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作者の仕掛けたゲームを「攻略」する「考察」よりもゲームの成立条件を問う「批評」のほうが僕は読みたい(書きたい)という話

今日は僕なりに「批評」というものについて考えてみたい。結論から述べると、僕は「批評」というのは「考察」というゲームを「攻略」することではなくそのゲームの成立条件を問うことだと思う。

たとえば、この夏に公開された宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』はその劇中の「説明」的な描写を省いた描写や、自伝的な内容によってその「読み解き」が大喜利的に展開された。冒頭の母の焼死のシーンの「意味」とは、主人公の少年が党の中でなぜ大魚をさばくのか、そして「大おじさん」の遺そうとしていた積み木の意味とはなにか……といった「問題」をまるで作者(宮崎)の劇中に散りばめた暗号を読み解くように「大喜利」的に解釈する批評が多数書かれたと思うのだけれど、僕はこういったものは「批評」ではなく「考察」だと思う。なぜならば、それは作者(宮崎)の設定したゲームを「攻略」しているだけで、ゲームそのものの成立条件や快楽のメカニズムに対しては無関心だからだ。もちろん、ゲームをプレイして存分に楽しむこと自体が愚かなことではない。ただ、その表現について「深く」考えることにはつながらず、僕には物足りないというだけだ。

では、僕が読みたい/書きたいゲームの成立条件を問う批評とはなにか。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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