人間はなぜコワーキングスペースよりカフェで仕事をしたがるのか
今日は「オフィス」というものについて考えてみたいと思う。
コロナ禍のころ、世界的にリモートワーク化が進行して、はっきり言って嬉しかった人がかなり多かったように思う。
そもそも「通勤」の時間的、労力的なコストは大きいし、管理職や経営者、オーナー、あるいはコミュニティの中心人物を除けばそこは自分が相対的に劣位に置かれる場所なので、「仕事」をするにしても積極的にそこに「居たい」という人は少ないだろう。
いや、そんなことはない。ウチの会社は「遊ぶように働く」をモットーに居心地の良い内装と美味しい社員食堂と、飲み放題のクラフトビールを揃えて……とか言い出したくなるビジネスマン(笑)もいるだろうが、僕が言っているのはそういうことじゃなくて、単に「舞台」は主役や重要な脇役には居心地は良くても、端役や悪役にはそうではない、ということなのだ。
あなたの身の回りに、「やっぱりオフィス(と飲み会)がないと生産性が」とか言っている管理職や経営者やオーナーがいたら、会社の地位を盾に弱い立場の人にドヤ顔しないと生きていけない「さびしいおじさん」か、単に共同体の隅にいる人間のことを思いやれない人並みの繊細さを欠いた人間だと軽蔑すればいいと思う。
もちろん、「出社」して「オフィス」を共有するメリットも存在はする。たとえばオーナーや経営者が「仮想敵」の悪口を吹き込んでカルト的な洗脳を行うには、オフィスや飲み会の存在があったほうが「効率がいい」。要するに、いじめややりがい搾取で「コスパ」を上げたいオーナーや経営者にとってオフィススタッフが「出社」することは、決定的に重要だということだ。まあ、もう少しマイルドに言えば支配層のコントロールを徹底するためには、オフィスにスタッフを集めたほうが効率がいいのは間違いないだろう(僕は軽蔑しか感じないが)。
まあ、この種の「さびしいおじさん」の害悪とそのケアは横に置いて置いて、今日書きたいのはオフィス「ではない」場所で「働く」ということについてだ。
昨日の記事で、僕はもはや「消費」(具体的には買い物や外食)が、共同体から一時的に切断された個人同士を接触させる場所(つまり「公共」性を培いう場所)としては、かつてのようには機能「しない」という問題を取り上げた。
では、どうするか。先に結論を述べてしまうと僕の考えでは、いま、都市がもっとも担うべき機能の一つであり、かつ個人と個人が触れ合う回路としてもっとも機能することが期待できるのは「働く」場所だ。そして当然それは会社の「オフィス」ではない。既に多くのワーカーがラップトップをカフェで広げているが、僕たちは「働く」時間を過ごす場所をいまオフィスの「外」に求めている(「さびしいおじさん」以外は)。
具体的に解説しよう。
まず、日本の住宅事情では都心であればあるほど夫婦がともに自宅で仕事ーー特にリモート会議ーーをすることが難しい。と、いうかそもそも今日のLDKという間取りのフォーマットは居住者が「家で仕事をする」ことを想定していない。
そのため、多くのリモートワーカーがカフェなどで仕事をする。しかしそれに相応しい環境(電源、リモート会議が可能な周囲の「音」など)をもつカフェは限られている。そのため、居心地の良いカフェの席はエリアによっては争奪戦になる。
これは一見、他愛もない問題だ。しかし僕はここに、これからのまちづくりの最大のヒントがあると思う。
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