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邦画「そこのみて光輝く」_ 最後、ひかりのあめ、抱きしめて。

「私にとって良い映画は、泣ける映画なんです。泣くということは、感情が揺さぶられたということ。だから、時間が経っても残る。でも、涙が出るためには、笑わなきゃいけないんですよ。笑うからこそ泣けるんだし、泣くからこそ笑える。」

「映画監督への道: 40人が語る監督になるための発想と技法」誠文堂新光社 (2014/3/20) 33ページから引用 

監督の狙い通りに、やられた。
ちょうど就活を終えて、ほっとして、心をしばってた紐が緩んでいた頃。
**たまたま映画館で観て、そして激しく揺さぶられた大学4年の春。
**


舞台は夏の函館:観光地から離れた、市民のそれも一部しか立ち入らない場所。
かつて漁村で賑わった名残を残す、立ち並ぶ木造長屋のなかに息を潜めて生きる四人家族がいる。
姉・大城千夏(演:池脇千鶴)は昼はパート、夜は体を売っている。自分は愛されないものだと人生を諦め、ふとすると、いつもどこか遠くを見つめている。
弟・大城拓児(演:菅田将暉)は前科持ち、仮出所中。お調子者でおしゃべり。そしてすぐカッとなってしまう。
加えて、いつも暗く疲れた顔をしている母に、脳梗塞で動けない父。
残酷にいってしまえば、「逃げられず、取り残された人々」だ。


何の縁か、生きる目的を見失った部外者:佐藤達夫(演:綾野剛)が、彼らと仲よくなる。
仲良くなると言っても、所詮、いっしょに飯を食べたりする程度だ。
拓児とラーメンをすすったり。姉弟といっしょにカレーライスをがっついたり。大城家と焼肉をつついたり。
だが、達夫にとってかけがえのない時間だ。とある一件以来、深く人とは交わらなくなった達夫が、はじめて他人に心を寄せることができる時間だ。


拓児と笑ったりする。千夏と手をつないだりする。大城家にお邪魔したりする。
達夫は、それ以上は、大城家の事情、闇のなかには踏み込めない。
「水商売で家族を養っている、自分の気分は、わからないでしょ?」
真正面に達夫を見すえる、千夏の眼差しが、とてつもなく痛い。
その瞳の奥に、明るく平穏な時間の中に、いずれ来る悲劇が予感される。
(暗さ一辺倒でも、明るさオンリーでもない、本編を構成する上での明暗のバランス感覚がしっかりしてるのは、スクリプターに出自を持つ監督ならでは。)


くるべき悲劇はやってきた。
千夏は肉体だけの関係を続けてきた男に捕まる。「これっきり」を引き換えに、激しく痛めつけられる。
拓児は、姉を襲ったその男を_拓児にとっても恩のある男を_かっとなって、祭囃子の中で刺してしまう。
それを、達夫はどうすることもできない。

一夜のうちに起こってしまった、腹を痛めて産んだ二人の子供の悲劇を前にして
夫の意味持たぬ声の中で、母・大城かずこ(演:伊佐山ひろ子)は、呻く。
(そして母が次にとった行動は…。)

拓児を諭して警察に行かせた後、達夫は、千夏を追いかける。
うっすらと、夜は明けばんでくる。
夜が去って、はじめて達夫は千夏を目にすることができる。
千夏が佇んでいたのは、静かな海辺。朝の光が静かに降り注ぐ。
傷ついた千夏の眼差し。静かな達夫の眼差し。
間に壁があるかの様に:少し距離を置いて、ふたりはただ、見つめ合う。
**
しかしそれは、まるで、海に肩まで浸かって、ふたり、抱きしめ合っているかの様な劇的な瞬間。**
なぜなら、千夏は自らの痛みを初めてその眼差しで伝えようとするし
達夫は必死で、その眼差しから痛みを汲み取ろうとするからだ。

達夫はぼくら。
最後の最後で、ぼくらは千夏に、しいたげられた人たちに、触れることができるのだ。


人の痛みを分かち合う、という代々受け継がれてきた日本映画の美徳。
この手の邦画はなかなか作られにくくなりつつある現状だと思う。
取り残された人々は、忘れられつつある。光は、さらに遠くなっている。


その光を忘れないために、その光を捕まえるために、
いつか、あの海、北斗市の海と砂浜に飛び込んでみたいと思う。


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ドント・ウォーリー
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