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「教育」の基本は「親ガチャのキャンセル」と「外の世界につなぐ」こと

来月、PLANETSから(つまり、僕のプロデュースで)白井智子さんの『脱学校論』が出版になる。白井さんについては、広く知られているように日本にフリースクールという制度を根付かせたパイオニアといえる存在で、この本は彼女が30年の経験の中で考えてきた教育論の集大成だ。今の日本の公教育のどこがダメなのか、現場で何が起きているのか(未だに続く「管理教育」の弊害、「親ガチャ」格差、塾依存の受験指導、教員の労働環境のブラック化……などなど)、システムのボトルネックはどこにあるのか、そしてどうすればこの状況は改善するのか。もちろん「魔法の杖」はなく、体制の「中」と「外」から同時に、しかし猶予なく急いで攻めていくしかない……そんな覚悟と、具体的な提案がまとまっている一冊になっている。「教育」というものに関心がある人なら、ぜひ一読して、そしてこのプランがよりよいものになるように議論に参加してほしいと思う。

さて、その上で今日は僕なりに「教育」に対してどう考えているかという「そもそも」論の話をしたい。端的に僕が教育に望むことは「親ガチャのキャンセル」と、「外の世界」との接続、この二つだ。

そもそもの問題として、僕は子どもはあまり両親に育てられないほうがいいと思っている。「三歳児神話」あたりのオカルト性はよく話題になるようになったが、そもそも現代において多くの場合現役世代となる生物的な両親が中心的に子どもを育てる……という発想に無理があると僕は考えている。これについては、近代以降の核家族化により、むしろ子どもは両親、取り分け「専業主婦」が中心に育てるようになったにすぎない……といった歴史的な視座に基づいた批判もあるが、むしろ僕が考えているのは、現実的に少子化に歯止めをかけるとしたら、現役世代は「ただ生んで、可愛がるだけ」に限りなく近づけるしかないのではないか、ということだ。もちろん、少子化に歯止めをかけることが「正しい」とするなら、だが。

また、実際に社会の変化の速度がここまで上がったとき、両親が子供の進路などについて具体的なアドバイスをすることは、かなり難しくなる。実際に僕の両親は、「批評家」とか「独立系のメディア運営」という職業が成立することをまったく想像できなかったはずだ(実際に「医者か役人か教師になってほしい」と言われて育ってきた……)。そしてこの「ジェネレーションギャップ」は年々広まることはあっても縮むことはないだろう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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