とどまる、ながれる
いつものように、枕もとのスピーカーから唄が聞こえている。
こうして一行がはじまったので、意識のモヤに浮かびあがった。
つぎつぎに言葉が溢れだすときも、想いを抑えきれずにぼく自身と格闘するように書きつづけるときも、ふとした一瞬に唄声はゆったりと心にひろがろうとしたり、体ごとあちらの世界へ連れ去ろうとしたりするというのに、今夜はすすまないカーソルをながめるばかりでも、内面をかすめることすらしなかった。
ついさっき、パソコンとタブレットの接続前にアーティストのリクエストを伝えたばかりだったけれど。
昨日のいまごろ、ぼくは身もだえするばかりだった。
今夜とはまったく逆で、いくつもの書きたい内容が構想となり、さまざまな表現となって、頭の中におさまり切れず体中を駆けめぐっていた。
ぼく自身の段取りがうまくなくて、泊まりのヘルパーさんは食器洗いと片づけに追われていた。
よっぽど声をかけて先に書くことをお願いしようと思ったけれど、一本仕上げるのに二~三時間は費やすので、おたがいに徹夜に近くなってしまう。
息があがりそうになりながら、ガマンする道を選んだ。
結局、いちばん心が動かされた一本を仕上げて、眠りにつくことになった。
動物性たんぱく質のいっさい入らなかった夕食のことも、引っ越して一年が過ぎ、ようやく自宅へ近づいたとホッとする場所が出現したことも、あの身もだえしていたときに描いていた展開をスッポリと忘れてしまったわけではない。
けれど、複雑に絡まりあった言葉のアヤの一つひとつを、浮かんだ映像の数々を、呼びさますことができなくなってしまった。
今月、市営住宅の申し込みがあった。
地震や洪水などの災害が心配で越してきたわが家だけれど、率直に書けば文化住宅の構造的には、危うさに変わりはないか、周囲の密集具合などを考えると、「安全」からは遠のいてしまったかもしれない。
でも、この町に暮らしはじめてから、ずっと歩きつづけてきた体裁を気にしない人間くさい土地柄から離れたくはなかった。
それに、引っ越しのなんだかんだのストレスにはコリゴリしている。
いずれにしても、このあたりの市営住宅の単身者向け車いすユーザーの募集がなければ、しばらくここに居座る決心をした。
ぼくの味覚を満足させた納豆を売る自然食品の店は、自宅から五分も行かないところにあって賑わっている。
いつでも、顔を出せるではないか。
わが家へ帰ってきたことにホッとできる場所も、舞茸とお豆腐のみそ汁と納豆の組みあわせが引きだす稲刈りのあとの充足感に充ちた田園風景を連想させる味わいも、近いうちに再現できるのではないだろうか。
午後十一時前、書くためのエンジンがかかりはじめると、言葉の合間の息をつくたびに、スピーカーから沖ちづるの唄声が踊りだしてきた。
後ろ髪を引かれながら、今夜はこのあたりでカーソルを止めることにしよう。
余分な二行を書き足せば、これから構成と誤字脱字といった校正をチェックして、電源オフとなる。