「災害」に備えるために必要なものは「共同体」ではない――『災害ユートピア』と『福田村事件』
先週末に「積読」状態にあったジョニー・オデルの『何もしない』を読んでいたのだが、そこでレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』が言及されていた。どちらも有名な本なので、既知の読者も多いだろうが、僕が引っかかったのはそこでオデルが引用していたソルニットの、この個人化の進行した現代社会こそが真の「災害」であるという主張だ。広く知られているように、『災害ユートピア』は大規模災害のときに人間が本能的に隣人たちと助け合う現象に注目し、考察を加えている。つまり平時は隣に暮らしている人の名前も職業も家族構成も知らないというのが現代の「個人主義化した」社会だが、災害時にはそのような希薄な人間関係であるにもかかわらず、生存と安全のために瞬時に隣人たちの間に共同性が立ち上がる。ここに、人間が本来忘れてはならないものがあるはずだ……というのがソルニットのおおまかな主張だ。つまり、彼女から考えるとこの隣に暮らす人間と基本的に没交渉になってしまう現代社会の文化こそが、真の「災害」なのだ。
そして、僕の文章をよく読んでいる読者はもう気付いていると思うが、僕はこのソルニットの考えに全面的に反対だ(笑)。
少し前に、森達也監督によって映画化された「福田村事件」というのを知っているだろうか? これは、約100年前の関東大震災のときに、今の千葉県野田市の一部にあたる福田村とその周辺の農村で起きた虐殺事件だ。
当時、在日していた朝鮮半島の人々が蜂起するというデマが流れ、暴徒と化した日本人が虐殺を働いたことは小池百合子ほかの困った人々以外は当然知っていると思うのだけど、この福田村でも起きたのだ。ただ、虐殺されたのは正確には半島からの移住者ではなく、四国からやってきた行商人の一行だった。「余所者」への警戒心と偏見に満ちたこの「地域の共同体」の人々は、彼らを蜂起を企む外国人であると決めつけて襲い、妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児をふくむ9名を虐殺したという身の毛のよだつような事件だ。また胸糞が悪いことに、この虐殺を主導したムラの中心人物たちには、その後「恩赦」され、中には村長や村議会議員になった人までいたという。
同じ「災害」に対する反応でも、ソルニットが例示する近代社会の都市災害では隣人たちが手を取り合い、福田村では「共同体」が一丸となって「余所者」を虐殺してしまったのはなぜだろうか?
答えは簡単だ。前者では「共同体」がその地域に存在しなかったからこそそこに「災害ユートピア」が生まれたのだ。そして福田村では「共同体」がしっかり存在していたから余所者を虐殺したのだ。
ここから先は
¥ 10,000
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。