2024年衆院選から見えた日本の「変わらなさ」について
衆議院選挙から一晩明けた。勝手に応援していた向山淳さんが(比例復活だが)当選する一方で友人の音喜多駿さんが落選するなど、個人的にいろいろ思うところはあるのだけれど、今回はまだ1日しか経っていないので、選挙戦全体を通して考えたことを書いてみたい。
世間的な注目は次の総理大臣というか、政権のパワーバランスに向かっている。そりゃあまあ、そうだろう。僕ももちろん、そこが一番気になっているのだけれど、それはさすがに10月28日に書いても仕方がないと思うので、少し様子を見たい。そのうえで、僕が考えてみたいのは以下の3点だ。
・選挙という「体育祭」の問題
・(団塊ジュニア男性に多い)「ネットイキリ冷笑系」の弊害
・公明党、共産党の衰退した隙間を埋めるネット系カルト政党の問題
そしてこの3つに共通するのは、実はこの国の「変わらなさ」だ。「どういうことか?」と疑問に思う人も多いと思う。なので、少し長くなるが順番に見ていこう。
昨日僕は津田大介さんの依頼で、浜田敬子さんがMCをつとめる「ポリタスTV」の開票日特番に出てきた。僕は自分は「中道」のつもりだけれど、この番組は少なくとも僕よりは「左派」で、さすがにアウェイすぎるのではないかと思ったけれど、僕を騙してつれてきて人数的にブルボッコにしていじめショーを展開するという演出は、津田さんや浜田さんの人間的にしないだろうと思って出演することにした。
こういうとき、人間的な「信頼」はものを言う。SNSで自分を賢く見せたい(けど能力は足りない)人は、この種の討論番組のコメント欄とかに出没して、借り物の主張をコピペしながら中身は理解できないので、人間関係の話題ばかり気にして、自分もいじめに参加して気持ちよくなるタイプが多いし、そういうコンプレックス層を騙して課金させている独立系メディアもあるのだが、ポリタスTVにはそういう文化は根付いていない(闇落ちしていない)ようで安心した。
しかしまあ、やっぱりいまYouTubeやTwitterで国内政治を扱うと、ちょっとアレな感じの視聴者は湧いてくるもので、リモート出演だった津田さんが見かねて苦言を呈する場面もあった。僕はこの出演の冒頭で、こういったネットで誰かを攻撃して気持ちよくなることの中毒になっている人たちが民主主義をだめにしている、という話をしたのだけど、あまり伝わらなかったように思う。
そもそもこの2024年にXや動画のコメント欄でイキって気持ちよくなっている時点でかなり人生的に厳しいと思うのだが……。もう少し、社会に害を及ぼさないはけ口というか、こういうタイプの人にもう少し健全な自己実現の回路がある世の中にしないと、いろいろまずいのではないかと改めて思った(これは、僕が12月に出す本『庭の話』の裏テーマでもある)。
僕の出演したポリタスTVの番組は、そうでもなかったと思うのだけど、なかには党派性をむき出しにして、自民党や維新や国民民主党が議席を落とし、立憲民主党や左派政党が獲得するたびに大はしゃぎ……という番組もあったようだ。いや、あったかはわからないが、「ポリタスTV」にそういった「左派の集会」を期待して、でも僕がいたせいでそういう雰囲気にならなかったことに不満を持った視聴者はいたと思う。きっと、敵を殴り、その腫れた顔を肴に美味しくビールを飲みたかったのだろうけれど、そういう「いじめ」文化を邪魔できただけでも、出演した甲斐があったあったと思う。
繰り返すが、僕が終始訴えていたのは、そういう体育祭的なノリ(というのは、気を使いすぎた表現で、実際は「戦争」的なノリなのだろう)で敵を殴る快楽で結束すると、これからの民主主義は機能しなくなるということだ。いや、政治の本質は友敵の峻別だ、こうした「闘技」なくして民主主義はむしろ成り立たない……みたいな教科書的な話は僕も知っている。そうじゃなくて、この個人が発信能力を持ち、投稿が「見られる」ことに潜在的なインセンティブを全員が持つ状況下では従来の「民主主義観」のまま政治をやっているととんでもないことになるのでは、と僕はずっと言っているのだ。
実際に、今回の選挙戦の中でも(まあ、あたり前のことなのだが)僕が音喜多駿や平将明といった「左翼ではない」政治家と対談しているという理由で、左派から攻撃される一幕があった。少し調べれば、僕が福島瑞穂と連続イベントをやっていたり、前回の衆院選では落合貴之をいちばん応援していたことはすぐに分かると思うのだけれど、そういう手間はかけたくなく、単に「こいつは叩いても仲間から喜ばれるから問題ない」くらいのことしか考えられなくなっているのだと思う。
と、いうかそもそも政治的な立場が「違う」のだから対談するのだし、政治的な立場が違うと友人としての縁を切らなければいけないという考えも信じられないくらい幼稚だ。まあ、無駄にプライドが高いからこうなってしまってると思うので、本人に言ってもわからないと思うが、人間はうっかりすると情報技術で人を叩く快楽の中毒になり、ここまで堕ちてしまうということは、どれだけ注意喚起しても足りないと思う。
で、僕はやっぱり政治は、というかSNS以降の民主主義は敵チームを倒す「体育祭」ではなく協力して盛り上げる「文化祭」にしたほうがいいと思う。
そもそも今回の衆院選は「裏金」への批判票が野党に流れ込んだのだけれど、僕の考えでは……というか、安倍信者以外はみんな理解していると思うのだが、第二次安倍晋三政権は裏金よりもヤバいことを、安定政権にあぐらをかいてやりまくってきた政権だ。事実上の国政の私物化が行われ、側近のレイプのもみ消しや公文書の書き換えにまで手を染めたのがあの政権だったのだが、「政治とカネ」という、昭和の時代から定番化したスキャンダルの文法にのっとったイシューではないと、有権者の大半(とくに年長世代)が動かなかったのは、さすがに頭が痛くなるものがある。
これは要するに、テレビワイドショー的な極度に単純化された、時代劇の悪者のような存在として特定の政治家を演出するパターンにハマらないと、マクロな投票行動に影響を与えることができないという問題で、これは端的に僕らメディアの人間の「敗北」なのだと思う。要するに、ある程度専門的で複雑な問題を「物語化」して、大衆に届ける能力が欠如し、2024年になっても「テレビ」的なカビの生えたような定番のストーリーに落とし込める問題でしか世論を形成できないのだ。
この問題に拍車をかけているのが、自分探し層というかコンプレックス層によるXのアクティブ利用によって、インターネット世論が形成されて「しまっている」問題だ。この層は学力的にも、精神の成熟度合い的にも「議論」ができず、「敵」を殴り「味方」に頭を撫でられるために極度に単純化された物語の中を生きてしまうことになる。その結果として、「敵」の政治家と評論家が意見交換したらそいつも「敵」としてXで誹謗中傷するという、とんでもない行動に出るのだ……。
しかし、この問題は深く、40代以上で「幸せ」になるというか、自分で自分のご機嫌を取る方法を知らないために「誰かに認められる」以外の生き甲斐がなく、かといって能力も足りないので実力で突破できない人に対する「ケア」のようなものがないと、どんどんSNSで「中毒」になるしかないと思うのだ。
この問題が前述の「(団塊ジュニア男性に多い)「ネットイキリ冷笑系」の弊害」や、「公明党、共産党の衰退した隙間を埋めるネット系カルト政党の問題」につながっていく。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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