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なぜ「パターン破り」はすぐに「パターン化」するのか

先週、PLANETSCLUBのオンライン講座に青田麻未さんに登壇してもらった。テーマは「日常美学」。これはその名の通り日々の暮らしのなかの物事ーーたとえば部屋のインテリアだったり、食事だったり、近所の散歩だったりーーを対象にした「美学」だ。僕はまったくこの分野のことを知らず、少し前に出た青田さんの著作を手に取って、とても考えさせられた。そこで、一面識もないのに公開されているメールアドレスに連絡して登壇をお願いした……というわけだ。

講義の内容(ちなみに、とても充実していた)は会員向けの動画アーカイブで確認してもらうとして、今日は青田さんの講義を通して僕が考えたことをかんたんにまとめてみたい。

まず僕が考えたのは、日常美学における「親しみ」と「新奇さ」の議論だ。この2つの要素が、日常における美的感覚をもたらすという議論を青田さんは紹介する。

たとえば歴史的な建築が近所にあり、そこが生活空間と化していたとき、人間はその建物に親しみを覚えると同時に、日常から遠く離れたもの(歴史)も感じる。こうした一見、相反する運動のサイクルが日常生活を豊かにする……というわけだ。この視点はたとえば、民藝についての議論に応用できるだろう。つまり、「手に馴染む」ことの「用の美」が「親しみ」だとするのなら、それが大量生産される工業製品でもなければ、作家の作品でもない、無名の職人による「手仕事」であることによって与えられるのは、それぞれの土地の自然や歴史とのつながりだ。つまり「民藝」を手に馴染むまで使うことにより、人間はそのモノに「親しみ」を感じながら都市生活の中で失われがちな土地の自然や歴史とのつながりという「新奇さ」も与えられるということだ。

この議論はポップカルチャーがなぜ資本主義の論理のもとに人間の欲望を画一化させることなく、むしろ多様化させる(こともある)のかを考えるうえでも、それを説明する論理を与えてくれるように思う。

要するに、ある欲望に強く動機づけられ、「執着」を抱いた人間は「同じようなもの」を求めていく。しかし、そのために逆に微細な差異に敏感になる。ちょっとしたテイストや解釈の違いが気になって仕方がなくなる。そしてあるとき、自分が自覚していた「こういったものが欲しい」という対象よりも、そこからズレた対象に触れ、「こっちもありか」「いや、こっちがむしろ良いのでは」と事故的に思ってしまう。

ちょっと抽象的なので、具体例をあげよう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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