様を、なんの感情も出さずに眺めるのだ。自分のせいで争っているのに、完全に他人事と感じている、白い表情が怖い。 運命の女神ウルドであるかの様な振る舞い。
結局、ウィットはキャシーの手で射殺。キャシーはジェフに罪を被せて、一緒に逃げようと脅迫する。ジェフは、キャシーを車に乗せて、あらぬ方向にハンドルを切る。ウルドに魅入られてしまった彼に、最後、許されるのは、それを巻き添えにして、死ぬことだけだ。
本作の結末は、数ある犯罪映画の中でもひときわ、むなしく、冷酷だ。なぜ、カタギに戻って罪を償うべく真面目に働いていたひとが死ななくてはいけないのだ。
ただひとつ言えることは、過去に振り回されて男が死んだ ということだ。
映画に記憶を探そうとした男の物語。「東京戦争戦後秘話」。
さて、ここからが本番だ。鬼才・大島渚監督の力作。 間違いなく人を選ぶ。
製作者サイドの解説が、ひじょーに長ったらしく難解だが、引用してみる。
一作一作が全て似ていない、常に新たな創造性をもって生み出されてきた大島作品だが、本作は当時草月のフィルム・アート・フェスティバルで注目された原正孝(のちの将人)をはじめとする高校生の自主製作映画グループと組んで製作した異色作である。「東京戦争」という武装蜂起も虚構と化し、一気に新左翼運動が活力を失っていったこの時期に、とある映画制作グループの高校生が「映画で遺書を残して死んだ男」にとりつかれる。彼がその映画=遺書を追いかけると、なにげない風景のなかに国家の制度、国家の幻想がしみついていることが見えてくる。この風景が秘める圧力を暴きだそうという高校生たちの奇想を、大島はごく真摯に受けて立っている。生硬で観念的な部分も多く、大島作品のなかでも際立って難解な作品であはあるが、ボルヘス的な虚実の迷宮にはまった高校生を描く大島の半覚醒的な語りは、きわめて魅力的な幻視のはだざわりを描きだしている。
どうだ、まったく意味不明だろう。 ナニ、筋書きだけ追えば簡単な話だ。
それは本作の副題「映画で遺書を残して死んだ男の物語」 の通り。
1969年を過ぎて学生運動が急速に下火を迎えていた新宿。とある青年が8mmフィルム・カメラを携えて、ビルの屋上から身を投げる。
どうも、この青年(以後「あいつ」と記す)が所属する学生運動団体の所有物だったようで、同志たちの間で「個人のカメラはみんなのカメラか」と議論になる。証拠品として警察に押収されたカメラを奪還するため、同時代、若き映画ファンたちを魅了していた映画監督たち(加藤泰、鈴木清順ほか)に呼びかけよう、という動きも出る。
**
まあ、そんなことはどうでもいい。 **
重要なのは、「あいつ」の自殺を止められなかった主人公(元木)が、「あいつが何を撮っていたか」に執着する、というところだ。
それは、「あいつ」の彼女:泰子が、魅惑的でミステリアス、押し倒したくなる美人なのも大きい。しかし彼女は「あいつ」が死んでいない、と言って抵抗するのだ。
「あいつ」の自殺が立証されて、押収されたカメラが返却される。何を撮っていたのか、「あいつ」の遺書の鑑賞会が始まる。
長回し・フィックスを多用して、たとえば都電のそばにある煙草屋ほかの市井の定点観測をする、それが何カットも連続する、最後は「あいつ」が走って逃げる視点、屋上から飛び降りて地面に落下する、以上。
同志たちは口々に映画を自分勝手に評論する。映画評論家気取りのこやつら、「あいつ」の映画を概ねボロクソにこきおろし、所詮、敗北者だったのだと蔑む。 元木も「どうして意味もなく風景を取るんだ!」と怒る。
とはいえ、泰子の心をモノに出来ないのは、この遺書の存在のせいだ、ということに元木はうすうす気づく。
だから彼は、泰子を、「あいつ」の記憶=彼が映画を撮って回った場所に連れ回す、そして「あいつ」と同じ構図で映画を撮る、この行為によって「あいつ」の記憶を上書きしようと、目論む。
しかし泰子は首を振らない。「あいつ」のフィルムが残っていると。
ここ至って、元木は激怒する。元木は泰子の目の前で、「あいつ」の遺書をボロクソに批判。あげく、フィルムをぐちゃぐちゃにしてしまう。
これで泰子は完全に元木からそっぽを向く。
それでも元木は構わないのだ:カメラが手元にあるから、カメラを通して泰子をフィルムに焼き付けることができるから。
カメラを通して世界をのぞくことの優越感。いつしか元木は、泰子に心移りさせることではなく、「撮る」こと自体に魅入られていく。カメラの対象は泰子だけでなく、市井の「意味を持たない」風景にも向かっていく。
そう、「あいつ」の様に。
と、ここにきて同志たちが「このカメラは、個人の所有物にあらず(だから勝手に使うな)」という結論に達し、元木に詰め寄る、だから思わずカメラを引っ掴んで、元木は逃げ出す。
回り続けるカメラが運んだのか?
気づけば「あいつ」が飛び降りたビルの屋上にたどり着いている。
これはまずい気がする…。元木は降りようとするが、階段を泰子が塞いでいる。泰子は何も言わない、じっとただ元木を見つめている。
だから、元木はカメラと共にビルの屋上から飛び降りる他ない。
元木の遺書の最後も「屋上から地面に落下するところ」だった。
映画で遺書を残して死んだ「あいつ」が強烈に残した、意味を欠いた、ある意味で死の痕跡たる記憶。その記憶に引っ張られて、一人の生きた男も死ぬ。
この「記憶」が何のメタファーか? 本作のバックグラウンド、そして「日本の夜と霧」ほか大島渚の他作品から、類推するも良し。
いかがだろうか。
「過去」を意識することに、意味を見出そうとする男たち。
その「意味」に追いかけられるようにして、男たちは死ぬ羽目になる。
簡単に言えば、そんな話だ。
映画というものは「鏡」である、「虚像」である、「反復」である。追いかけるものに、追いかけられる。それを強く意識させる、自己言及的な映画たち。
「いまを生きる意味」ばかりがまかり通る現世においてこのニヒリズム、無常感、徒労感。心落ち着かせたいときに、見たい映画だ。
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