見出し画像

1956年東ベルリン。なにも変わっていなかった。「僕たちは希望という名の列車に乗った」

1953年、スターリンが死んだ。(ついでにベリヤも殺された)

東側諸国では「非スターリン化」に向けた機運が高まった。
ハンガリー人民共和国も例外ではなかった。
1956年10月23日、ブダペストで大規模民主化要求デモ。翌日、前首相であるナジがハンガリー首相についた。彼は大衆に人気があった。10月27日 ナジが新閣僚を発表、四人の非共産党系大臣を任命した。11月1日にはハンガリーの中立化をラジオで表明する。
これを、ソ連は「ハンガリーが社会主義陣営をはなれるかもしれない」予兆とみなした。11 月 1 日、ソ連軍は大規模軍事介入作戦を開始。11月4日、ソ連軍がブダペストへ再突入。ナジ新政権は崩壊する。

なお、同年10月29日にはイスラエルがエジプトに侵攻、第二次中東戦争が始まっている。10月30日には英仏がエジプトに最後通牒を送付、狙いはスエズ運河の利権だ。東風は西風を圧し、西風は東風を圧す。戦争が至る所で起こるのが、ごく当たり前の時代だった。


ともあれ。
ソ連としては、叛逆の火は全て消した、つもりだった。
終わっていなかった。西ベルリンでハンガリー蜂起の模様をニュースリールで目撃した、東ベルリン在住、スターリンシュタットの高校に通う2人の学生がいた。
当時、東西ベルリンは鉄道路線Sバーン(トップ記事画像にある通り、黄色と赤色のツートン塗装の車両)で比較的行き来が自由だったのだ。
ここから、物語は始まる。

1956年、東ドイツ。スターリンシュタットの高校に通うテオとクルトは、祖父の墓参りを口実に、しばしば西ベルリンを訪問していた。この日も冒険気分で映画館に忍び込んだ二人は思いがけないニュース映像を目の当たりにする。それは自分たちの国と同じくソ連の影響下に置かれたハンガリーで、数十万人の民衆が自由を求め蜂起した様子だった。その光景が脳裏に焼きついたまま故郷に戻った二人は、数名の仲間と同級生パウルのおじの家を訪れる。そこでは法律で禁じられている西ドイツのラジオ局の放送を聴く事ができるのだ。だがその日、ラジオで伝えられたのはハンガリーの民衆蜂起の悲惨な結果だった。後日、高校の教室でクルトは生徒皆にハンガリーの為に黙祷をする事を提案する。だがその黙祷が、後に国家を敵に回す問題へと発展するのだった…。
CAST レオナルド・シャイヒャー/トム・グラメンツ/レナ・クレンク/ヨナス・ダスラー/イザイア・ミカルスキ/ ロナルト・ツェアフェルト『東ベルリンから来た女』/フロリアン・ルーカス『グッバイ、レーニン!』/ブルクハルト・クラウスナー『アイヒマンを追え!』
STAFF 監督・脚本:ラース・クラウメ『アイヒマンを追え!』/原作:ディートリッヒ・ガルスカ『沈黙する教室』(アルファベータブックス)/ 撮影:イェンス・ハラント/美術:オラフ・シーフナー/衣装:エスター・ヴァルツ

アルバトロス公式サイトから引用


戦争の影を背負わされた子供たち。


東ドイツ 国家保安省(シュタージ)による監視体制と密告体制のもとでコントロールされている権威の怖さは際立っている。(国民教育相の命令で教室を訪れた女性調査官ケスラーの執拗さと来たら!凡弱な人間なら心が折れる。)
しかし、それ以上に印象に残るのはWW2終わって10年後も未だに残り続ける戦争の影だろう(東ベルリンに駐屯するソ連兵と、テオら学生たちが、夜の街で互いに罵倒し合う冒頭のシークエンスで、それは既に察せられる。)
イデオロギー、戦争、まだ戦禍も冷めやらぬ時代が、少年たちそれぞれに深い影を落としている。物語の中心となるクルト・テオ・エリックの三者三様に、それが深く現れている。

クルトは市議会議員を父にもつ。レジスタンスとして戦った気概からか関白亭主な父親で、他方母親は気弱で彼に従順だ。
テオは鉄工所勤務の「労働者英雄」を父にもつ。実はこの父、スターリン死後に起こされた1953年の東ベルリン暴動に参加した負い目がある。
クルトの父は保守的な考え方、テオの父は多少リベラル寄り。
だが根本のところで2人は同じだ。余裕をなくすと皆んな頭越しに怒鳴り散らす。ファシストの様に。「オレが正しい」と。
背後には、いまの階級から転落したくない、という恐れもあるだろう。

エリックには「父親」がいない。テオヤクルトの好青年ぶりと真逆:満たされていない、病的な眼差しをしている。牧師と再婚した母親を軟弱と嫌悪し、「赤軍兵士としてナチスと戦い、名誉の死を遂げた」事実を心の支えに生きている。
彼は日和見主義で、秩序に従うタイプだ。クラスメイトを密告するのに、良心の呵責を感じている節すらない。秩序に忠実なのは、親の庇護のもと満たされている同級生への嫉妬心もあるだろうし、「自ら、父性たらんとする」つまり国家に対する忠誠を彼なりに示そうとするためでもあろう。

そのエリックが、崩れる日がやってくる。心の拠り所にしていた事実が、覆ったのだ。ケスラーに真相と共に、脅迫される。
「お前の父はナチに転向し、戦後ソ連に処刑された」と。
(その写真には、クルトの父が「裏切者を滅した」の笑顔で写っている皮肉。)
絶叫、怒り。軍事教練の銃を盗んで、元・親衛隊員の教官を撃ち、走って走って逃げて逃げて、教会で慟哭する。 彼も、運命を戦争の影に狂わされた。

生きている父親は権威強圧的で、死んだ父親は戦争の犠牲者。
まとめてみると、
非ナチ化を成し遂げたように見えながら、体制側でも被支配者側でも、根底にはファッショ的なものが残存していたのが、十年後の東ベルリンだったのだ。

大人の汚さ、というのをさんざん見せつけられた学徒たちが最後選ぶのは、Sバーンにこっそり乗り込んでの「自由の国」西ベルリンへの脱出だった。
この頃まで、まだ東西の行き来は自由だった。

1961年、ベルリンの壁が建設される。 Sバーンも東西に分断される。
列車は厳重に封印される。


そして、ニュージャーマンシネマ、「ベルリン 天使の詩」へ。


ファシスト的な、父性的な権威への怒り。
それは、西ドイツの「わかもの」にとっても、同じことだった。

60年代後半から70年代に大人になった西ドイツの新世代にとって、何とも理解しがたくそして悲しいことは、自分たちの両親の世代がナチの時代を許してしまったという事実だ。
戦後の西ドイツ社会の最初で最大の課題は、いかにしてナチ的世界観から脱却し、ヨーロッパ諸国に新生ドイツとして認めてもらうかという一点に集約されていた。脱ナチ化は徹底していた、ように見えた。学校や街そして家庭でも徹底的に否定されるナチス・ドイツ。
しかし他方では、自分たちの父親はナチの兵隊であり、母親は隣のユダヤ人をゲシュタポに売ったことがあるかもしれない、という事実が隠されているかもしれない、という疑惑。

何故だ。
ナチを直接知らない戦後世代はこの単純な、しかし解きがたい疑問から解放されることはなかった。

(「僕たちは希望という名の列車に乗った」の子供達同様)西ドイツの戦後第一世代はいわば親の世代との対立のなかで成長せざるをえなかった。
東西で異なったのは、東の子供達がそれでも最終的には秩序を甘んじて受容せざるを得なかったのに対し、西の子供達は現代思想の洗礼を浴びていた事実。
彼らにとっては、模範となるような父親も母親も存在しなかった。
プロイセン主導のドイツ帝国成立以後、WW2敗戦までの70年超にわたってドイツ社会の本質を成していた権威主義的世界観=父性的権威を否定することの方が、彼らには必要だった。

そして60年代後半、WW2の終わり、ウーファ解体後、針を止めていたドイツ映画の時計は再び、動き出す。
ヴェンタース。ファスビンダー。ヘルツォーク。シュレンドルフ。
所謂「ニュー・ジャーマン・シネマ」運動は世界を驚かせ
中でも筆頭たるヴェンタースは1987年、東西ベルリンに挟まれ廃墟と化したポツダム広場を舞台に「ベルリン天使の詩」を製作、ドイツ史を総括する。
(壁がその1年後に崩れるのは、偶然ではないだろう。)

※本記事トップ画像はWikipedia Commons「ベルリンSバーン」の項から引用

いいなと思ったら応援しよう!

ドント・ウォーリー
この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!

この記事が参加している募集