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「いつだってやめられる」三部作(2014~2017年)。これは、ポストクたちの反乱。

イタリア人と言えば、時間にルーズ、公私混同が激しい、C調、浮気癖というネガティブな言われ。他方で彼らは、物事が望むようにならなかったときも、柔軟に対応して、どんな状況にも対応し、人生を楽しむ力を持っている。
2010年代後半、突如すい星のように現れたシドニー・シビリアは、まさにこの手の「最後は何故かうまくいく」イタリア人を主人公に、胸のすくようなドラマを、洒脱な語り口の中に描いてみせる。
シビリアの描く主人公は、時に声を荒げることもイライラすることもあるが、解決策を見出すために全力を尽くして、悪事に邁進する。

軽快でハリウッド的な映画スタイルの内にも、地に足ついたリアリティを感じさせるのは、たとえば後述するSmetto quando voglio(2014)において実際に研究者たちに取材した結果を参考にしている様に、きちんとした情報収集・取材に基づいてシナリオを作っているからだろう。
バズ・ラーマン的な、カラフルでマエストロなめくるめくはじける様な映像の色使いも、魅力の一つとなっている。

そんなシビリアの日本国初公開作品:Smetto quando voglio三部作をご紹介
いわばイタリア版「オーシャンズ(監督:スティーブン・ソダーバーグ)」と言って良い。エドアルド・レオ演じる神経生物学者のピエトロを中心に、様々な分野のポスドクたちが、大学という象牙の塔から放たれて、その頭脳を明後日の方向にフル稼働させるクライム・コメディだ。
監督が「首席の学者がごみ収集員」という記事から着想を得て造形したドクターたち、ひとりひとりがぶっ飛びすぎてて魅力的だ。三人寄れば文殊の知恵だが、それ以上集まれば文句のもと。それでも、アタマの悪い人間同士あるあるな感情的なレスバや論破、マウントの取り合いとはならず、論理的な「議論」を重ねて合意に至っていくプロセスが、じつに耳に心地よい。
とりあえず、日本の字幕担当者は文字起こしよく頑張ったと言いたい。専門知識や衒学の羅列ゆえ。

第一作はSmetto quando voglio(2014)(邦題:いつだってやめられる 7人の危ない教授たち)だ。
当初堅物だったピエトロは、勤めていた大学との契約が打ち切られるが、そのことを同棲中の恋人ジュリアに告げることができない。
決して彼は無能ではない:むしろ頭脳の回転が速すぎる。早すぎて、他の教授も、共同研究者も、誰もついてこれない。
とどめとばかり、ピエトロは保守寄りの思想・信条を持っているのだが、大学の人事権を握ってるのは左派。右派か左派かで人事が左右される笑えない境遇で、追い込まれてしまったのだ。

世知辛く途方に暮れる中、 彼の片腕?悪友?腐れ縁と言える計算化学者アルベルト(演: ステファノ・フレージ)に愛車をかっぱらわれた挙句、ドラッグパーティに連れ込まれたのが運の尽き。そこで合成麻薬でぼろ儲けするアイディアを思いつく。思いついたらあとは走るだけ!

まずは、自分と同様に、ドクターの地位を失って転職してしまっている仲間を集めに走る。
ラテン碑銘学者ジョルジョに解釈論的記号学者マッティアは今やガソリンスタンド勤務。ペンは剣より強しというが、しょせんは頭脳労働者、ブルーカラーと思しきクレーマーの男の暴力になすすべない。
動学マクロ経済学者のバルトロメオは自称・ギャンブラー。緻密な計算は相手のイカサマ?強運?の前に全く役立たない。賭けてはすられてばかりで、結果、ギャンブル依存症かつ女のヒモという、男のクズの出来上がり!
古典考古学者のアルトゥーロは今や路面工事の現場監督。ローマは掘れば地下の遺跡が出てくる。古代ローマの都市設計の専門家としては発掘にあたりたいところだが、工事が第一に優先される有り様。
どいつもこいつも、話しかければインテリの地が出る。インテリとしての知識が、労働を対価に金を稼ぐ:実生活に役立ってない悲喜劇に陥っている。
ここに、文化人類学者のアンドレアも加わり、いざ集った七人の侍。他六人が期待する大学に対するデモ…ではなく、シビリアは麻薬づくり計画をぶちまける。
はてさて、日常品から麻薬を抽出し、ビジネスとしての麻薬密売を開始するが…


結局、ピエトロはじめメンバーのほとんどが麻薬中毒になった挙句、無事に警察のお縄に。
ものがたりは、第二作Smetto quando voglio: Masterclass(2017) (邦題:いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち )に続く。すなわち、麻薬づくりの技能を活かして、警察の犬になってみるが…

その活動の中、薬物を利用したテロリストの存在にピエトロが気づいたところで、三部作の完結編:Smetto quando voglio - Ad honorem(邦題:いつだってやめられる 闘う名誉教授たち)に至る。

ピエトロは、第一作目で麻薬ビジネスの途上ピエトロ一味と対峙した(そして警察に逮捕された)ギャングのボスかつ流体力学の元教授のムレーナから情報を入手。大臣や学長、学部長らが列席する名誉学位授与式の会場に対する、神経ガスバラマキの陰謀を阻止しようと躍起になる。
しかし、教育界に裏切られた教授たちにとっては、所詮他人事どころか「敵に塩を送るようなものだ」と意気がまるで上がらない。そこを、「(第二作目で被された)濡れ衣を証明し、真犯人を捕まえよう!」の一点だけで押し切る、強引ぶり。

そう、一作目・二作目を経た最終作に新たに加わった魅力は、すっかりラテン系の「無責任男」となったピエトロが、初めて、カネや警察との裏取引といった状況に左右されることなく、自らの意志で、やりたいことをなそうと奮起するところにあるだろう。
ういろうを常に含んでいるかのような口の達者さと「俺についてこい!」のノリの良さだけで、仲間の「偏屈な教授たち」をぐいぐい引っ張って行く。
仲間たちも、半ば彼に呆れつつ、「こいつについていけばなんとかなるだろう」のノリで、一緒に同じ目的のために行動してくれるのだ。
ここ至って、ピエトロがまるで少年漫画の主人公のような輝きを放つ。

いざ現地へ向かう…前に、まずは刑務所の壁を乗り越える必要がある。
前半、あたかも1本分の映画を見たかのようなスピードとボリューム感で押し切るのが、映画ジャンルの定番中の定番「脱獄劇」だ。手垢のついた爆弾づくりも、シビリアの演出は、シチュエーションの面白さで押し切ってみせる。
すなわち、信管をロマ人から手に入れた携帯電話で作り、計算化学者アルベルトが各仕業としていた美声を活かしたオペラの所内公演を交渉の末主催、絶唱に合わせた発破を敢行。通信ケーブルのトンネルから脱獄するのだ。
後半は名誉学位授与式の会場でのてんやわんや。液体化させた神経ガスを無効化するため、研究用の死体に封入された防腐剤から水酸化ナトリウムを抽出。それを、デブで汗っかきのアルベルトが、講堂内の、ガスの仕掛けられたウォーターサーバーに一本ずつ突っ込んでいく様は、必死で無様でしかしまじめで、本作のハイライトと言えるだろう。もちろん、これだけで問屋は降ろさず、ムレーナを巻き込んでの、黒幕との対峙が次に控えている。
ピエトロたちと同時に脱獄するも、今回のテロに対してはあくまで知らそんを決め込もうとした悪人面の黒ひげ:ムレーナが、しかしガスの仕掛けられた講堂に学生が向かうのを目にし、教職としての本懐をお思いだし、いても立ってもいられず講堂へ走るシーンは、泣いた赤鬼になぞらえるべきか?思わずぐっときてしまう。

かくして、テロの阻止という宿願を果たし、最後は、目もくらむほど眩しい夕暮れの中、11人は一緒に肩を並べて、24時間以内に帰る必要のある刑務所へと戻って行く。
この瞬間のピエトロの自分語りのモノローグが、感慨深い。キマジメで面白みのない学者以外の何物でもなかったピエトロが、悪事を重ねて成長した果ての本懐がうかがえるのだ。

三部作のもう一つの軸としては、ピエトロの妻:ジュリアとの関係も見逃せない。
第一作で懇ろだった二人も、第二作目でジュリアからピエトロに離婚を切り出される有り様。なおも引きずっていたピエトロは、しかし第三作目の最後でジュリアから決別のキスをされる。「あなたはもう一人で生きていける」と。
そうして立ち去っていく元妻に向けて、ピエトロは呟く。「君を愛しているよ」と。実にイタリア人的なシークエンスだ。

この後、シドニー・シビリアはNetFlixで傑作を連打している。
孤島でウルフ・オブ・ウォール・ストリートを決め込むはずが、気づけば「国家とは何か」という命題に挑んでいる実話の映画化L'incredibile storia dell'Isola delle Rose(2020年・邦題は「ローズ島共和国 ~小さな島の大波乱~」)

技術革新の波:CDの登場やユーロ移行に伴う混乱を背景に不良たちが海賊版カセットテープで荒稼ぎ・のし上がっていく様を描いたMixed by Erry(2023年・ミックスド・バイ・エリー 俺たちの音楽帝国)。

モラルを逸れた主人公を通じて、世間を刺す。
次はどんな題材をどんな切り口で描いてくれるのか。いま、いちばんノリに乗っている、もっと評価してほしいイタリア映画監督だ。

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ドント・ウォーリー
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