人間は「公共」の場では、むしろ「何者でもない」存在として扱われるべきなのではないか、という話
昨日、今日と「楽天大学ラボ」の取材で小杉湯の三代目、平松佑介と久しぶりに対談した。小杉湯は90年近く続く高円寺の銭湯で、長く地域の人々に愛されている。それに加えて三代目に代替わりしてからは現役世代をターゲットにしたイベントなどで熱心なリピーターを増やし、都市論の文脈でも注目を浴びている。
僕もコロナ禍の少し前から小杉湯の活動に注目し、度々平松とも対話を続けてきたのだけれどこのタイミングで大きく取り上げたのは無論、原宿にこの春オープンした商業施設「ハラカド」地下への出店のためだ。
「小杉湯」を継承した平松(三代目)のアプローチは、端的に述べれば銭湯の価値の再発見であるとまとめることができるだろう。一般的なイメージとは異なり、銭湯には「人情下町的な温かいコミュニティ」があるのでは「ない」という。客同士のコミュニケーションは常連同士が、せいぜい目礼するくらいが関の山で、大体の場合は「あ、いつもいるな、あの人」と内心感じるだけだ。しかし、それでいい、いや、それ「が」いいのだと平松(三代目)はいう。これくらいの距離感で、同じ街で住む人と裸で接して「排除されていない」ことの生む安心感ーーそれが「銭湯」の価値なのだ。
これは一見、他愛のないことかもしれない。しかしSNSプラットフォームがコミュニケーションの基盤になっている今日において、こうした単に「排除されていない」ことを自然と確認できる場所と、そこで生まれる中距離のコミュニケーションが相対的に希薄になり、それが現役世代の銭湯「回帰」につながっているのではないかーーそれが平松(三代目)の考えだ。そこに発生しているのは特定の個人として、つまり共同体のメンバーとしての承認や市場におけるプレイヤーとして評価でもなく、ただそこにいることだけが許されていることの与える安心感のようなものだろう。
共同体からの承認、市場からの評価はともに人間に「何者か」であることを要求する。対してSNSプラットフォームの与えるものは、この「承認」や「評価」に先鋭化している。しかし人間はその反面、何者でもない(裸の)存在として肯定、いや、肯定未満の「許容」こそを必要としているのではないか。銭湯「的な」場所の与える安心感とはそのようなもののはずで、それはいま、情報技術が否応もなく私たちを「何者か」にしてしまいがちな現代において、実空間がより強く担うべきものになっているのではないか。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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