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なぜ「卒業式の呼びかけ(のようなバカバカしいこと)」が「学校」からなくならないのか

昨日は『脱学校論』のプロモーションを兼ねて、著者の白井智子さんと工藤勇一さんの対談の司会をしてきた。詳細は来週公開される動画を観てほしいのだけれど、今日はそこで考えたことーー司会なので、現場では言わなかったことーーを書いておこうと思う。

『脱学校論』は、白井さん(日本に「フリースクール」を定着させたと言っていい人)が現在の公教育の機能不全を指摘し、その改善案として「学校」という枠組みにとらわれない、社会全体のコミットによる公教育のアップデートを主張する(だから「脱」学校論というタイトルになっている)、彼女のマニフェストのような本だ。

では、なぜ現状の公教育は「機能不全」に陥っているのか。白井ー工藤対談によればその根本原因はそもそもの人間観の古さにあるという。日本に限らず、近代教育は軍隊(近代的な常備軍)の訓練をモデルに、命令を忠実にこなす機械のような人間の育成を目標にしている。これが工業社会下においては労働者の育成に有効であったために20世紀後半までは「富国強兵」に大きく貢献した。日本の場合にはこれに集団主義的な要素が大きく加えられる。つまり周囲の顔色をうかがい、空気を読み、多数派の意見に同調して「浮かない」ようにすることが「世間」に対応した「コミュニケーション力」とされるのだ。

しかし欧米の多くではこのような教育観はここ数十年で大きく見直される。規格に合わない児童、生徒を「不良品」とみなしがちな教育は批判の対象となり、子どもの自主性や個性を尊重する教育へシフトしている。これは今日の情報社会における生産性=創造性となる変化にも対応した「人材(という考え方は、僕は嫌いだが……)」の育成とも親和性が高い。心理学をはじめとする科学的なアプローチも導入され、軍隊的に子どもを抑圧して矯正するという従来の指導方針も後退している。

しかし、恐るべきことに日本の教育界にはいまだに前述した古い教育観が根強く残っている。30年以上前の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」的な幻想がこの世界ではまだ支配的で、その結果として「制服」とスカートの丈まで指定するような「校則」が幅をきかせ、卒業式の「呼びかけ」のようなほとんど全体主義のようなものが平気で行われている。

この卒業式の「呼びかけ」や全体主義的な合唱コンクール、アルトリコーダーなど実社会にはほぼ役に立たない実技学習(楽譜を読める人間を育てるなら鍵盤楽器のほうが圧倒的によく、今やアプリでコストも低いと思うのだが……)などをその愚かさやバカバカしさを指摘せずに「真面目に」やって見せるのが「大人」であるという間違ったイデオロギーこそが、僕はこの国の公教育の問題の本質だと思う。

「バカバカしいことや、無駄なことでも鈍感なフリをしてそれを一生懸命やる」ことが「世間」に対応した「大人」である……。要するに、現状の学校教育は実質的に「鈍感なふりをして、世間に合わせる」という空気読みマシーンを肯定しているのだ。

もちろん、現状の教育も「建前」的には生徒の「個性」を尊重する……ということになっているが、ここで厄介なのは教育現場におけるこうした前時代的なイデオロギーは、制度やルールだけでなくこの業界の「体質のようなものとして染み付いていることだ。

では、どうするか? 僕はこれまでの「教育」というか「学校文化」が好きな、それに適応した教師と教育関係者が教育業界のマジョリティである限り、この問題は解決しないと思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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