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『虎に翼』と「異議申し立て」の問題 

今日は先日完結したNHKの朝の連続テレビ小説『虎に翼』について改めて考えてみたい。僕は先月末の最終回後、成馬零一さん、三宅香帆さんの3人でこの作品についての座談会を配信したので、そちらも合せてみてほしい。また、この作品についてはこのnoteでも過去に2回取り上げている。それくらい、僕にとっても社会にとっても「大きな」作品だったのだと思う。

実際に僕は毎朝この作品を見るのを楽しみにしていたし、いよいよこの国の深刻なジェンダーギャップに対して、我慢の限界を迎えた国民の「異議申し立て」の象徴として機能したという意味においても無条件で「応援」したいと思えた作品だった。しかしそれと批評家としての作品の評価は別で、やっぱり一人の書き手として、ここは良かったけれどここはそうではなかった、ということは必要に応じてしっかり書かないといけないと思うし、こうしたシビアな検証を経てはじめて見えてくるこの作品がえぐり出してしまったものもあると思うのだ。

毎回このような断り書きをしないといけない時代は本当に貧しいと思うのだけれど、残念ながら今日においては創作物を単純に政治的な正しさでジャッジして「○」か「×」をつけるものだと考えている人や、「みんな」が褒めているものを自分も褒めて「安心」するための道具のようにとらえている人や、パズルのように「伏線」や「裏設定」を読み解くものだと考えている人のほうがマジョリティだ。そういった楽しみ方「も」あるのだと思うけれど、やっぱり創作物を「鑑賞」して「解釈」して、自分の考えを展開する……という楽しみ方「も」あることは、忘れないほうが豊かな文化を育むことができると思う。

そしてそのために僕はここで「異議申し立て」をしたい。僕は端的にこの『虎に翼』は前半のほうが良くできていたし、批判力があったと思う。そして後半は明らかに失速していた。無理やり点数をつけるなら前半は92点だったものが、後半は89点くらいの作品になっていたように思うのだ。たった3点の差だ。全体を通してみると、やはり傑作だったのは間違いない。10月に入って毎朝糸島の風景と橋本環奈の存在を愛でる以外に何もない朝の15分を過ごすようになると、余計にそう思う。しかし、この「3点」にこだわるのが批評であり、この作品が大事にしていた問題提起の力、つまり「はて?」と問う力の行使なのだ。

僕の本作の、特に後半について感じる疑問は大きく分けて二つある。ひとつは以前も取り上げた「家族」の扱いかたで、この作品は他の「生き方」については「自由」を擁護していても、「家族」という枠組みについてはそうではなかったように思う。基本的に本作は「家族」を「社会」のように「嫌でも一緒に居ないといけない不可侵の枠組み」として扱っていたのではないだろうか。

たとえば僕は寅子はユミを東京に残して、新潟に単身赴任したほうがこの作品としては一貫性があったのではないかと感じた。別に「親子」だからといって気が合わなかったり考え方が違う相手と、無理に一緒に居なくていい。そういった物語になるほうが、昭和の男性中心主義的な社会に対しての「抵抗」を描くことで残念ながらあまり進歩していない令和の日本社会も同時に「はて?」と異議申し立てをするこの作品としては一貫してたし、そうあるべきだったように思うのだ。言い換えれば「母」に「ならない」自由について、しっかりと射程に収めて欲しかったように思うのだ。

この寅子の「転勤」問題やこれにまつわる「家族会議」のシーンが象徴するように、この作品は家族を「しっかり話し合って」維持しなくてはいけないものとして描く。これが寅子が裁判官としてコミットする「社会」なら、僕は納得できる。しかし「家族」という自分では選べないものでこのスタンスを取ってしまうと親ガチャに外れた子供の人生は詰んでしまう。だから「家族」というか、「共同体」は「いつでも出ていけるもの」じゃないといけない。後半のクライマックスになる尊属殺の憲法違反をめぐる議論の背景には、こうした近代的な人権観があったはずだ。しかしこの作品は毒親に人生を壊された女性には「逃げてよい」とエールを送る一方で、猪爪家や星家の人々、つまりヒロインの家族にはこの現代的な家族観を適用しないのだ(せいぜい老後の航一が子どもとの同居を選ばない描写があるくらいだ)。

僕は繰り返すが、寅子の家族にこそ胸を張って「解散」のオプションが示されるべきだったと思う。

これに関連してもうひとつ僕が「はて?」と思ったのが大人気のサイコパス女子高生・美佐江の描き方だ。後半の新潟編に登場した彼女は新潟の地にカルトな集団を形成し、窃盗や売春などの少年犯罪を組織的に指導していたことが明かされる。彼女は本作がこれまで維持してきたリアリティから大きく逸脱しており、ほとんど90年代のサイコサスペンスに登場する悪役のようなキャラクターだ(だからこそ人気が出たのだろうが)。

家庭裁判所の裁判官として美佐江教団の起こした事件を担当した寅子は彼女と対峙するが、美佐江を「理解不能」な存在として恐れ、踏み込めない。美佐江の犯罪は立証されず、彼女は東京の大学に進学し寅子の心に「引っかかり」を残したまま物語から退場する。それから20年余りが経ち、物語の結末近くで寅子は美佐江の娘・美由紀と対峙することになる。美佐江は上京後に新潟では非凡だった自分の才能が東京ではありふれたものだった現実に打ちのめされ、自殺していた。美佐江の忘れ形見である美由紀は母の遺書からその若い頃の犯罪歴を知り、母への屈折した思いからその犯罪をトレースしていたのだ。寅子は美佐江の遺書から彼女が自分に救いを求めていたことを知り、当時美佐江を拒絶したことを後悔し美由紀の更生に尽力する。

これが寅子が作中で担当した「最後の事件」なのだが、僕はここで「はて?」と思った。何か大切なものから、この作品は逃げてしまったように思えたからだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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