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『新宿野戦病院』と「雑さ」の問題

先日完結した『新宿野戦病院』は、ここしばらくのクドカンこと宮藤官九郎作品のなかでもっとも彼の持ち味がポジティブに発揮されたものだと思う。

しかし実のところ、僕は危うくこのテレビドラマを「1話切り」するところだった。それは初回の印象があまりよくなかったからだ。実はここ数年クドカンドラマのあの「クドカン喋り」が苦手になってきた。『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』のころはあの、あれだけ気持ちよかったハイテンション&早口のセルフツッコミが、2020年代に入ったあたりからいよいよキツくなってきた。それは2010年代半ばくらいから徐々に起きていた変化なのだと思うけれど、『新宿野戦病院』の第1回はそのキツさ、サムさが凝縮されていたように思う。

なぜ「クドカン喋り」がキツくなってきたのか。理由はいくつか思いつく。まずはこのセルフツッコミがクドカンの功績もあり普及してしまい、飲み会を仕切るのが好きなタイプの自分では面白いつもりのヤツ、つまり今どきテレビバラエティ的な笑いを面白いと思っちゃってるような人の話法として定着してしまった結果、むしろサムさの記号になってしまったことがあげられるだろう。

もう少し踏み込めば、『あまちゃん』に登場するあの「喫茶リアス」のコミュニティのような、共有できる「ネタ」で(この場合は80年代のテレビ文化で)クスクス笑いを共有する安心感で政治的なこと、経済的なこと、そして歴史的なことを「忘れたふりをする」という昭和後期-平成初期的な成熟のモデル、「大人のなり方」が今や完全に破綻しているために「サムく」見えるのも大きいだろう。

しかし第2話以降を見進めていくうちにこの「サムさ」はあまり感じなくなっていった。基本的には演出や演技がこなれてきたためだろうが、同じくらいこの作品が「クドカンぽさ」がサムくなってしまった原因の一つである社会との距離感について、自ら問い直している作品であることに気づいていったことも大きいだろう。

この2020年代は「政治化」のフェイズだ。

気がつけば団塊ジュニアも50代になり、若いころ自意識のことしか考えてなかった「サブカル」たちは加齢で社会不安に晒された結果Xのタイムラインに流されるままに左翼になり、ロボットと萌えキャラのことしか考えてこなかったオタクたちはプライドを維持するためにネトウヨや冷笑系になって強い側に味方して弱いものに石を投げることで溜飲を下げている。

この2020年代において、前者の「サブカル」的態度を貫き通すという選択、つまり『あまちゃん』のころのクドカンの態度はあまりに弱い。『あまちゃん』が赤字まみれの第3セクター鉄道運営を礼賛し、原発(の象徴する地方の疑似植民地化)問題に沈黙し、80年代テレビ文化への回帰を訴え、視聴率と引き換えに批判力を失ったのはこのためだ。本当に必要なのは昭和の破綻したモデルを「復旧」することではなく、これから地方が自立するモデルを「つくる」ことなのは明白だったのだけど、クドカンと喫茶店リアスの常連たちはクスクス笑いの共有で現実を「やりすごす」ことを選んだのだ。

こうしたクドカンの態度が不意に政治的なメッセージとして表出してしまったのが『不適切にも程がある』だった。現代的な人権感覚へのアップデートの必要性を認識しながらも、「ポリコレ」的なアプローチには苛立ちを隠せない。そんな「飲みニケーション世代」のおじさんの「ホンネ」を巧みにエンターテイメントに昇華……仕切れない部分が反発を生んだのが同作だった。

では、この『新宿野戦病院』はどうか。ここでクドカンは「雑さ」という価値観を提示している。

この物語はその名の通り、新宿歌舞伎町の病院を舞台にしている。そして舞台となる病院には、頻発する事件や事故によりかつぎこまれる怪我人や病院が次々と運び込まれてくる。他の病院で受け入れを拒まれる外国人や家出した少年少女、ホームレスなども構わず受け入れる。それは主人公の日系アメリカ人医師(ヨウコ)がもと米軍の軍医であり、彼女は戦地の経験からあらゆる人間を区別なく治療することをモットーにしているからだ。

このときヨウコは自身の掲げる「区別のなさ」を「雑さ」と形容する。この「雑さ」こそが本作の主題だろう。ヨウコは意識を高くもち、人間を差別してはいけないと考えているのではない。ただ目の前にいる怪我人や病人には無条件に手を差し伸べるべきだと、「雑に」考えているにすぎない。しかしこの「雑さ」こそを、豊かさとしてこの作品は提示するのだ。

なぜならばここで「雑に」考えないと、どうしても別の問題が侵入してくるからだ。

社会に対して「有用な」人材を優先すべきだとか、真相解明のために事件のキーパーソンだけは助けないといけないとか、そういう問題だ。そしてこういう問題を突き詰めて考えれば考えるほど、誰をどういう理由で優先すべきだという「区別」が、もっと言えば「政治」が侵入してくる。しかし、この作品はときには「雑に」構えることで、この「区別」=「政治」が機能しない領域が必要だという価値観を提示するのだ。それも、このようなメッセージを物語として訴えるだけではなく、それ以上に作中の歌舞伎町とそこに生きる人々を生き生きと描くことで訴えている。

この物語に登場する歌舞伎町の人々は、ホストもパパ活女子もホームレスもみんな、生き生きとしている。ここには「政治」が機能しない「雑さ」だけが保証する多様性と、それを背景にした幸福感がある。これはクドカンからの、この2020年代における「政治化」へのひとつの態度表明だろう。

この「雑さ」の必要性には、説得力がある。それがこの作品の魅力を支えている。90年代の「サブカル」が、安易で記号的な「心の闇」の描写のためにとりあえず露悪的なセックスとバイオレンスを描いていた時代のアプローチとは異なっている。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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