「すべての葉が抜け落ちた感じがするのだ。」_"The Father"(2020)
2020年に公開された映画「The Father(邦題:ファーザー)」は、フランスの劇作家フロリアン・ゼラーによる戯曲『Le Père(父)』を基にしたイギリス・フランスの共同製作のドラマ映画だ。
監督はゼラー自身が務め、主演はアンソニー・ホプキンスが演じた。
映画は、認知症に苦しむ老人アンソニー(演:アンソニー・ホプキンス)と、彼の娘アンの複雑な関係を中心に描かれている。アンソニーが次第に現実と錯覚を混同し、周囲の出来事が分からなくなっていく様子が描かれ、観客は彼の視点から物語を追う形になっている。この手法によって、映画は、認知症と向き合う人々の視点から表現していて、真に迫ってくる。かつ、原作が戯曲らしく、(終盤まで)ある一室の外から出ることがなく、会話を積み重ねることによって、物語が進行する。ために、緊張感が持続する。昨今の映画文法では時代遅れとされる「暗転」も効果的に使われる。
本作、アンソニー・ホプキンスという役者に、全てが重くのしかかっている、と言って良いだろう。世界が輪郭を失っている不安から発される彼のセリフが「主観」と「客観」の境界をぼやけさせる。アンソニーは自分が信じたいものを見て、他方で自分の言葉に引っ張られてみたくもない世界を目撃してしまったりする。しぜん、われわれは信頼できない語り手=アンソニーと同じ立場に置かれる。他人事として捉えることを一切許さない映像テクニック。
そして最後に、全編通じて「無いぞ無いぞ、どこ行った」と触れ回っていた腕時計、実はアンソニーが意図的に隠し失せ物にしていたことが判明する。
腕にはめたそれを再度発見し、自分自身を取り戻す瞬間は、ほかの何よりも美しい。
どのシーンもよく、取捨選択するとなると非常に難しいが、いくつか、私の記憶に残る台詞を取り上げてみようと思う。
例えば、人前では隠していた内面が露わになる瞬間。
娘が何処か行ってしまうのでは?という不安が「娘はパリに行かない」「娘が結婚しない」という妄想を生み出す。いや実際に娘にそう喋らせてしまうシークエンスから。
そうでなくとも、戦前生まれのイギリスゆえの、反仏感情を、愚痴のように振りかざす。
例えば、吹き上がる衝動を抑えきれなくなる瞬間。
被害妄想が拡大する:例えば婿殿が殴ってくる、「あなた迷惑なんですよ」という言葉をかける、といったイメージにおびえる、
だからこそ、不安を紛らわすため、必要以上に強がってみせる、あるいは他人に対して強圧的になってしまうことが、よく分かる。
アンソニ―が発する台詞は躁と鬱、荒々しさと湿っぽさとを行ったり来たりするのだが、やがてその波もやむ時が来る。
それは、長年住んだドミトリーを遂に離れることとなった瞬間。
ヘルパーと二人残された部屋。それがヘルパーなのだと、目の前の女性を認識してはいないのだが、今は何が何でも語り相手がほしい。憑き物が落ちたように、次のようにアンソニーはヘルパーに向けて、語る。「私は何者なのだ?」という不安を訴えるところから起点に、かくの通りに。
まるで詩のように流れる言葉。語る中に死への恐怖に怯えを魅せる子供を、ヘルパー(演:オリヴィア・ウィリアムズ、「天才マックスの世界」でラテン語教師を演じたときから殆ど外見が変わらない!)はただただ、抱きしめる。それが良い。
醜さと美しさ、両面を併せ持つ「現代を生きる老人」そのものを見事に演じ切ったアンソニー・ホプキンス。第93回アカデミー賞で主演男優賞を受賞したのも当然のことだ。