「スマート・シティ」から「庭」へ(「庭の話」#6)
昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第6回目です。3万字ある初回と2回目はいま購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。
1.人間が主役ではない
人間間の相互評価のゲームに最適化された、今日の情報ネットワークのプラットフォームは、私たちの身体から多様性を奪い去る。このゲームのプレイヤーとなったとき、人間(の社会的な身体)は承認の交換を行う器官だけの発達したものに画一化される。そして、画一化された身体から生まれる事物もまた画一化される。加えてたとえ、どれほど多様な事物がそこで発信されていても、相互評価のゲーム上ではネットワーク効果によってシェアされる事物は画一化されていく。20世紀の後半に多くの知性は誤解していた。人間の社会活動を、文化を画一化させるのはトップダウンのイデオロギーだけでもなければ、資本主義のゲームに勝利したメーカーの強欲だけでもない。人間が自分自身であることを確認する快楽に溺れたとき、そしてその承認の交換の中毒になった人間たちが情報技術によってネットワークに常時接続されたとき、私たちはその欲望を追求することでいつの間にか、自らの手で世界を画一化させていくのだ。
では、どうするのか?
人間が人間と承認を交換するだけではなく人間外の事物とのコミュニケーションにある程度軸足を置くことで、そして人間間の相互評価のゲームに支配されたプラットフォームを、人間外の事物とのコミュニケーションが中心となる「庭」に変化させることで内破することがこの連載での私の提案だ。そのためにこの連載では、ジル・クレマン、エマ・マリス、岸由二、鞍田愛希子、鞍田崇、そして井庭崇の議論を参照してきた。クレマンやマリス、そして岸の議論からは多様な事物の生態系を維持し、そこに人間が関わり続ける環境(庭)の条件を導き出し、そして鞍田夫妻と井庭の議論からはこれらの人間外との事物とのコミュニケーションが、人間間のコミュニケーションを相対化する方法(事物を通して「グループ」が「コレクティフ」になる方法)を考えた。そしてその結果として導き出されたのは、人間が事物とのコミュニケーションを通して世界に対する手触りを確認するためには、その対象を自分が関与して変化さえ得ること、つまり広義の「制作」が可能になることが有効である。そのために、鞍田夫妻は「民藝」的な手仕事を応用したケアを、井庭はパターン・ランゲージのインフラ化をそれぞれ実践/主張している。私はこれらの議論を基本的に、そして強く支持する。そしてその支持の立場から補助線を引くのが今回の趣旨だ。
補助線が必要な理由は明らかで、人間が事物を制作することを通じた世界への手触りを確認することは、相対的にハードルが高い。多くの人はタイムラインの潮目を読み、人間間の相互評価のゲームをプレイすることのほうを選ぶことが予測されるからだ。では、このギャップを埋めるためにはどうすれば良いのか。私の提案は単純なのものだ。事物の側から人間にコミュニケーションが取られること。人間が受動的にそれを受け止め、制作への欲望を喚起「させられる」こと。私が「庭」という言葉で脱プラットフォーム的な環境を比喩している理由は実は、ここにある。庭のある家に暮らした経験を持たない読者も多いだろうが、そのような読者でも庭に類するような場所で、住み着いた猫に威嚇されたり、虫に刺されたり、花の匂いに気分を変えられたりした経験があるはずだ。「庭」の主役は、必ずしも人間とは限らないのだ。そして、今日において能動的に人間にコミュニケーションを取ってくる事物は、自然物だけではない。かつて、私は自分の経営する出版社の本の帯にアーサー・C・クラークの言葉をもじり「十分に発展した計算機群は、自然と見分けがつかない」と記した。その本の著者である落合陽一は、こうしたコンピューターに支援された事物の生態系を、「デジタルネイチャー」と呼ぶのだ。
2.スマート・シティはなぜ失敗するのか
ただ最初に断っておくが、たとえば私は「スマート・シティ」といった言葉とその背景にある楽観主義的な技術信仰には軽蔑以上のものを感じていない。むしろスマート・シティという一つの社会実験の無残な屍たちから何を持ち帰るのか、というのが今回の趣旨の一つだ。私の考える「庭」の対極に、この「スマート・シティ」という極めて「プラットフォーム的な」都市は存在するのだ。
そもそもスマート・シティとは情報ネットワークを用いて、都市のインフラストラクチャーが制御され、最適化される都市のことだ。背景にあるのは、IoT(Internet of Things:モノのインターネット)の発展だ。既にはじまっていることだが、21世紀前半には私たちが触れる多くの物品にセンサーが搭載され、その物品がどこに、どのような状態にあるのかを人工知能で制御することが(それが望ましいか、は別問題として)可能になる。これによって、たとえば交通渋滞は実際の車両の通行状況に応じて信号機が自動制御されることで、大きく解消することが期待できる。あるいは、犯罪の多発箇所に警察官を重点的に配置することで、犯罪の高い抑制効果が期待できる。公衆電話は、無料通話のできる端末と無料Wi-Fiを備えたポートに置き換わることで、住人だけではなく旅行客の利便性も劇的な改善が見込まれる。
一見、どれも素晴らしいことのように思える。私も「基本的には」そう思う。しかし2010年代とは世界中の先進的な都市でこのスマート・シティの夢が破綻した10年として後世に記録されるだろう。前述の信号制御はMITの研究者たちが「さよなら信号機」という魅力的なキャッチ・コピーとともに2016年に発表したものだが、このプロジェクトには恐るべきことに人間が街を歩くことそのものを楽しむ、という要素が欠落しており、ボストンのダウンタウンの人通りを排除することではじめて成立するモデルだった。警察官の重点配備については、そもそも解析の対象となったデータの人種的なバイアスが問題になった。白人の警官たちが、黒人や他の有色人種を優先的に検挙するために実際の犯罪発生率とAIの指示した重点配備箇所にズレが生じたのだ。貧しい人々や旅行客に無料Wi-Fiを提供する公衆電話のデジタル・キオスク化は、インフラを提供するGoogle関連会社が利用者のデータを広告利用するマネタイズのモデルが問題化された。一見、個人が特定できない他愛もないデータも、複数を組み合わせることで容易に特定の人物の私生活を丸裸にできる。しかし、この公衆電話のデジタル・キオスク化は特定の私企業にその能力ーーほとんど「権力」と呼んでいいそれーーをロクな法整備もなく明け渡すことを意味していた。そして、その計画はこの問題が外部から指摘されるまで、無批判に進行されていたのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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