果てなき荒野の中、変容する人間。「人間の條件」六部作、ぶっ通しで見る価値、そこにある。
どうせヒマなら、この時間を使って、大長編でも見てみない?
たとえば「人間の條件」六部作、いかがだろうか。
小林正樹監督、仲代達矢主演で1959年から61年にかけて製作、全六部構成、9時間31分に及ぶ総上映時間。製作当時の商業用映画として最長の長さ、ギネスブックにも掲載されていた程。六部作ぶっ通しで見ると、脳内でゲシュタルト崩壊する。(これは2015年、丸の内ピカデリーで行われた記念上映の体感値である。)
ただ「長い」だけじゃない、今じゃ見られない/作れない重量感がある。同監督の「東京裁判」よろしく、「過去の残虐と犯罪」を(しかし、戦前生まれらしいある種の郷愁を持って)見つめた、重く、そしてひたすらに暗い物語。
小林正樹の演出が、観るものの心を、とことんまですり潰してくる。
仲代達矢演じる梶が酷い目に合うか、主人公が他人を酷い目に合わせるかの、どちらかしかない。痛快な瞬間など、ありはしない。
逆に言えば、ヒューマニズムなど糞食らえな戦時中の世にあって
如何に梶の心がすり減っていったか(そして死んだ魚の目になって行ったか)、六部作ぶっ通しで見る中で体感すること、これが重要だ。
六部作のあらすじ。
ストーリー
「第一部/第二部」
昭和18年(1943年)、南満州鉄鋼会社に勤務する梶は、美千子と結婚した直後に老虎嶺の鉱山の労務管理に就き、工人たちの待遇改善に腐心する。しかし、やがて緊急増産のために北支から送り込まれた捕虜600名が電気が流れる鉄条網の中で牛馬のように扱われていることを知った梶は……。
「第三部/第四部」
労務管理の職を解かれ、関東軍に配属された梶は、連日の厳しい訓練に耐えつつも、上等兵らに睨まれ、思想犯を兄に持つ新城ともども迫害の日々を過ごす。やがて新城は脱走し……。
「第五部/第六部」
ソ満国境でソ連軍の攻撃を受けて隊は全滅し、生き延びた梶らは避難民と合流し、戦争が終わったのかどうかもわからぬまま歩き続ける。日本軍はもはや味方にならず、民兵とソ連軍の追従から逃れつつ、避難民は次々と斃れていき、やがて梶はソ連軍の捕虜となる……。
松竹キネマ倶楽部 公式サイトから引用
以下、二部ごとにまとめて、中身をご紹介する。
第一部 純愛篇/第二部 激怒篇
民間人である梶と、満洲国の憲兵たち。植民地時代の中国人に対する、ふたつの相反する日本人の態度が丁寧に描き込まれている。最終的に梶は、中国人労働者を守ろうとして憲兵ににらまれ、軍隊に送りこまれる。きらりとした眼の青年が、満洲という楽園を追われ、前線へと追放される悲劇が描かれる。
重々しいタッチで描かれる戦争悲劇の中で、美千子を演じる新珠三千代の清純な美しさだけが、残酷なまでに鮮烈な印象を残す。強制的に引き離される、美千子と梶、ふたりの痛々しさも。
第三部 望郷篇/第四部 戦雲篇
最前線。
そこは、日本人が、誰一人差別されることなく、奴隷のように働かされる奈落。
兵隊たちは、敵軍を食い止めるための塹壕を、昼夜問わずひたすら土を掻いて掘り続ける地獄の様な毎日。(もちろん、古参兵のいじめは横行している)
その努力も、ソ連軍の進撃の前に崩壊する。悪夢のように押寄せてくるタンクの鉄壁が、すべての日本兵の肉体を押しつぶし、切断し、壊滅させる。(「切腹」同様、宮島義勇のカメラが演出する、ギリシャ悲劇を連想させる美しさ。)
生き残りは、早急に撤退する術もなく、満蒙の大地を歩かされる。なだらかな丘の白樺林、遥か彼方に黒々と縦走する山脈まで遮るものもない、一面にひらけた枯野原を。敗亡の悲劇が始まる。
第五部 死の脱出篇/第六部 曠野の彷徨篇
この副題の似合う、凄絶な当てのない逃避行が延々とつづく。
現地の住民に助けられたり、なぐり殺されたり、ソビエト兵に暴行されたり、日本兵同士が殺しあったりする。
避難民の中で印象的なのは、飢えた子供のために食べ物を盗む母親だろう。その子供もどこかで見失ってしまう。捨てたのかもしれない。
重要なのは、この彷徨う旅の中で、かつて人類愛を持っていた梶が、日本人以外の民族(ロシア、中国、朝鮮…)を憎むようになった姿だろう。憎悪と憔悴の中で、あんなにきらきらしていた仲代の目も、すっかり濁り切っている。
劇中、梶の差別意識を、他の登場人物に直々に指摘されるシーンがある。梶もわれわれも、はっとさせられる。
もちろん、無人の荒野を行くとあって、息を呑むほど美しい瞬間が時に現れる。
しかし、敗残する一行は、それに目を止める余裕もない。
やがて一行は、とある村でソ連軍に捕まり、捕虜収容所に連行される。
その収容所内でも、わずかな食料を巡って、古参兵によるいびりが横行する。
そしてクライマックス、梶は脱走する。はやく美千子に再会したい。その一心で。彼の曠野の彷徨の果て。それはぜひ、皆さんの目で確かめてほしい。
北海道サロベツを満州の荒野に見立てて、過酷なロケを行った甲斐はあった。
「甘え」があるといえば、自己憐憫による甘えがあるし
「歪み」があるといえば、糾弾されるだろう歪みは存在する。
それでも、胸を打つのは、
心ならずも植民地戦争に参加し、苦楽を味わった戦前派の苦悩。
彷徨わされる日本人の姿を、いっしんに描いたからではないだろうか。
※本記事の画像はCriterion公式サイトから引用