「もう何も手に入らない。」「手遅れよ。」"Touch of Evil"(1958)
1956年型の フォード・フェアレーン(Ford Fairlane)に仕掛けられた爆弾が爆発するまでを、ワンショット・ワンシークエンスで見せつける冒頭の驚くべきクレーン撮影のつかみから始まる、オーソン・ウェルズがハリウッドで撮った最後の映画「黒い罠」(原題:Touch of Evil)より。
天才ウェルズが手掛けたこともあってか、クロバティックな長回し撮影、極端なキャメラ・アングルほかバロック趣味が刻印された異色のフィルム・ノワール、「最後の」フィルム・ノワールという伝説が独り歩きしているが、自分にはそこまで良いものとは思えなかった。
ヘンリー・マンシーニの暑苦しい南国のジャズは、ただでさえむせぶように暑苦しい雰囲気と緊張感を高める効果を発揮しているが、他方であっけらかんとした感じもあって、モノクロ画面と合っていないわけではないのだが、これはフィルム・ノワールらしくない、むしろ別物といった感じ。
終わってみれば劇中殆ど活躍しなかったスーザンは元より、ヴァーガスも真っ当すぎて、つまり「ベン・ハー」や「地球最後の男」に見えるヘストンのスマートながら暑苦しい男くささがオミットされていて、まるで印象に残らない役柄だったように思える。
記憶に残るのは、脂ぎって肥満していながら愚鈍ではなく頭の回転が速く、慷慨悲憤さは見せないが疲れ切っていた表情を浮かべていて、ハリー・ライムよろしく「いつものように」ふてぶてしく汚職をなす、その自己愛性をも強調するかのような、クインラン警部の肥大化しきった身体のみ。
やはりハリー・ライムよろしく、彼が現れる度に、濃い陰影の白黒映像の奥にぞっとするような禍禍しさと熱気を感じさせる、怪奇映画のように。ハリー・ライムをスマートな吸血鬼に喩えるならば、こちらはブードゥー・ゾンビといった感じだけども。
着こなしを見てみると、警部としての地位や威厳や疲弊を感じさせるややくたびれた黒いスーツとオーバーコートにフェドーラ帽。無地または控えめな柄のシャツにダークな色のネクタイ。服装は全体的に暗いトーンで統一され、彼の道徳的な腐敗と陰湿で重々しい性格を暗喩している。
この警部がスーザンやヴァーガスをねちねちといじめるとき、最大限の効果を発揮するのだ。
そんな圧倒的な存在感のウェルズと対峙しても尚存在感を失わない、銀幕デビュー20年経っても全く老け込んだ様子の見られない、ただ傍観するだけながら警部の運命を予言する女ターニャ(演:マレーネ・ディートリッヒ)の言葉を引用しよう。現在完了形をどう訳すかが、英語初心者の日本人にとって大いに技量を問われるところだろう。