21世紀の〈グレート・ゲーム〉ーー疫病と戦争とプラットフォームの時代を、100年前の視点から考える
グレート・ゲームと『全体主義の起源』
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』(1951)で「グレート・ゲーム」という概念について論じている。「グレート・ゲーム」とは19世紀における英露の植民地争奪戦のことで、『ジャングル・ブック』で知られるイギリスの作家ラドヤード・キップリングの小説『少年キム(英語版)』(1901年)により広く使われるようになり、なかば歴史用語として定着したものだという。
アーレントはこの「グレート・ゲーム」に注目する。
イギリスの帝国主義を駆動したものは、人種差別的なイデオロギーではなく官僚制だとアーレントは指摘する。官僚制のイデオロギーとは、自分たちのような優れた官僚組織によって管理されることではじめて、社会は成立すると考える。
植民地の官僚制と『少年キム』
アーレントはここでむしろ、こうしたイデオロギーから生じる責任感に注目する。自分たちは、この土地の人々に責任がある、他のヨーロッパ(ロシア)を駆逐する必要があるのだ、と。こうして、官僚制はグレート・ゲームに価値を見出す人々を生むことになる。
そして、グレート・ゲームへの責任感に基づいた参加はナショナリズムを超える。それはその人に、自分は母国のためではなく、この土地への責任を果たしていると考えさせるからだ。これがイギリスの帝国主義者たちの自己正当化に寄与した(とアーレントは考えた)。
次の段階として、植民地のヨーロッパ人たちの間に定着した〈グレート・ゲーム〉は一人歩きを始める。アーレントはこの現象のメカニズムを、キップリングの『少年キム』の分析を用いて説明する。
アーレントはこのキム少年の冒険が読者を惹きつけたのは、彼が「ゲームのためにゲームを愛した」からだと述べる。アーレントは、近代を「人間がもはや人生のための人生を生き、人生のための人生を愛するだけの力を奮い起こせなくなった」時代だと診断する。そして、近代人たちは人生に意味を求める。近代人とはこのような「醒めた意識」をもつために、「情熱的な生の充実感」を求めている。そして、アーレントはキムの物語には、このような切実な欲望に応える構造を見出していく。
「ゲームのためにゲームを愛する」ということ
『少年キム』ではイギリス人のスパイとインド人のスパイが人種を超えた兄弟として共に戦う。彼らの目的は金銭でも出世でも、ましてやナショナリズムでもない。彼らの目的は、敵国によって自身に懸けられた賞金の金額というゲームのスコアだ。
このスコアは何ものにもーー金銭にも地位にもーー換えることはできない。そして彼らは一様に「名をもたず、その代りに番号と記号だけをもつ」ことを幸福とする。そうなることで、彼らは「他人の中にいるただひとりきりの人間」であることから解放される。
〈グレート・ゲーム〉に参加することで、彼らは匿名の存在となり純粋にスコアという報酬を目指してプレイすることになる。
このとき〈グレート・ゲーム〉は、俗世間の価値から人間を開放し、生そのものを肯定してくれる装置として機能する。そして、このゲームのためのゲームには「終わり」がない。彼らの目的はゲームをプレイし、スコアを上げること、それ自体だからだ。キムの物語が体現する〈グレート・ゲーム〉は現実的な利害を超えた価値をもつ装置なのだ。
プラットフォームと相互評価のゲーム
僕が突然、かつての帝国主義についてのアーレントの分析を持ち出したのには、理由がある。それは、今日のインターネットが、SNSのプラットフォームによって閉じた相互評価のゲームと化したとき、人々はアーレントの述べる〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーに限りなく近い存在になるように思えたからだ。
そのゲームの価値そのものは、プレイヤー一人ひとりの発信がほんの少しだが、しかし確実に世界に影響を与えると信じられることによって保証されている。それが民主主義に結びついているときは特にそうだ。
そして、この絶対的に価値が保証されたゲームをプレイしていると、人々は次第にそこに発生するスコアの虜になっていく。自分の発信が他のプレイヤーから評価されることで発生する承認の快楽の中毒になっていく。そして、発信の目的は世界に影響を及ぼすことではなく、承認の獲得になっていく。
気がつけば、問題の解決や問い直しではなく、どのように回答すれば他のプレイヤーからの関心を集めることができるかだけを考えて発信するようになる。こうして、人々は自分たちがプレイしているゲームが、世界に何をもたらすかを考えなくなる。
そしてこのゲームへの中毒的な没入が、人々(植民地に生きる人々)を帝国主義に無自覚に邁進する存在にしていったとアーレントは指摘する。(ココ重要)
その存在が世界に確実な影響を与える大規模なゲームに、匿名のプレイヤーとして参加したとき、人間はゲームの攻略が、高いスコア(賞金)を上げることが手段ではなく、目的となる。そのために、そもそもこのゲームが何を目的に運営されているかには関心を払わなくなる。自分たちが依存する国家や、その背景にあるイデオロギー、加担しているシステムなどゲームの外部には関心を払わなくなる。
アーレントの考えでは、人々のゲームのプレイを通じた、生の実感への欲望の追求こそが、帝国主義の拡大の原動力に他ならないのだ。
帝国主義下の植民地官僚と現代人の共通点
近代社会において、人間はその人生に意味を求める。しかし、インターネット(特にWeb2.0)の夢が、たとえ発信する能力が与えられても発信するに値するものを持っている人間は一握りしかいないことを明らかにしてしまったように、人間一人ひとりの生に意味を求めることは、逆に人々を追い詰める。
人間の大半はネジや歯車のような、匿名の部品に過ぎない。その生に意味を求めてしまうからこそ、近代人は自己が入れ替え可能な存在であることに苦しむ。そしてこの皮肉な現実を理解し「醒めた意識」をもつ人間こそが、その生に意味ではなく「情熱的な生の充実感」を求めるようになる。
そしてあえて匿名のプレイヤーとしてゲームに参加し、ゲームを攻略した報酬ではなく攻略する快楽そのものを求めるようになるのだ。
今日のプラットフォーム上のゲームを、個人としてプレイする人々の多くが、おそらくアーレントの指摘した〈グレート・ゲーム〉に埋没した植民地下のヨーロッパ人たちと同じ状態にある。
Anywhereな人々とSomewhereな人々
イギリスのジャーナリストのデイヴィッド・グッドハートはブレグジットを分析した『The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics 』(2017年)で、世界はAnywhereな人々(どこでも生きていける=グローバル化に対応したクリエイティブ・クラス)とSomewhereな人々(どこかでないと生きていけない=対応できないそれ以外の人々)に二分されている。そしてブレグジットはSomewhereな人々のAnywhere
な人々への反乱であり、つながりすぎて、ひとつになりすぎた世界をもう一度、ばらばらにしたい、という訴え(そのため排外主義とも結びつく)というのがその診断だ。同じことが同年のドナルド・トランプのアメリカ大統領当選にも結びつく。比喩的に述べればシリコンバレーのアントレプレナー(Anywhere)に対して ラストベルトの自動車工(Somewhere)が反乱を起こしたのだ。
このときSomewhereなラストベルトの自動車工はオバマケアを廃止するトランプを支持した。それはなぜか。理由はそれが実のところ経済ではなく、承認の問題だからだ。
グローバル資本主義というゲームのプレイヤーにはなれないSomewhereな人々が唯一社会変革に参加できるのが民主主義だ。そのため、Somewhereな人々はより切実に自分も世界に関与できるという実感を求めて政治に参加する。そしてその切実さと結びついたのが、今日の情報技術なのだ。
21世紀のグレート・ゲーム=グローバル資本主義?
Somewhereな人々の大半は、ネジや歯車のような生に耐えるため、承認の交換を求めて相互評価のゲームをプレイする。そしてその低コストな承認の交換のもつ中毒性で考える意志と力を失い、タイムラインの潮目を読むだけの存在と化す。その結果として彼らはAnywhereな人々に動員され、換金されていく。
そしてこのようにSomewhereな人々を中毒にして換金するプラットフォームの運営者たち=Anywhereな人々もまた、皮肉にも同じ構造の罠に陥っている。
なぜならばアーレントの指摘した19世紀の帝国主義の推進力となった拡張すること自体を自己目的化した構造は、Anywhereな人々のプレイする金融資本主義のゲームにもまた備わっているからだ。
1980年代初頭では、金と株(グローバル化株式のインデックス)との価値はほぼ同じだったが、年々株の価値の上昇速度が圧倒的に速くなり今日においてはその価値に10倍以上の開きがある。この事実は、現代の金融資本主義のゲームは、未来においてその規模が拡大する可能性にこそもっとも大きな価値が与えられることを示している。
言い換えれば金融資本主義とはそのプレイヤー(主に株式会社)に想定される未来を計算して、現在の値付け(株価)に置き変える思想だ。
予測される未来におけるプレイヤーの生み出し得る価値と、成長の速さ、そしてその事業が実現する成功率との掛け算で価値が決定される。この思想は多くの若いプレイヤーたちに挑戦のチャンスを与える一方で、ここに深刻な、大きな罠を備えている。
これはゲームの規模が拡張することそのものが目的化されたゲームだ。そこではたとえば「遅さ」のような価値は顧みられることはない。
アーレントの述べるグレート・ゲームの構造は、今日の情報技術と金融資本主義との結びつきの中で、二重化されている。Somewhereな人々は、唯一世界に触れる実感を得る装置としての、相互評価のゲームに埋没する。他のプレイヤーから評価を受け、承認されること自体が目的化し、発信の内容はその手段でしかない。そしてSomewhereな人々をゲームに埋没させることで、政治的、経済的に動員し収益を上げるAnywhereな人々もまた、拡大することそもものを目的とした金融資本主義のゲームに埋没し、そのゲームそのものの目的を度外視し始めているのだ。
したがって民主主義への信頼を回復するためには、この相互評価のゲームを、ゲームに参加することによる生の実感の獲得そのものを克服するしかない
では、その手かがりはどこにあるのか?
アーレントの『全体主義の起源』には、もっとも「きれいな手で〈グレート・ゲーム〉に加わった」とされる人物が登場する。そして僕はその手がかりをこの人物の生き様から考えてみたい。
その人物とはトーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)。第一次世界大戦でイギリス軍のスパイとしてアラブ反乱を支援、中東戦線のゲリラ戦で活躍した人物、通称「アラビアのロレンス」ーー。
ロレンスの「もっともきていな手」で行われたゲームプレイとは、どういうものだったのか。そして、彼は(僕からしてみれば)そこで失敗しているのだが、その失敗はなにによってもたらされたものなのか。それを問うのが、僕がこの2年間書き続けていて、そして今日(10月20日)発売になる『砂漠と異人たち』という本だ。この21世紀のグレート・ゲームをプレイする(させられている)僕たちが、未来をつくるための手がかりを、僕は100年前のアラビア半島に求めた。ロレンスの走った、あの砂漠と僕たちの生きる情報社会は確実につながっている。そこに何が待っているのかは、ぜひこの本を読んで確かめてもらいたい。
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。