「他の仕事をしながら物書きも仕事にする」兼業物書きが増えることが、世界を少しは(しかし確実に)浄化するのではないかという仮説について
今日は久しぶりに、出版人として考えていることを書きたい。僕がこれからの出版界で変えたほうがいいと思うことが、二つある。
一つは、人間関係至上主義だ。これはいつも言っている通りの「飲みニケーション欠席裁判文化」と言い換えてもいい。これは正確には出版業界の問題ではなく、日本社会そのものの問題でもあり、そして僕のかかわっている(いた)批評や思想、言論の世界が特に酷いということなのだと思うが、いまだに昭和的な陰湿なイジメ文化が大きく残存してしまっている。表面的には「利他」とか「ケア」とか「贈与」とか、耳障りのいいキーワードを連発している人間が、裏では敵視する人間にはデマを流して中傷したり、イジメぬいて潰そうとする業界のジャニーズみたいな連中とつるんでいたり、媚を売って得をしようとしている……なんてことも珍しくない。そして業界全体が「業界なんてそんなもの」と考えていて、この問題を軽視している……という終わっている現実がある。
そしてもう一つが、これを背景にした「文脈主義」の問題だ。要するに書き手と編集者、そしてコアな読者にとってボトムアップに「界隈」が(今日においてはすぐに)醸成される。そこには共同性が立ち上がる。そして共同性は「敵」がいると効率よくメンバーシップを確認できて、「界隈」の人たちは効率よく承認を交換できる。前述の「いじめ飲みニケーション」がいまだに一部では活発に行われているのはこのためだ。
そして、こういった共同体の内部では「敵」の人権は考慮されない。たとえば、長いインタビュー記事などではその人の発言の前後を切り取ってしまって、スキの多い「炎上させやすい発言」を引用することは悪意と卑しささえあえれば(知性そのものは高くなくても)それほど難しくない。そして共同体の中ではそうした「燃料」は歓迎される。そしてその人は「敵を燃やした」ことで株を上げ、「界隈」の住人は集団リンチの快楽を手にする。この手法は、2010年代のある時期から、物書きの売名手法として半ば定着したようにも思う。
この延長に、以下のレジーさんとの対談で指摘した「いじめマーケティング」の問題がある。
要するに、何が言いたいのかと言うと、こうした「敵味方を確かめて、自分たちを慰める言説」のほうが、今日のSNS社会ではマネタイズしやすいとうことだ。しかしここに流れていってしまうと、建設的な議論や歴史に残る仕事はどんどん遠ざかっていってしまうと僕は思うのだ。僕はこうした「界隈」を慰めるために誰かに石を投げる書き手とその編集者が、正しく軽蔑されるべきだと思っている。これは一般論だけれど、端的に言って「界隈」の「状況」を語って「自分たち」を持ち上げている話者は、信用すべきではないだろう。
その上で、結論から述べれば僕は「他の仕事をしながら食べていく」人が増える(それが可能な環境をもっと整備する)ことが、状況をかなりマシにするのではと思っている。
言い換えれば僕が必要だと思うのはこうした「卑しい仕事」をしなくてもちゃんと「食べていける」仕組みづくりだ。そしてそのための「近道」の一つが、「他の仕事をしながらものを書いていくこと」だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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